第1章 第3幕 The second case
ある日のことだ。
データベースを覗き込んでいた和田が、不意に呟いた。
「何年か前、クリスマス・イブ一家殺人ってありましたよね。未解決の」
皆が顔を上げる。
「2年前の、あれか?」
その事件は、2G-99事件ファイルと呼ばれている。
2年前の冬、12月24日深夜。
都内で一家が襲われ、両親と子供の家族5人が亡くなった事件だ。
クリスマスツリーが綺麗に飾られ、サンタクロースの服を着ていた父親。対照的に、十字架に磔にされ、左胸に刃渡り数十センチの刃を突き立てられた母親。プレゼントを手に握った子供たち、という惨状で5人は見つかった。
全員が絞殺で、現場に残された指紋はなく、犯人の遺留品は一切見つからなかった。下足痕すら明確なものが見つからず、周辺の防犯カメラにも犯人らしき人物は映っていなかった。
当初、妻の遺体状況を重視した警視庁は、妻に恨みを持つ者の犯行と断定し、捜査を開始した。
クリスマス・イブというイベント当日でもあり、街の中は賑わい、人出も多かったはずだ。近隣に聞き込みをすれば、何らかの動きがあると思ったのだろう。
妻は銀行員で、異動こそあったものの、結婚するまでは浮いた噂も無く、結婚に至った。
夫は小さな会社を経営しており、周囲では金に困った様子は見受けられなかったという。
あるとき遠隔地に異動命令の出た妻は、それを機に銀行を退職し、遠隔地に行かず同行のパートとして働いていた。
捜査線上に浮かんだ妻の知り合いの男性陣には、悉くアリバイが成立し、すぐに捜査は行き詰った。
聞き込み範囲を会社経営の夫近辺まで広げたが、それでも目ぼしい容疑者が現れることは無く、通りすがりの猟奇的殺人ではないかとの見解が主流となり、並行しての目撃情報の聞き込みも範囲を広げた。
それも空振りに終わり、現在に至っているのが実情だった。
「あれって、本当に通り魔だったんでしょうか」
和田が、どうにも腑に落ちないと言った表情で弥皇を見る。
「どうしたのさ、急に」
ちょうど、データベースから離れ珈琲をマイカップに入れていた弥皇が和田に聞く。
「事件の現場ですよ」
「現場?」
「通り魔サイコパスの犯行と仮定して、僕には理解できないことが多すぎて」
和田の講釈によれば、子供へのクリスマスプレゼントが理解できないと言う。クリスマスのプレゼントは必須アイテムだから、父親のサンタクロース姿はある程度、意味づけが有る。
その場合、母親の十字架磔は関連性が無い。これが父親ならイエス・キリストを模したものと考えられるが、母親に対する凶行は意味をなさない。聖母マリアやマグダラのマリアでさえこのような刑罰は受けていない。
磔の聖マブラとその夫など、およそ一般市民の知らない人物なら女性の磔もあったが、著名人の磔がない。
となれば、妻を十字架に吊るしただけなのか、本当に磔にしたかったのか、2つの心理的行動にして、その意味は全然違うものとなる。
妻が不倫をしており、相手の男性が不倫相手を磔にした、或いは何処かで別の女性に恨みをかっての磔なら、そこには悪意が蔓延しており、夫にわざわざサンタの服など着せるわけもない。
男性は、不倫相手の夫など、なるべくなら見たくないものだ。男性の憎しみターゲットは、非力の女性である場合が多い。
反対に、夫が不倫していたとしよう。
不倫相手である女性は現場を混乱させるため、不倫相手である夫にサンタの服を着せるかもしれない。女性が憎しみターゲットとするのは男性である夫ではなく、女性である妻であることが多い例から見ても、妻に刃を向けることもあるだろう。
それにしても、刃を向けた相手を磔にするなど、女性一人の力では難しい。
その証拠に、データベースの資料では妻の身体には引きずったような跡が見受けられないという。あるのは、死亡の原因となった首元のロープ跡と胸の刃だけである。刃の跡は包丁だったようだが、科捜研の調べだと、生活反応がない、いわゆる落命後の仕業だという。
と、ここまでは、一般人の心理でモノを語った場合である。
これがサイコロ課のサイコロ人の見立てだとどうなるか。
まずもって、一般に通り魔と呼ばれる殺人の場合、一種独特の供述が得られる。
「自分を受け入れてくれる人がいなかった」
