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懺悔と告白

 こんなにも身の入らない視察がかつてあっただろうか。

 ヨーゼフにとって、その後数日間はまさに地獄の日々となった。


 視察自体は例年通り、極めて順調に進んでいった。穀倉地帯の各領土を訪れながら、その地の作物の状態を確認し、領主と会談する。今年も自然災害による不作なども無く、例年通りの収穫を見込めそうだという結論だった。

 問題はむしろ、視察する国王の側にあった。

 馬車に揺られる移動時間など、1人になる度ヨーゼフは人知れず苦悩していた。

 想いを伝えた時のアイリスの驚愕の表情が頭に焼き付いて離れず、取り返しのつかない言動に対する後悔に繰り返し苛まれた。

 突然態度を変えた自分を彼女はどう感じたのだろうかと、想像しては思い悩んだ。

 騙されたと思ったかもしれない。

 裏切られたと思ったかもしれない。

 会えない寂しさを感じる余裕も無く、その胸の内を知る日を思うと不安が募る。それを少しでも和らげたくて、ヨーゼフは行く先々でアイリスへの土産を買った。

 それが完全な自己満足であることは承知の上で。

 ある町では珍しい果物を、ある町ではアイリスが好きだと言っていた野菜を、ある町では美しい花の鉢植えを。それぞれ紹介されるたびに譲って貰い、アイリス宛てにして城へ届けさせた。


 どれかひとつでも、彼女の心に留まってくれることを願いながら。


 ◆


 予定通りの行程を経て視察は無事終了した。

 城を出て6日目の夜に一行は帰還し、ヨーゼフは臣下によって出迎えられた。その足で執務室へ向かい、宰相に結果を報告するとともに、留守にしていた間に溜まった案件に目を通す。

 ひととおりの政務を終えると、ヨーゼフは漸く自室へ戻ることが出来た。

 そこで自分を迎えた女官に、用意していた一言を告げた。


「アイリス姫を私の部屋へ――」


 命じた声は、自分で分かるほど硬く強張っていた。


 その命令はヨーゼフの知らぬところで、後宮を騒然とさせていた。

 国王が後宮の姫を自室へと呼ぶことは、今までに一度もないことだったからである。

 ヨーゼフ王は常に自らが後宮へと訪れる形をとっていた。最高の寵愛を得ていると噂されるアイリス姫に対しても、例外ではなかった。

 国王の部屋へ召された妃は翌朝侍女の迎えがあるまでそこで過ごすことが前提となる。つまりは今まで王の部屋で朝を迎えた妃は誰一人として居なかったということだ。

 だがついに王の部屋へ招かれる妃が現れた。

 それはヨーゼフ王のアイリス姫に対する寵愛の深さを皆に知らしめた出来事となった。


 ◆


 よほど入念に支度を施されたのか、アイリスが部屋に来るまでの時間は妙に長かった。

 王の部屋へ呼ぶなどと普段やらないことをやったせいで、女官や侍女を緊張させたに違いなかった。

 ヨーゼフとしては、単純に後に退けない状態に自分を追い込みたかっただけなのだが。


 愛しい妃を待つ身でありながら、ヨーゼフの心情は判決を下される前の罪人と同じだった。

 一時も落ち着くことが出来ず、意味も無く部屋をうろついていた。

 やがて遠く扉の音が聞こえた瞬間、ヨーゼフの動きは凍りついたように止まった。


「――アイリス姫がお見えです」


 兵士の取次ぎに、ヨーゼフの心臓は盛大に跳ね上がった。



 その後アイリスは侍女達に連れられ、漸くその姿を現した。

 彼女を一目見た瞬間、それまでヨーゼフを支配していた焦燥は瞬く間に霧散した。代わりに胸を占めた想いは、苦しいほどの愛しさだった。

 自分でも気づかぬうちに募った思いが胸底から突き上げる。

 たった数日離れていただけなのに、どれ程恋しかったかを今更に自覚させられた。

 

 アイリスは白地に金糸で刺繍を施された絹の夜着に身を包んでいた。いつもより上等な衣の合わせからは白い胸元が僅かに覗き、纏められた髪のせいで露わになった首筋からは得も言われぬ色香が漂う。

