夜明け
友人の通夜を終え、帰宅した。
どっと疲れが押し寄せてくるが、なぜか眠れず、二時間ほどベッドで寝返りをうっていた。溜息と共に身を起こし、水を飲む。身体がだるい。頭も重い。それなのに、意識だけが妙にはっきりしている。それが余計に気分を悪くさせた。
寝間着を脱ぎ捨て、適当に服を着て家を出た。明日には告別式があるというのに、なぜ俺はこうして夜の街を歩いているのか。
頭が痛い。身体が重い。一時間ほど歩き、駅前にたどりつく。まだ人通りが多く、酔っぱらいの大声が余計に頭痛を強くする。
だめだ。どこかで休みたい。どこか、静かなところで。辺りを見回すと、一軒のバーを見つけた。俺は身体を引きずるようにして、その店に向かい、扉をあけた。
「いらっしゃいませ」
白髪交じりのバーテンの柔らかな声と笑顔が、俺を迎えてくれた。
淡い照明、ゆるやかに流れるジャズ。レコードプレイヤーがカウンターに置いてあるが、音楽はジュークボックスから流れているので、インテリアのひとつだろうか。グラスの中で氷が動く涼し気な音がジャズに交じる。不思議と、身体の重みがとれた気がした。
カウンター席に腰かけ、大きく息を吐く。そんな俺の顔を見て、バーテンは一度驚いたような顔をしたが、すぐにあの柔らかい笑顔を浮かべ、注文を聞いてきた。
「ウイスキーを」
バーになんて来たことがなかったから、どういう風に注文をすればいいのかわからなかった。銘柄を言った方がいいのか、スコッチだとかバーボンだとか言った方がいいのかと考えた末、単純にウイスキーをと言った。
「かしこまりました」
バーテンはすぐにグラスと氷を用意し、ボトルを選び、注いでくれた。これでよかったのだろうかと探り探りではあったが、あまり気にするのもよくないと思い、用意されたウイスキーのグラスに手を伸ばし、一口飲んだ。
「うまい……」
自然と声が漏れてしまった。だが、それほどまでにうまい酒だった。
「今のお客様には、きっとこれが合うと思ったので」
バーテンは軽く頭を下げると、カウンター席の一番奥に座っている常連と思われる老年の男性と話し始めた。
ゆったりとした時間が流れている。
ウイスキーを口に運びながら、ゆったりと流れるジャズに耳を傾けていると、身体にまとわりついていた疲れがほどけていくようだった。
不意に、視界が歪んだ。
頬に手をやると、濡れていた。どうやら、無意識に泣いていたらしい。
老年の男性が俺に気付き、バーテンもこちらを見た。恥ずかしい。いい歳の男が。
「どうされました」
バーテンが近づき、訊く。なんでもないと言うべきだったのかもしれない。だが今は、あふれ出る自分の気持ちを吐き出したくて仕方がなく、自然と言葉が出た。
「友人が亡くなったんです。親友というわけではなく、会社の同期で、数年の付き合いだったのですが」
空になったグラスにバーテンがウイスキーを注ぐ。俺は一度グラスに手を伸ばし、喉を潤した。
「自殺でした。まったくそんな素振りもなく突然のことで。いや、俺が見逃していただけなのかもしれない。友人なんて言ってもその程度だったのかもしれません」
これではただの愚痴ではないかと思いもしたが、止まらなかった。
「あいつは、要領がよくないけど一生懸命で、優しくて。いい奴だったんです。映画が好きで、休日は映画館に入り浸ってたらしくて。いつか自主制作で映画を作りたいなんて言ってて。映画の話する時あ一番楽しそうで。きっと、こいつはここにいるべき人間じゃないんだなんて思ったりして。こんなに映画を愛している奴がどうしてこんな場所にって。自分の会社をこんな場所なんて言うべきじゃないのかもしれないですけど」
気が付くとグラスがもう空になっていた。飲むペースが早い。自分でも驚きだ。
「なにかしてやれなかったのかと、どうしてとか、色んなことが頭に浮かんできて。自分にも重なってくるんです。いつか自分も、こうして不意に死を選んでしまうんじゃないかって。それが怖くて」
言葉はそこで途切れた。一方的ではあるが、気持ちを吐き出せた安堵がこみ上げ、それ以上何かを語ろうとは思えなかった。バーテンはそんな俺を見て少しだけ頷くと、常連の客の方へ戻って行き、なにやら話し始めた。常連の男性は席を立ち、店を出ていく。
「明日もお出かけになるのでしょう」
バーテンが言った。
「ええ。告別式があります」
「じゃあ、あまり飲みすぎない方がいい。最後の一杯をお作りしましょう。少し待っていてください」
バーテンはそう言うと、ジュークボックスを止め、カウンターに置いてあるレコードプレーヤーをいじり始めた。針が落ちるかを確認し、軽く磨く。そうしているうちに、常連の男性が戻ってきた。どうやら近所の人らしい。レコードを手にしている。これを撮りに行ったのか。
レコードをバーテンに渡すとこちらを見て微笑む。
「ジャズは時に奇跡を生むんです」
どういうことかと訊こうと思ったが、男性は席に戻ってしまう。
バーテンがレコードをプレイヤーにかける。ゆったりとしたジャズの音色が流れる。静かに、少しずつ音が重なっていき、一気に、だが静謐さを失わずに音が爆ぜる。引き込まれる演奏だった。ジャズの良し悪しなどわかりはしないが、いい。それだけは分かる。名曲というのはそういうものなのかもしれない。
「カインド・オブ・ブルー」
「え?」
「このアルバムのタイトルです。今流れている曲はソー・ホワット。なんだか、夜明けのような曲だと私は思っていて。レコードで聴くと余計にそう感じます」
「夜明けですか」
「ええ。静かに、ゆっくりと。でも、どこか飄々としていて、楽し気で。夜明けって、きっと本来は希望にあふれているものなんだと思わせてくれる。どんなに優しい言葉よりも、たった一曲のジャズがそう思わせてくれることもあると思うんです。それは、確かにひとつの奇跡なのかもしれない」
バーテンはそう言いながら、常連の男性の方を見る。男性は軽くグラスを掲げ「ジャズに乾杯」と言った。
「では、そろそろ最後の一杯を作りましょう」
バーテンはそう言い、カクテルを作り始めた。完成し、グラスに注がれたのは、深い赤色をした美しい酒だった。
「オールド・パル。古い仲間という意味の酒です。あなたと、あなたの友人へ捧げます」
俺はグラスを手に取り、ゆっくりと飲む。
ほろ苦さの中に、甘みがある。友情というのはこんな味なのかもしれないと、そう思わせてくれる酒だった。
「少しだけ、後押しできたでしょか」
バーテンはそう訊く。
「ええ。明日、あいつに文句とお別れを行ってきます。あと、謝らないとかな」
カクテルを飲み干し、俺は店を出た。あと数時間もすれば朝が来る。
まだ疲れは残っていた。だが、きっとベッドに寝転がれば、すぐに眠れるだろう。そんな気がしていた。
うろ覚えのソー・ホワットを口ずさみながら、俺は歩き出した。