「親と折り合いが悪かった」
これらの中には脳の器質異常もあるだろうが、家族構成や家庭内環境など、他人には分からない悩みなどを抱えている場合も、往々にしてあるものだ。
「人を殺してみたかった」
過去には、人肉を喰らう目的で女性に近づき、知り合いになったところで女性を食事に招待し、そこで凶行に及んだ例は実在する。そういった、凶悪と言うよりもどこか薄ら寒い事件は、流石にサイコパス的要素の強い事件でもある。
サイコパス達は、あっけらかんと殺害目的を口にする。
和田の論理からすると、己のアリバイをきちんと構築できる犯人はサイコパスらしくない。そもそも、サイコパス達が完璧な殺人を犯す例は少ない。自分では完璧なつもりが、どこかに見落としがある。
サイコパスの行動原理とは何なのか、不明な箇所も未だ残っているのである。
ふとした悪意と、ふとした殺意。
クリスマスという聖なる日に擬えた悪意は、時間を掛けて劇場型犯罪を行い、2年も見つからずにいる。
いや、サイコパスだからこそ、何食わぬ顔をして生活しているのかもしれない。己の犯罪に酔いしれながら、このまま逃げ遂せるつもりでいるのだろうか。
◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇
「なんか、引っ掛かるな。その光景を思うと」
弥皇が、コンクリートむき出しの事務室内で冷ややかな佇まいの天井を見ながら、さも当時の光景を浮かびあがらせるように呟く。
和田が反応した。
「何がです?弥皇さん」
「磔って、いかにも悪いイメージに思われがちだけど、イエス・キリストを模した可能性もあるかなって」
「蘇るってことですか?」
「或いは」
離れて座っていた佐治が、机に頬杖を突きながら、弥皇と和田に手を振っている。
「俺の家では、ツリー飾ってピンポンダッシュして、子供にプレゼントあげてたぞ」
皆、異様な顔つきで佐治を睨む。
「何ですか?ピンポンダッシュって」
「文字どおり、ピンポンダッシュだよ」
佐治によると、佐治妻からの提案で昔行っていたクリスマスイベントだという。
プレゼントをあらかじめ準備して、妻と娘と3人、家族全員でリビングにいる。
母親が、子供を2階に連れて行く、何かしら理由を付けて。一種の気を逸らす方法である。その間に父親はリビングの窓からダッシュで外に出て玄関先にプレゼントの箱を置く。
そしてインターホンを押してダッシュで窓からまた家に入り、『誰か来た見たいだね、行ってみようか』となる。
そこで子供はサンタさんが家に来たことを知る、という寸法なのだそうだ。
弥皇が呆れた顔をする。
「凝り性ですからね、佐治さんは。奥さんも良く協力してくれましたね」
「妻の提案だから。俺はサンタ役を演じていただけだ。課長んとこはどうでした?」
「うちは子供いないから、わからん」
「サンタっていえば、サンタから手紙が届くようなイベントありますね」
「ああ、本場から届くとか。子供にしてみれば夢のような出来事かもね」
「大きくなって、事実を知った時の衝撃は大きいだろうなあ」
「その前に、こんなもんだなって思うわよ、今の子供なら」
麻田はガキの頃から夢の無い少女だったのだろうな、と佐治と弥皇が口を手で隠しながら、こそこそと呟いている。
和田の、むっとした声が響く。
「僕のいうこと、聞いてます?」
皆が和田の方を振り向く。
代表して、市毛課長が謝った。
「悪い。サンタ談義に興じてしまったよ。で、磔が不自然だと思った捜査一課の連中は、サイコパス説を捨てて奥方関係を洗ったけど、何も出てこなかったんだろう?」
「はい、そのようですね」
弥皇が、考え込んだ末に和田に聞く。
「そもそも、この家ではそういうシチュエーションで父親サンタとか、毎年してたのかい?」
「いえ、データベースでの検索になりますが、子供の友人たちによると、プレゼントはいつも枕元に置かれていたと話していたことがあるそうです」
「ふーん、その年だけサンタ姿ねぇ」
「子供は、男の子だけ?」
「いえ、3人のうち、一番上が男の子で下2人は女の子です」
「解せない」
佐治が腕を組み椅子に踏ん反り返りながら持論を展開する。
