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初夜

 アイリスの待つ部屋へと向かいながら、ヨーゼフは内心葛藤を続けていた。

 この期に及んで自分は間違っていたのではないかという想いが湧いてくる。

 国王とはいえ、彼女にとってはろくに面識も無い男からの縁談だ。どれほど驚いたことだろう。戸惑ったに違いない。

 家族から引き離され、顔も知らない”国王”を迎えるべく準備を施されて待つ今、彼女は一体どんな想いでいるのだろうか。

 胸の中には罪悪感と高揚感がせめぎ合う。

 ヨーゼフは自分の迷いを振り切るように軽く頭を振ると、回廊を進む足を速めた。



「奥でお待ちです」


 辿り着いたヨーゼフを迎えたのは、アイリスに付いていると思われる女官だった。やや眉間に困惑を滲ませながら告げる。


「こちらへお越し頂くようお願い申し上げたのですが、緊張なさっておいでで…」

「――構わない。…私が行こう」


 女官の言葉にそう返し、ヨーゼフは部屋に入った。女官と侍女が一礼とともに退がると、背後で重厚な扉が閉ざされる。

 それきり、広い部屋は静寂に支配された。

 アイリスの居る寝所は続き部屋の奥にある。居間を通り過ぎ、そこへ足を踏み入れれば、重厚な幕に囲まれた一角が目に入る。その向こうに寝台がある。

 ヨーゼフは幕の切れ間に手をかけ、手の甲で押し上げるようにして中を覗いた。

 アイリスはそこに居た。

 こちらに背を向けて立っている。

 その姿が目に入った瞬間、ヨーゼフは身を強張らせた。そして心のどこかで彼女の笑顔を期待していた愚かな自分を、心底嫌悪した。

 

 アイリスの体は小さく震えていた。

 長い金色の髪は頭の後ろで纏められ、俯く彼女の白い項を露わにしている。身に纏った薄衣は彼女の細い体を強調し、その頼りなげな背中に胸が締め付けられた。

 国王を出迎えるように言われたはずだ。けれども動けないのだ。緊張などという生易しいものではない。彼女の足を竦ませているのは、紛れも無い恐怖だった。

 あまりの痛々しさに、ヨーゼフは思わず目を背けた。

 自分のしたことの重大さを、今更嫌というほど実感する。

 ”国王の妃”という立場を喜んでくれるかもしれないなどという微かな希望は、無残に打ち砕かれた。

 ――それでも…後戻りなど出来ない。

 ヨーゼフは覚悟を決めて顔を上げた。


「アイリス…」


 できるだけ優しく呼びかけたつもりだったが、アイリスの小さな肩はビクンと震えた。

 恐る恐るというように、ゆっくりとこちらを振り返る。ヨーゼフはアイリスに距離を置いたまま、ただじっとそれを待った。

 小さなランプの明かりで照らされた彼女の顔は血の気を失っている。

 記憶のままの綺麗な青い瞳がヨーゼフの姿を捉えた瞬間、それは衝撃に凍りついた。

 アイリスが息を呑む。驚きのあまり恐怖を忘れ去ったのだろう。体の震えは止まり、大きく見開いた目は真っ直ぐヨーゼフに向けられていた。


「また、会ったね」


 アイリスが自分を覚えていることを認識してヨーゼフはそう声を掛けた。自分で呼び寄せたくせに、なんと白々しい言葉だと自嘲しながら。


「え…」


 アイリスがようやく小さな声を漏らすが、それ以上言葉を続けられずにまた茫然とする。

 状況が呑み込めないに違いない。ヨーゼフは苦笑を滲ませると、幕の内側に一歩足を踏み入れた。

 さらりと幕がもとの位置に戻り、その中に2人きりで閉じ込められる。

 その瞬間、アイリスの顔には再び緊張の色が宿った。


「……嘘を言ったりして、悪かった」


 ヨーゼフはその場で足を止め、まず謝罪した。怯えるアイリスを追い詰めないよう、距離を保つ。

 アイリスは顔を強張らせたまま、ぎこちなく唇を動かした。


「…嘘…?」

「国王だと、名乗ることができなかった」


 アイリスはそれで全てを理解したのだろう。再び息を呑んだ。躊躇いながら、掠れた声で問いかける。


「それでは……おじ様が…ヨーゼフ国王陛下…」


 また”おじ様”と言われてしまった。

 ヨーゼフは複雑な思いで「そうなんだ」と答えた。

 2人の間に重い沈黙が流れる。アイリスはただ言葉を失くし、穴が開くほどにヨーゼフを見詰めている。

 ヨーゼフはその視線を受け止めながら、彼女が口を開くのを待った。

 長い間だった。アイリスはやがてその目をヨーゼフから逸らし、冷たい床へと落とした。


「そう…だったのですか…」


 力無い彼女の声が再び胸を締め付けた。

 何故会ったこともない自分をと、ずっと疑問に思っていたことだろう。けれども今、彼女の中でその疑問は解けたのだ。そしてあの日庭園に居たこと、見知らぬ男と談笑したことを、次々と後悔しているに違いなかった。