 綺麗な青い瞳、通った鼻筋、そして形のいい桜色の唇――。久し振りなせいなのだろうか。そのひとつひとつにいちいち目を奪われ、胸を締め付けられた。

 呼吸の仕方すら忘れ、ヨーゼフは惚けたようにアイリスを見詰めていた。

 そんなヨーゼフに対し、アイリスはぎこちなく挨拶を述べた。


「お帰りなさいませ」


 すっと頭を下げるアイリスを前に、ヨーゼフは何も反応出来ずに立ち尽くしていた。

 会えない間に姿を消してしまうのではないかとまで思ったアイリスが、目の前に居る。それだけでひどく安堵している自分が居た。


 失礼しますと言い残して侍女達が場を辞すると、広い寝所は2人きりの空間となった。

 アイリスが顔を上げる。

 再びヨーゼフを映した青い瞳には、隠しきれない緊張の色が浮かんでいた。それでも初めての夜のように、目に見えて怯えている様子も無いのが、まだ救いだった。


「……さっき、戻ったんだ」


 ヨーゼフの言葉に、アイリスは「はい」と応えた。


「元気…だったかい?」

「…はい」

「…私が居ない間に、何か問題は…?」


 今度は「ございません」と首を振る。

 違う。こんな当たり障りのない話をしたいわけではない。ヨーゼフは己を叱咤し、深呼吸した。

 ふぅっと長く息を吐けば、2人の間には少しだけ気まずい沈黙が流れる。

 ヨーゼフは腹を括って言った。


「私はね…大問題があった」


 意外な言葉だったのだろう、アイリスは大きな瞳を丸くしてヨーゼフを振り仰いだ。ヨーゼフの口元には自嘲的な笑みが浮かぶ。


「視察に集中しなくてはならないのに、他の事に気を取られていて、全く身が入らなかったんだ」


 一旦言葉を切り、ヨーゼフはアイリスを見詰めた。

 アイリスは黙ってヨーゼフを見返している。

 その曇りの無い瞳に対し、もう偽らないと決めた思いを再確認して、ヨーゼフは続けた。


「――きみのことだよ、アイリス」


 一気に吐き出した言葉に、アイリスが息を呑んだのが分かった。


「ずっときみのことを考えていた。視察の間、ずっとだ。今頃きみはなにをして、何を思っているのだろうかと…。美味しい物を食べればきみに食べさせたいと思ったし、美しい景色を見ればきみに見せたいと思った。本当にきみのことばかり考えていたんだ。…きみに会いたかったよ。きみがとても……恋しかった」


 アイリスは声も無く、ただヨーゼフを見つめていた。大きな青い目は、逸らされず真っ直ぐ自分を映している。

 背を押されるままに、ヨーゼフは思いを吐露した。

 懺悔のように。


「アイリス、私はきみに嘘を吐いたんだ。きみの家を救いたいなどと、ただ話し相手になって欲しいだけだと、父親だと思って欲しいなどと…嘘を吐いた。――きみに、蔑まれたくなかったんだ。実際の私は没落貴族にいちいち手を差し延べるような慈善家ではないし、きみのような魅力的な女性を前に何も感じない程枯れてもいない。むしろ親子ほどに歳が離れていながら、初めて会った時からきみに心惹かれていた。単純に女性としてのきみが欲しくて……後宮に招いたんだよ」


 ひとつ伝えてしまえば、長く自分を阻んでいた戒めが解けるかのように、止まらなくなる。

 ヨーゼフの語る真実は少なからずアイリスに衝撃を与えたことだろう。彼女はただ声を奪われたように押し黙り、目を見張ったままヨーゼフの言葉を受け止めていた。

 何も言わないアイリスに、心が追い詰められるのを感じる。

 それでも自分を奮い起こし、ヨーゼフは絞り出すように続けた。


「一時はこのまま、嘘を吐き通そうかとも思った。きみに嫌われたくないあまりに。年甲斐も無くのぼせ上がった自分も、時が経てば落ちつけられるはずだと信じて。でも、それは…思った以上に苦しい戦いだった」


 この数ヵ月の葛藤がまざまざと甦り、ヨーゼフは知らず眉根を寄せていた。


「きみを知るほどに想いは冷めるどころか強くなるばかりで、夢の中では何度きみを抱いたか分からない。現実で行動に移してしまわないようにと、会うのを昼間に変えたのに…意味が無かった。結局あっさりタガが外れた。無理なんだよ。もうこれ以上、誤魔化せない。――私はきみを……愛しているんだ」