人間と言うものは、そもそも行動パターンが変化しないものである。性格がそうであるように、行動を全く変えるのは、本当に稀だ。クリスマスイベントの内容を全く変えるのも、何かしら理由があっての趣向の変化でない限り、通常は起こり得ないという。
だから、全く別の人間が入り込んで細工した可能性が高い。しかし、プレゼントを握らせるにも、その年齢や性別に適したものでなくてはならない。
通り魔的犯行であるならば、それはリスクと言わざるを得ない。
どの家に入るかも決めていないのなら、その家族がどういう家族構成でどんな趣向を凝らしているかもわからない。
「まあ、本物のサンタが有り余るほどプレゼント持っていたなら別だが。ある程度、この家の内情を知っていないと。通り魔で片付けるには、少し無理がある」
此処で再び麻田が参戦した。
「佐治さん、私や弥皇くんは独身だから経験ありませんけど、子供に聞くんですか?プレゼントの中身」
「普通はどうだろう、うちではサンタさんは何を持ってきてくれるかな?って聞くと、子供が自分の欲しいものを必ず口走るんだ」
ここで市毛課長の出番と相成った。
「いずれ、過去の事件で今はもう物的証拠すら見つからないし、遺体さえない。せめて遺体の状況が判れば話も進むが、こうしていても堂々巡りだろう。和田、警視庁から遺体の解剖診断書を取り寄せて見ろ。何か見えていないものが見える可能性もある」
「はい、承知しました」
2日後。
和田は朝から、がっくりと肩を落としている。
警視庁に問い合わせたところ、科捜研では状況を検証したものの、司法解剖においても何ら問題は無く、絞殺との判断に至った、という返事のみ。解剖所見の詳細は教えてもらえなかったというのである。
警視庁にしてみれば、サイコロ課など取るに足らぬ組織であり、自分たちが見つけられないものを見つけられるはずがない、という態度が見え見えである。万が一見つけられたら、それこそ全国の恥さらしになる、そう思っているらしい。
「仕方ない。出向くとするか」
市毛課長の言葉に素早く反応する麻田。
「あ、私、留守番してますから4人でどうぞ。何かあったら、連絡ください」
6月近くになり、湿っぽい日も増えた。
麻田はズルい。
「はいはい、僕たちは同行ですね」
残りの3人は麻田を恨めしそうに見ながら、課長と共に警視庁に出向いた。
捜査一課に赴いた4人。
今度はサイコロ課の課長まで居ると言うのに、長谷川・磯部の両刑事ときたら、いつもの調子で嫌そうな顔と失礼な態度を露骨に表現する。
「浅野課長、いる?」
市毛課長が聞いても、無視する捜査一課員たち。
和田は今度こそ、怒鳴りつけたくなってきた。隣にいる佐治と弥皇を見ると、何故か二人とも笑っている。この状況でどうして笑えるのか。
普通の人間なら、怒って爆発するところかもしれないのに。
不思議なことに、サイコロ課人は自分たちを嫌う人間の心理にも興味がある。
失礼な態度がどのような心理から脳を経由して表情に至るのか、声にするのか、そういう本音の部分に興味が集中する。
あからさまに嫌味な態度を取るということは、サイコパスから遠ざかっているとも言えるかもしれないし、そうでないのかもしれない。
佐治や弥皇から言わせれば、善人も悪人も人は人。人間ほど観察していて面白い物は無い、ということのようだ。
市毛課長を先頭に待つこと1時間。
何処からか出てきた浅野課長は、サイコロ人に目もくれずブツブツと文句を言いながらも科捜研に電話する。
サイコロ課を代表し、和田と佐治が、当時の資料を仕舞っている部屋に案内されることになった。
市毛課長はまだしも、弥皇が資料を持たないのは不公平だと和田が心に思い浮かべると、佐治がその胸の内を大声で弥皇に話す。なぜ自分の思いがバレたのかとドッキリした和田は、防戦一方だ。
結局資料室には4人全員で行くことになった。
和田は廊下に出ると、捜査一課を指さして鬼だとでも言いたげに両手を使い角を立てる。
「僕が来たときはゲリラ豪雨だったんですよ、浅野課長」
和田の恨み節は消えない。
「なあに。今日はたまたま機嫌がいいのさ」
市毛課長は和田の肩をポンポンと叩き、科捜研に行くぞという顔をする。
「また事件解決、よろしくお願いしますぅ」
磯部刑事が冗談を言った時だった。長谷川刑事がその肩を小突き、もう関わるなといった風体で手を振る。
