これは男女の一場面
誰かの意見をそのまま鵜呑みにするのは、悪い癖だと思います。
「はいストップ.全然ダメ」
まただ.この場面だけで,何回止められただろう.高文連支部大会を控えた私たちの演劇部は,明らかに切羽詰っていた.大まかな通しはできるようになったのだが,制限時間はオーバーしているし,演技の部分もやる気が空回りして,上手くものにできない.全国大会に出場経験のある三年生の先輩が演出を担当しているのだが,彼にとっては最後の大会だ.負けるわけにはいかないと言わんばかりに気合が入っている.時折口調が厳しくなり,一年は恐れをなして泣きそうになっている人もいる.
休憩に入る.だが主役である私にそんな時間は無い.水筒に入った麦茶をあおると,先輩からの指摘を書き殴り続けたせいで真っ黒になった台本に目を通していく.紙もボロボロで,所々留め直している.プレッシャーは尋常じゃない.うちは演劇だけが名門で,他のスポーツなどはパッとしない.今年たまたま野球部が県大会のベスト8に進出したくらいだ.もっとも,対戦相手は甲子園常連で,ダブルスコアで負けてしまったが.それだけに,全国大会に出場してしまった演劇部の期待は高い.
特に迷惑を被っているのは一年生だ.昨年の成績が良かったために,他の学年と同じくらいの重圧を背負わされているのだ.普通だったら耐えられない.私の隣で泣きべそをかきそうになっている女の子など,準主役級の配役だ.私は彼女に寄り添っていく.
「大丈夫,うまくやれるって」
「先輩は去年,全国大会に行けたからいいんですよ.私たちのせいで,全国いけなかったらと思うと……」
「はいはい,今からそんなマイナス思考はしない.目の前の練習をがんばること,良いね?」
「……はい」
彼女は汗か涙か分からないものを拭き取り,立ち上がる.夏季休業中のために冷房がついていない教室で,アクティブに動く私たち.それはさながら蒸し焼きのチキンのようだった.水分も適宜補給しなければ熱中症でやられて,大会どころの話ではない.それなのに先輩たちは涼しい顔で何かを話している.
彼らだって受験があるのに,私たちのために尽力してくれているのだ.申し訳なさがこみあげてくる.あの人たちに悔いのない思いをさせたい.いつしか私は,自分のためではなくて先輩のために演劇をしているような錯覚に陥っていた.休憩が終わると,再び例のシーンの練習に移った.
午後五時.結局,完成することはなく,皆は終了の号令をかける.先輩は相変わらず涼しい顔で変える支度をしている.制服に着替え終わった私は,演出担当の先輩のもとに駆け寄った.彼は私を射るような目で見つめ,直後に小さくため息を吐いた.
「お疲れ.どした」
「私,先輩に謝らなきゃいけないかなって思って……」
「ああそうだな.お前はとんだ無能者だ.俺の気持ちにもなってみろ」
「本当にすみません……」
先輩は学校の中でも成績がトップクラスで,有名国立大学の受験を希望している.落ちこぼれの私とはえらい違いだ.それに,昨年の全国大会での交流会では,ほかの人たちを差し置いて先輩にだけ,異性からアドレスの交換が殺到した.同じ学校の私が嫉妬に満ちた表情で見られたくらいだ.一言付け加えておくが,私は先輩に好意なんて持っていないし,第一部内恋愛は厳禁だ.その先輩が定めたことなのだ.因みに私はというと,聞かないほうが身のためだ.
「で,用件はこれだけか」
「あ,いえ,その……」
「それだけじゃわかんないんだよ.はっきりしろ」
「その,先輩,どこがダメだったのか具体的に教えてくださいますか?」
「何かしこまってるんだよ.仕方ない,教えてやるか」
「いいんですか?」
「俺に自主的に聞いてきたのは,お前が初めてだ.ついてこい」
私は先輩の三歩後ろを歩くようにして学校を出る.ほかの先輩は面倒見がよく,私たちの質問にはすぐに答えてくれる.しかし,彼だけは別だ.先天的なのかそうでないのか分からないが,独特の雰囲気を持っている.近寄らせないオーラを纏っている.それ故,彼から注意された人は一瞬にして怖気づき,距離を取ってしまう.私も最初の半年はそうだったのだが,なぜか彼に懐いてしまった.いや,彼に懐かれたのだ.その光景をほかの部員は天変地異でも起こるのかというような視線で見つめていた.私たちは自転車に乗り、学校からほど近いショッピングセンターへと立ち寄った.そこのフードコートで適当な食べ物を注文すると,先輩は私を制した.