 肺の中の空気と一緒に想いを吐き出し切ったヨーゼフは、不意にふぅっと肩を落とした。

 凍りついたように佇むアイリスに胸が痛み、また後悔に襲われそうになる。だからこそ、まるで言い訳のような言葉まで零れ出た。


「だからといって、無理強いなど…したいわけではなかった」


 我ながら滑稽だった。

 国王という権力を使って後宮に招いたこと自体が、無理強いでなくて何なのか。

 あの日の口付けすら、彼女の了承は得ていない。ただ己の欲の赴くまま、動いただけで…。

 無意識に手を当てた額にはじんわりと冷たい汗が滲んでいた。ヨーゼフは目を閉じ、重い溜息を洩らした。

 

「……ただ私にはもう…きみの居ない日々は考えられない。――だから…」


 続ける言葉を失い、ヨーゼフは沈黙した。

 部屋には2人を隔てるように重い静寂が落ちて広がる。それが進むべき道を視界から消して、心を暗闇に迷わせる。


 ――だから…何だと言うのだろう。


 どうすればいいのだろうか。

 この上何を願っても、無理強いにしかならないのだとしたら。


「――以前…」


 不意に小さな声が、その場の静寂を破った。

 今まで黙って聞いているだけだったアイリスが久し振りに口を開いた瞬間、ヨーゼフの体は緊張に強張った。

 その空気が伝わったのか、アイリスの声もいつもより硬くなっていた。


「…初めて陛下からお話を頂いた時、父はとても喜んでいました。国王陛下に見初められるなんて、こんなに名誉なことはないと…私のことを誇りに思うとそう言って…。厳しい父が、あんなに私を褒めてくれたのは、多分、初めてだったと思います」


 話しながら、アイリスは長い指を組み合わせ、そこに視線を落とすようにして目を伏せた。


「でも私は…少しも嬉しくありませんでした」


 告げられた真実に、ずきりと、ヨーゼフの胸が鋭く痛んだ。

 分かっていたはずの想いでも、直接アイリスの口から聞かされれば、衝撃は生々しく身を貫く。

 今更なのだと往生際の悪い己を自嘲しながら、同時に襲う息苦しさを拳を握りしめて堪えた。

 過ぎた日を思い起しているのか、アイリスはどこか遠くを見詰めながら淡々と言葉を紡ぐ。


「…むしろ、とても恐ろしかったです。例えそのお方が国王陛下であらせられたとしても、一度もお会いしたこともない方の妻になるなんて私には考えられなくて…。それでも、喜ぶ父にお断りしたいなどと言い出すことは出来ず、話が決まってしまった夜はこっそりと泣いていました」


 ひとり悲しみに暮れるアイリスの姿が脳裏に浮かび、ヨーゼフは痛みを堪えるように硬く目を閉じた。

 アイリスならばそう感じるだろうと、今のヨーゼフはよく分かっていた。彼女は地位に踊らされるような子ではないのだから。

 ヨーゼフが誰よりも持っていると自信を持って言える唯一のもの、”権力”も、残念ながらアイリスにとっての魅力にはならない。そんな彼女だからこそ、こんなにも惹かれるというのは皮肉なものだ。


「……でも、いざ後宮に入ったその日、すごく思いがけないことが起きたんです」


 アイリスはそう言うと、ふと顔を上げてヨーゼフを見た。

 彼女の言葉に反応し、ヨーゼフは思わず目を見開く。


「……思いがけない、こと?」

「舞踏会の夜のことを覚えていらっしゃいますか?」


 突然問いかけられ、ヨーゼフは一瞬硬直した。けれどもすぐにアイリスの言いたいことを察して頷く。


「…忘れようがない」


 それはヨーゼフとアイリスが初めて出会った日のことだった。

 ヨーゼフの答えに、アイリスは嬉しそうに微笑んだ。

 不意打ちのようなその笑顔がヨーゼフの胸に火を灯す。

 もう二度と見れないと思っていたそれに、熱いものが込み上げた。


「私、あの日の舞踏会が社交界に出た初めての日だったんです。招待状を頂いたこと、とても嬉しかったです。私達の家もまだ、貴族の一員だと認めて頂いているような気がして…。それにお城での舞踏会には幼い頃から憧れがありましたから、特別なドレスを用意して貰えたのも嬉しかったし、どんな素敵な日になるだろうって、胸を躍らせて出掛けました」