浅野課長は黙ったままだった。
科捜研から借りた5箱ほどの資料。
資料はサイコロ課に持って帰らないというのが捜査一課との約束だったらしい。
資料室に缶詰にされた4人。
和田は外部入力用にデータベースの小型版が入力されたタブレットを持参していた。そのタブレットに入力していく。あとの3人は、資料を総て見ながら必要と思われる個所を読み上げ、和田に入力させる。
「目ぼしい個所がないねぇ」
佐治がトーンダウンしている。
「2年前だし」
弥皇も半ば諦め顔だ。
市毛課長だけは、何も口にすることなく黙々と資料を読み漁り、写真を見ている。
「和田」
「はい、課長」
「解剖所見によると全員絞殺となっているが、1人だけ電流を流された人物がいるようだ。ほらここ、首に少しだけ火傷の跡が見られる。新しいのかな、古いのかな」
「妻ですか?」
「夫だ」
「じゃあ、絞殺ではなく感電死ですか?」
「これだけでは断定できないな。解剖医の所見としては、絞殺だ」
「課長」
「なんだ、弥皇」
「絞殺とかロープと資料にあったから、普通のロープだと思ってたら違うんですね。夫以外は、異様な紐の痕ですよ。これ、クリスマスツリーのオーナメントじゃないかな」
和田が弥皇の肩を突く。
「夫だけはちょっと他と形が違っていたみたいですよ。夫の写真はないのかな」
「弥皇、夫の写真あったぞ。オーナメントのようなものと、ドライヤーのコードが巻き付いてる。感電と絞殺の両方、死因があり得るわけだ」
市毛課長の言葉を聞いていない和田は別の視点で物を言う。
「子供たちは丁寧にプレゼントを握らされていますね、絞殺直後でしょうか」
「たぶんな。和田。あと、妻の方に何か不審な点はあるか?」
「いえ、課長。奇異な姿以外は何も」
「磔といっても、吊るした感じだな。昔の磔を忠実には模していない」
「サイコパスなら、寧ろ、そういうところを忠実に再現すると思うけど」
佐治も弥皇も同意見のようで、自分が最初に言い出したのだと喧嘩している。
馬鹿二人を放ったまま、市毛課長が和田に指示する。
「家族の通院歴とか、そういった情報も調べてくれないか」
「は?」
和田は何の事だかわからず、急いで自分が入力した画面を探す。
「あ、妻も夫も心療内科に通院していますね」
「処方されていた薬も入力しておくように」
「はい、何種類かありますね、っと。終わりました」
市毛課長がゆっくりと椅子から立ち上がり皆に指示した。
「そうか、では暇乞いしよう」
また捜査一課内に赴き、市毛課長が浅野課長に一言、礼を言うらしい。
さっきだって待たせた挙句にブツブツ文句言う始末なんだから無視すればいいのに、と和田は思っていた。
しかし市毛課長の姿を見た瞬間、浅野課長が椅子から立ち上がり敬礼しようとしたのが見えた。捜一課員は皆気付いていないようだ。
和田、弥皇、佐治ともビックリ仰天である。
市毛課長はと言えば、浅野課長の動きを瞬時に見切り、すっと右手を出して握手を求めた。
浅野課長が目を潤ませたのを見逃すサイコロ人たちでは無い。部下の手前もあろう。サイコロ人たちは一列に横並びし、浅野課長の顔が部下に見えないようにした。
和田の情報網には引っ掛かりもしない、相当な何かがある。
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
帰りもまた市毛課長を先頭に、4人並んで警察庁5階のサイコロ課に戻る。
手を振って、課内では何も情報が出なかったと知らせる麻田。
和田はタブレットデータからサイコロ課のデータベースにデータを転送していた。
データ転送を待つ間、皆で珈琲を飲みながら黙って目を瞑っている。
(皆、絶対寝てる)
和田は目を三角にし、半ば怒りながら作業を進めた。僕だってひとしきり仕事してまたここに立ってデータ移行してるのに。なんでみんな何も言わず寝てるかな、と。
最初は怒りに染まっていた和田の感情が替わってきた、和田には別のルートが見えてきたように思えたのだ。
まず、夫妻が通院していた精神科の医師に関してアリバイを調べていない。
さっきは入力で手一杯だったが、向精神薬も含めかなりの薬が処方されていた。