「俺が払う」
「え,でも……」
「黙ってろ」
その勢いに圧され,私はそそくさと席を取りに走った.先輩から逃げるように.隅っこの席が空いている.幸い掃除されており,私はそこに先輩を誘った.どっかりと椅子に座ると,私のほうを見てため息をつく.相当疲れているらしく,目の下に隈ができていた.持ってきた山盛りのポテトには手を付けず,ただじっと,明後日のほうを向いている.私は話しかけようにも話しかけられず,黙々とポテトをつまむことしかできなかった.
「はあ,だりい……」
彼の口癖だ.勉強に部活,そしてプライベートなことまで忙しければ,そんな言葉の一つや二つ出るだろう.
「あの,先輩?」
「あん?」
「そんな怖い相槌打たないで下さいよ.私,何がダメだったんでしょうか」
ようやく本題に入ることができた.普通ならこの相槌だけで怖気づいてしまう人が大半なのだが,ここでビビッているようでは自分のためにならない.すると,彼は私の頭を小突いた.かなり強めの突きだったので「痛っ……」とおでこを抑えると,再びため息をついた.
「まだわかってないんだな.お前,自分の演技をしていないじゃないか」
痛みに堪えて先輩の話に耳を傾けていると,衝撃的な言葉が飛び込んできた.分かっていなかったといえば嘘になる.私は今まで,先輩の演出通りに事を進めてきた.自分の意見も殺して.
「それは,先輩の演出に従ってきたからですよ」
「従うだけじゃだめだ.自分で創意工夫しないと」
「でも,どうやって……」
それを言い終わらないうちに,先輩は息を吹き返したかのようにポテトに手を付ける.それと,自動販売機で買ってきたと思われるコーラも一気飲みする.そういえば,練習中には一切ものを口にしていなかったな.自分たちがもっと頑張っていれば,こんなにポテトを貪ることもなかったのだ.一気に半分ほどコーラを飲み干すと,何を思ったのか私に差し出した.
「飲め」
「え,でも……」
「そうか.それでいい」
え? この人は何を言っているんだ? 私は放心状態で先輩を見つめていると,彼は私の頭に手を置いた.餌をねだる金魚のように口をパクパクさせていると,先輩はにっこりとほほ笑んだ.
「後輩は俺たちの言うことを聞き過ぎる,お前みたいに反抗できる奴がいないんだ」
「は,はぁ」
「俺たちだって完璧な指摘を出しているわけじゃないんだ.悩んで,苦悩して,ようやく最善と思われる答えを導き出す.それをあいつらは,あたかもそれが世界の真理の如く模倣を始める」
それは先輩の言い方に問題があるのでは? なんて言えなかった.彼は珍しく熱くなっている.手を離すと,大きなため息を一つついてポテトを頬張る.彼のせいで,半分はなくなっていた.
「明日から時間があるときでいい.俺の指摘でお前が疑問に思ったことを紙に書いて,俺に見せてくれ.後輩の分も持ってきてくれて構わない」
「メールではだめですか?」
「俺,メール嫌いなんだよね」
「はあ,そうですか」
それからポテトを食べ終えた私たちは,空箱を捨てるとショッピングモールを出ようとする.しかし,彼は私の首根っこを掴んだ.扉から出ようとした私は首が締まり,変な声を上げる.その反応を楽しむかのように,先輩は私を見下ろした.
「もう少し俺と付き合え」
「え……?」
「ほしい本がある.行くぞ」
有無を言わさず連れていかれる私.でも,悪い気はしなかった.寧ろこのままずっと,いたい気分になった.私にとって先輩はあらゆる面で憧れで,彼はそれも知っている.反抗するのも必要だと言ってはいたが,今日は先輩に付いて行くことにしよう.肩の力を抜いて、私は先輩を追いかけた.