 言葉を切ったアイリスの表情がふと翳る。


「――でも、その夢はあっさりと壊れてしまいました」


 そう言って、悲しげな微笑みを浮かべた。


「会場で出会う方達の中に、私達を歓迎して下さる方はいらっしゃいませんでした。挨拶に廻ってもろくに相手にもしてくれなくて、掛けられる言葉はひどい揶揄ばかりで、露骨に無視する方もいらっしゃるほどで…。私達の家が他の貴族家からどう見られているのか、その時、嫌というほど思い知りました。あまりにも場違いでした。…当然、国王陛下のお席には近付くことすら叶わず…。悔しさを堪える父の背中を見ているのが、ただ辛くて……居た堪れなくて、キースと2人でその場を逃げ出して、お庭に出たんです」


 その時のことを思い出したのか、アイリスは疲れたような溜息を零した。

 けれども顔を上げた時には、また優しい微笑みに戻っていた。


「そこで、とある伯爵様にお会いしたんです」


 どくんと、心臓が跳ね上がったのが分かった。

 あの日ヨーゼフは自分を伯爵家の者だと偽った。それが嘘であることは既に知っているはずだが、ヨーゼフを前に、まるで他人の話をするようにアイリスは語る。


「その方は私の名を聞いても、他の貴族の方々のように見下すことも蔑むこともありませんでした。むしろとても温かく受け入れて下さって、とても楽しい一時を過ごさせて頂きました。高貴な身分の方なのに少しも気取ったところの無い感じのいいお方で…。その方とお話できたことで、最後に救われた気持ちになって家に帰ることが出来ました」


 にっこりと微笑むアイリスに、ヨーゼフは何も言えなかった。

 過大評価だと思った。ヨーゼフとて、同じように逃げ出して来た身だったのだ。

 そしてあの日あの時、自分もアイリスによってどれほど癒されたことか。――そう伝えたいのに声にならない。

 アイリスはにっこりと微笑み、記憶を手繰るようにふと遠い目をした。


「その後すぐ、国王陛下の使者を名乗る方が私の家にいらしたんです。…国王陛下のことは父からよく聞かされていていましたが、実際にお会いしたことはなくて…。でもあの父が手離しで賞賛されるお方ですから、私の中では威厳に溢れ、強くて厳格で少し怖い方という勝手な想像が出来上がっていて…。父には陛下の意に沿うよう努めなさいと、決してお気に障るようなことはしてはならないときつく言い含められていたこともあり、父と同じくらい厳しい方なのかと、思い込んでしまっていて…」


 自分のことを話すアイリスの言葉を聞きながら、ヨーゼフは実に複雑な気持ちになっていた。

 それが顔に出たのだろう、アイリスはくすりと笑みを洩らす。


「すみません。だから初めてご本人にお会いした時は――本当に、驚いたんです」


 その時の気持ちを表すように、アイリスは自分の胸を両手で抑えた。そしてふと力が抜けたように、肩を落とす。


「そして…とてもほっとしました」


 ヨーゼフを映すアイリスの瞳が優しく細められる。

 いつも嘘の無い彼女の、穏やかな眼差しが、ヨーゼフの胸を先程までとは違う痛みで締め付けた。


「陛下のお傍で過ごすようになって、陛下が父の言うとおり、素晴らしい方だということを知りました。国王陛下としてだけでなくお人柄も含めて…。温かく優しく、包容力に溢れた…そんな素敵な方の本当のお妃様であらせられるカーラ様を、少し、羨ましく思ってしまったこともあります…」


 耳を疑う一言に、ヨーゼフは思わず目を見張った。

 カーラが聞いたら鼻で笑うに違いない言葉だったが、当のアイリスは真剣そのものだ。

 彼女の苦悩を示すように、形のいい眉をしかめる。


「そんなことを考えてはいけないんだと自分に言い聞かせました。陛下には父親代わりと思って欲しいと言って頂いたのだし、陛下は私を娘のように気にかけてくださっているだけなのだからと…。ただ困ったことに、私の父はヨーゼフ様とは全く違う種類の人間で…どうしても重ねることが出来なかったのですが…」