医師ともめた可能性はある。医師なら、論文執筆するため、といいつつ一人になる時間が出るだろう。其処等のヘボなドラマと同じトリックという訳だ。医師自身が妻に興味を示し断られたため、一家惨殺という行動に出た可能性は大いにある。
サイコパス犯罪ではなく、ただの痴情の縺れというヤツか。
しばらくすると、トン、とデータ転送の終わった音が鳴った。皆を起こそうかなと和田が席を立った瞬間、皆はすっと目を開けた。
自分以外の皆が寝ているわけではなかったらしいと解した和田の怒りもようやく冷めた。
市毛課長が和田の方を向いて聞いた。
「和田、全て見られる状況か?」
「はい、転送終了しました」
「よし。では、私から。結論を最初に言おう。これはサイコパスによる猟奇殺人ではなく、無理心中だ」
「えっ?」
和田だけが、素っ頓狂な声を上げる。
「サイコパスによる殺人ではないのはまだしも、精神科の医師はまだアリバイ確認していませんよ」
「確かにな。今更調べても2年も前だ、アリバイは出ないだろう」
「なら、医師が凶行に走っていないと言い切れないです」
「普通ならば、そう思うだろう。でもあの場合、違うんだ」
弥皇と佐治も同意見だった。
「そうですね、医師の存在があったとしても、あれなら状況に納得がいきます」
「見かけの異状さに惑わされてしまいそうになるけど、あの家に外部から侵入した形跡はない。まして、サイコパスの犯行なら子供たちをあんなふうに扱わないね。とても丁寧に扱われていたから。完璧を好むサイコパスは多いが、実は穴だらけなんだ、サイコパスの行動は」
だが、捜査権のないサイコロ課では聞き込み調査もままならない。そこで捜査一課の浅野課長から要請された体をとり、普段なら足を使わないサイコロ課員たちの地道な聞き込み調査が始まった。
そして少しずつ事件の全容が明らかになってきた。
この一家は、妻が銀行員、夫が自営業とごく普通に生活していた。
が、3年ほど前。妻が勤務先の銀行でパワハラを受け鬱病を患い心療内科に通いだした。鬱との診断から1年。銀行側は妻に対し退職しろと言わんばかりに遠隔地への異動を命じた。妻は退職を余儀なくされ、それでもパートとして銀行に残り続けた。建てた家のローン返済や子供の教育費など、一生懸命だったのだろう。
誰にも相談せず、もくもくと仕事をする中で、心は徐々に壊れ始めた。
抗鬱剤を初めとした向精神薬の種類は増え続け、抗鬱薬3種類、抗不安薬3種類、睡眠導入剤、睡眠剤3種類を処方されていた。
そして、今度は夫が半年ほど前から鬱病を発症し、同じ病院で、抗鬱薬2種類、抗不安薬3種類、睡眠導入剤、睡眠剤3種類を処方されていた。夫が鬱病を発症した原因はわからない。
近所づきあいはそれほど良くなかったらしい。夫婦とも仕事を持っていたのも理由だろう。ただし、町内の参加必須行事には、夫が顔出ししていたようだ。
2人で病気を患ってからは、その回数も減っている。周囲では健康面で何かあったのかと心配していた住民もいたが、頑なに援助を拒まれ、周囲の住民は家の中に入れず相談できる役所などを紹介することもできなかったという。
捜査一課とは別に和田が通院していた心療内科の実態を調べたところ、薬漬けにする病院として有名だった。
実際に科警研の薬剤師免許保持者に見せたところ、通い始めた年数を考えると処方薬が多すぎる。尋常ではない量の処方だ、との指摘があった。
通常は、少量から開始して様子を見ながら増量、というのが薬学のセオリーだろう。
強い抗鬱剤も、一度薬漬けにされるとなかなか抜け出せないばかりか、抜け出そうとするときの離脱症状と言うものが人それぞれ違うらしく、酷い人は半年以上も苦しむという。
一家の内情に話を戻そう。
パワハラで精神を病んだ妻。
実際には躁鬱病だったが鬱病と診断された。そこまではよくある話だ。鬱と躁鬱を見分けるのは難しい。それでも、鬱診断時から尋常ではない薬の数、普通とはかけ離れた処方。
これでは、妻が普通の精神状態でいられなかった様子が垣間見える。
たぶん、気分の乱高下を繰り返したのだろう。
仕事には出ていたようだが、仕事や家事が、まともにできたかどうかは不明だ。警視庁の資料では、妻の勤務先には交友関係を重点的の聞き取りし、パワハラや通院歴などは補足として聞き取っていたようだが、薬の量を考えると、自殺企図を起こしただろうことは容易に想像できる。