 茫然と聞いていたヨーゼフは、最後の一言に思わず吹き出していた。

 アイリスも釣られて笑みを零す。

 一緒に笑いあえば、張り詰めていた空気が和らいでいくのを感じた。それまでの緊張感が嘘のように。

 改めてお互いの瞳が出会うと、束の間見つめ合った。

 アイリスがふと思い出したように言う。


「あの、贈り物を…沢山、有難うございました」

「あ…」


 言われて初めて、自分がしつこいほどに送った土産達のことを思い出した。


「…無事に届いたかい?」

「はい」


 アイリスはこくりと頷く。


「リンカの実がとても甘くて美味しかったです。高価なものなので私も食べたのは初めてで…。日頃お世話になっている人達と分けあって、皆でご馳走になりました」

「それは良かった。今年は特に質がいいという話だったからね」

「そうなんですか??初めて食べたのに当たり年だなんて、すごい幸運…!――あ、まだ残っているので、ヨーゼフ様も是非食べにいらしてください!本当は今夜食べて頂こうかと思っていたんですが…」


 アイリスは残念そうに語尾を濁す。予定外に呼び寄せられ、土産は置いてくるしかなかったようだ。

 自分のことまで考えていてくれたことも、今自然に誘ってくれたことも、何もかもが嬉しくて、ヨーゼフの頬は抑えきれない喜びに綻んだ。


「明日にでも…行かせて貰うよ」


 はいと明るく頷くと、アイリスはふとヨーゼフを見て口を噤んだ。

 その一瞬の静寂が、部屋の灯りに映し出された彼女の表情を大人びて見せる。


「……お留守の間、私も、寂しかったです」


 ぽつりと落ちた一言が、ヨーゼフの胸の真ん中をきゅぅっと締め付けた。


「でも…毎日のようにヨーゼフ様からお荷物が届いて…。離れていても、気にかけてくださっていることが伝わって…まるでお傍にいらっしゃるような気がして…嬉しかったです」


 アイリスの声は優しい歌声のようにヨーゼフの耳を撫で、奥に届いて沁み渡る。


「それが狙いだったんだ。……忘れられたくなくてね」


 素直な想いが自然に口をついて出た。


「忘れるなんて不可能でした」


 アイリスはすぐさまヨーゼフの懸念を否定してくれた。

 ふと長い睫毛を伏せる。


「ずっと考えてました。ヨーゼフ様がおっしゃったこと…」

「…愛してると…言ったことを?」


 わざわざ確認したせいか、アイリスの頬がふわっと朱に染まる。そしてこくりと頷いた。


「どういう意味、なんだろうって…」

「言葉通りの意味だ。…私はきみを娘のようになどと思った事は一度も無い」


 ほんのり上気した白い頬が、いっそう彼女を艶めかしく見せる。ヨーゼフは目を細め、囁くように言った。


「…今も、きみのその髪を…私の手で解いてしまいたい衝動と闘っているところだよ」


 アイリスは目を丸くし、その頬はさらに赤みを増した。

 その反応に誘われるように、ヨーゼフは一歩アイリスに近付いた。

 そっと手を延ばし、アイリスの髪を纏める美しい(かんざし)に触れてみる。

 そして、小さく窺った。


「解いてもいいかい…?」


 アイリスは恥ずかしそうに俯いたまま、こくりと頷いた。

 すっと簪を引けば、纏められていた髪が輝きを放ちながらアイリスの肩に舞い降り、白い項を覆う。

 たったそれだけのことで、ヨーゼフの体にはぞくりと快感に似た震えが走った。

 

「…触れても?」


 アイリスが再び頷く。

 長く柔らかい髪に指を通せば、その指先から伝わる感触に想いが爆ぜ、胸が熱くなる。

 ずっとそうして触れてみたいと願っていた。何度その手触りを想像したことだろう。

 指の間を艶やかに流れる髪が灯りに照らされて煌めく。

 ゆっくりとそれを梳けば、繊細な絹糸のように抵抗も無くすり抜けていった。

 アイリスはただされるがまま、ヨーゼフの手を受け入れていた。やがてすっと目を閉じる。それに合わせるように、ヨーゼフはアイリスの体を腕の中に抱き寄せた。

 その細い肩を抱きすくめ、今触れたばかりの髪に顔を埋める。アイリスの髪からは、花園の優しい香りがした。

 アイリスの耳元で、囁くように問いかける。


「…嫌では、ないのかい?」


 ヨーゼフの胸に頬を寄せたまま、アイリスが応える。


「嫌では、ないです」

「口付けを避けられたから…私に触れられるのは嫌なのだと思っていた」

「あの時は驚いてしまっただけで…!…すみません。…初めて、だったので…」

「…そうか」


 腑に落ちると、自分の行動を省みて自嘲した。何の前触れもなく唐突に口付けを迫られれば、誰だって驚くに違いない。

 その程度のことも考慮できない程余裕が無かった自分に、改めて呆れた。

 とはいえ――。


「…もっと驚かせることになってもいいかな…」


 意味が伝わったのか伝わらないのか、腕の中のアイリスは答えない。その髪に口付けて、その温もりを確かめるように抱きなおす。

 

「…困ったな。きみの年齢的にもう少し待つべきなのは分かっているんだが、私の年齢的に難しくてね。……というより、気持ち的に、というのが正直なところだな…」


 ――もうとっくに限界だった。

 何度抱きしめたいと願ったか分からない少女が腕の中に居て、自分に身を委ねている。この状況で踏みとどまれるほど、出来た男ではない。

 アイリスは顔を埋めたまま、小さな声で答えた。


「…大丈夫です。子供では…ないので」


 ヨーゼフはアイリスを抱く腕の力を少し緩めた。彼女の後ろ頭に潜らせた手を軽く引くと、アイリスの顔を上向かせる。

 自分を映した青い瞳に、苦しげに囁きかけた。


「……子供に見えないから、困ってるんだ」


 何か言いかけた唇を、覆いかぶさるようにして塞いだ。同時に手を離れた簪が2人の足元に落ちる。

 欲望が堰を切り、抑えていたものが一気に弾け飛ぶ。躊躇う間もなく、ヨーゼフの舌はアイリスの唇を割り入っていた。


「…ふっ…!」


 強引に押し入られ、アイリスはびくりと身を震わせた。

 ヨーゼフの舌はアイリスを求めて動き、口の中で縮こまる舌を絡め取る。アイリスの口からは熱い吐息が零れ出た。


「…は、ぁ…」


 少し苦しげな表情も、吐息まじりの声も、ヨーゼフを煽って昂ぶらせる。

 こんなにも強く誰かを求めたのは初めてで、気が急く自分を抑えきれない。

 唇を解放すると、アイリスが息つく間もなく抱きあげた。寝台までのその僅かな距離すらもどかしい。それでも薄れゆく理性を総動員させ、出来るだけゆっくりとそこに向かった。

 アイリスは目を閉じていた。

 何をされるか分かっているだろうに、それを受け入れようとしてくれていることが伝わる。

 寝台に横たえ覆いかぶさると、ヨーゼフはアイリスにまたキスを落とした。

 言葉にならない想いを伝えたくて、額に、瞼に、鼻に、そして唇に、優しくゆっくりと繰り返す。

 その合間に絹の夜着の腰紐を解き、2人を隔てる布をゆっくりと剥いでいく。それを感覚で察したのか、アイリスは目を閉じたまま恥ずかしそうに顔を背けた。

 以前一度だけ見た白い肌が、ヨーゼフの目の前に現れる。

 その美しさに目を奪われ、艶めかしさにごくりと生唾を呑んだ。

 少し落ち着けと暴走しそうな己を内心で窘めたが、効果は無かった。柔らかい膨らみに唇を触れてしまえば、理性は欲望に塗り潰される。

 夢中で唇を這わせると、あの日のようにまたアイリスが身じろぎした。


「ヨーゼフ様…」


 吐息のような声で、アイリスが自分を呼ぶ。その切なげな声が、ヨーゼフの胸にまた幸福感を生む。  


「ヨーゼフと…呼んでくれ」


 そんな要求を口にすると、アイリスはふと目を開き、至近距離にあるヨーゼフの顔を見付けて頬を染めた。

 少しだけ困ったように眉を下げる表情すら、愛おしくて堪らない。


「でも…」

「2人の時だけでいい。…頼むよ」


 そう囁くと、再び唇を重ね合った。アイリスの腕も同じようにヨーゼフの背を抱き返してくれる。

 ヨーゼフの耳に、躊躇いがちな小声が届いた。


「…ヨーゼフ…」


 込み上げる喜びに、肌が震える。折れそうに細い肩を、強く抱きしめた。


「アイリス、愛してる…。愛してるよ…」

「…わ、たしも…」


 小さくぎこちない囁きを聞いた瞬間――もう何も考えられなくなった。

 

 アイリス姫が後宮に入って数ヵ月。

 毎日のように部屋へ通い、一度は朝までそこで過ごしていながら、国王が一度も彼女を召していないなどと想像する者は誰一人として居なかった。

 そしてそれは結局誰にも知られぬまま、アイリス姫はその夜名実ともに、ヨーゼフ王の妃となった。

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