警視庁の方々は、なぜか見逃したようだが。
また、仕事をしながら子供たちを世話し、妻の分まで家事に追われた夫。
少し疲れてしまったと考えるのが妥当だろう。そこで例の心療内科を訪れた。
本当は心が少し疲れただけだったのに、よりによって、強い抗鬱薬を処方された。それも、初期段階で飲むような錠数ではなかった。その他にも数種類の薬剤を処方されていた。
抗鬱薬は諸刃の刃である。使い方を誤れば、さまざまな症状に苦しめられる。自暴自棄になったり、狂暴化したり、自殺企図を起こしたり。
病に、そして薬の作用に、また副作用に翻弄された両親2人は、心の行き場を失い、一緒に自殺を図ろうとした。
ここで問題が起こった。
両親の入っていた生命保険では、自殺の場合保険金が支払われない。残された子供たちは生活できないばかりか、施設送りになるだろう。身勝手になった両親は、子供たちを自分たちが処方された睡眠剤で眠らせ、クリスマスオーナメント用のコードで絞殺した。
その後、妻は夫に絞殺を持ちかけ、夫は泣きながら妻を殺めた。そして、キリストの復活になぞられ、妻を十字架にはりつけるような形で見送った。
最後に夫は、終ぞ着たことの無いサンタクロースの衣装を着て、ロープを自分の首に巻き、ドアノブに自分を吊るそうとした。
その方法では妻や子供たちの後を追うことができなかったのか、初めから現場を混乱させるつもりだったのか。
いずれ、死にきれなかった夫は、次にドライヤーのコードを首に巻き、水場の方に近づいた。自らを感電させるために。
ただ、そこまで辿り着いたのかどうかはわからない。
夫はたぶん、泣きながら一連の作業を行っていたのだろう。警視庁の調書には載っていなかったが、写真をみたところ、クリスマスツリーのオーナメント部分とサンタの洋服に、妙な斑が出来ていた。涙の跡と類推されるようなものだった。
外部の人間による犯行なら父親の服だけに涙が付くのはおかしい。犯行の際に涙を流していた痕跡ではないか、との結論に至ったサイコロ課員。
首に巻き付けたドライヤーのコードを電源に差し込んだとき、涙がドライヤーの中に入ったのか、或いは台所まで行けたのか、近くに水物を用意したのかも分からない。
いずれ、夫は自分の首を絞めるのではなく、感電を目的としてドライヤーを準備した模様だと思われる。何らかの方法でコードを差し電源を入れ、水の類いにドライヤーを漬けようとしたはずだ。
現場からすると、テーブルにコップがあったのだろう。水かジュースが入れてあったと思われる。
父親が水分のあった場所からツリー付近まで吹っ飛んでいることを考慮すると、首吊りによる自死というよりも、感電死が第一の目的になる。
しかし、そこで運良くか、または運悪くか、コードが抜けた。そのためコードによって首が絞まったのか、今となっては検証の仕様もない。
結局、異状な光景がまず目をひいたために、夫が感電を目的としたものと見なされず、絞殺主体で検視が進んだものと推察された。当時の科捜研としては、失態中の失態である。
司法解剖で涙の要素が検出されたとは書かれていない。或いは涙の欠片すらなく、夫が常軌を逸した犯行に走ったとも考えられる。
それでも、子供たちへの接し方を見る限り、親として子供たちを愛していたのは紛れもない事実だったと推し量ることができる。
これが、サイコロ課が出した「クリスマス・イブ一家殺人事件」の顛末だった。
サイコパスが起こしたと言われ、世間を騒がせた事件。
両親は決してサイコパスなどではなく、極々普通の人間で、極々普通に暮らしていた。何がきっかけとなったのか。
職場でのパワハラか、飲み過ぎた薬か、それはわからない。生と死の狭間のトリガーを見つけるのは、2年経った今となっては難しい。
「無理心中なんて、本当に哀しいですね」
和田が、か細い声で呟いた。
皆が頷く。
市毛が和田の肩をポンポン、と叩く。
「これが彼等のためになるのか、それはわからない。そもそも、我々の考えが採用されるとは限らない。それでも、我々はこれを結論として出した。資料を捜査一課に送ってくれ」
こうして、2G-99事件ファイルを締めくくったサイコロ課だった。