 俯く彼女の顔をランプの明かりが微かに照らす。長い睫を伏せたその表情は美しい陰影を強調し、得も言われぬ色香を纏う。

 こんな時なのに目を奪われずにはいられない程に。

 白い首筋、微かに見える鎖骨、そして薄衣一枚に遮られる細い体。その胸元の女性らしい膨らみへと視線が行き着くと、ヨーゼフは突然我に返って目を逸らした。

 先ほどまで震えていた彼女の姿が甦り、舞い上がりそうな自分を無理やり押し留める。


 何を、考えているのか――。


 不幸にしたくなくて呼んだのではなかったのか。彼女に自分の欲望をぶつけるだけなら、他の男でもできるというのに。

 ヨーゼフはアイリスに背を向けると、幕を再び手で押し上げた。そして彼女を振り返る。


「おいで。こっちで話をしよう」


 そう声を掛けられたアイリスは意外そうな顔になったが、小さく「はい」と応えるとヨーゼフについて寝所を離れた。


 ◆


 続き部屋へ出ると、ヨーゼフは長椅子に腰掛けた。そして所在無さげなアイリスに「よかったら、どうぞ」と言って隣を手で指す。

 アイリスは「はい」と素直に従った。

 ヨーゼフから少し距離を置いて腰掛けたアイリスは、明らかに身を硬くしていた。ヨーゼフが夜着の上に羽織っていた上着を脱ぐ。そんな動作にもアイリスはビクリと反応した。


「これを着ているといい」


 そう言って差し出された上着に、アイリスは戸惑ってヨーゼフを見る。その顔に微笑みを返すと「寒そうだよ」と付け加えた。


「あ、りがとう、ございます…」


 たどたどしく礼を言って、アイリスは上着を受け取った。

 そしてゆっくりそれを身に纏う。ずいぶん大きな上着にすっぽりと包まれて、彼女の手も袖の中へとおさまってしまった。

 自分との体格の違いを実感する。上着で体を包んだアイリスは少しだけ緊張が解けたのか、ほぉっと吐息を洩らし、肩から力を抜いた。

 そんな彼女にヨーゼフも安堵する。

 また笑顔を見せてくれるだろうか。あの日のように。

 もしかしたらそれこそが、自分が何より望んだ事かもしれない。


「突然のことで、驚かせただろうね」


 ヨーゼフは優しくアイリスに語り掛けた。アイリスの瞳が改めてヨーゼフを映す。そこに先ほどまでの恐怖はもう見えなかった。


「きみの家のこと…あの後、人から聞いた。クレイド家が家を立て直すための良縁を探していることも」


 実際は人から聞いたのではなく”調べさせた”のだし、良縁を探しているという話はただの推測だった。

 だが間違ってもいなかったのだろう。アイリスは黙ってヨーゼフの話を聞いている。

 その真っ直ぐな目に胸苦しさを覚えながら、ヨーゼフは言葉を続けた。


「…これも縁かなと思ってね。私が、力になれればと思ったんだ。…きみを迎えるにあたり、勿論クレイド家にはそれ相応の見返りをと思っている。新たに領土を任せたい。きみのお父さんにはまた、頑張ってもらわなければね」


 アイリスの目が驚きに見開かれる。けれどもすぐに言葉は出て来ない。ヨーゼフの言葉を頭の中で反芻しているのだろう。そんな間が、息苦しく感じた。

 正当化して誤魔化した自分の胸の奥を、全て見透かされてしまいそうで。


「勿体無いです…。有難うございます…」


 ふとアイリスは、深く頭を下げた。


「そんなことをする必要はない」


 ヨーゼフは思わず彼女の肩を掴み、屈めた体をもとにもどさせた。瞬間、触れられたアイリスの体が硬く強張る。

 それを感じ取り、ヨーゼフは慌てて手を退いた。


「…すまない」

「あ…」


 アイリスがさっと青くなる。狼狽しながら、再び頭を下げた。


「申し訳ありません!大丈夫です!少し、驚いただけで…」


 必死に取り繕おうとする彼女の姿にまた胸が痛んだ。王の機嫌を損ねないようにと、父親に言われて来たのだろう。

 王を拒絶してはならない。喜んで受け入れなさいと、言い含める声が聞こえてくるようだ。


「アイリス…」


 考えるより先に、ヨーゼフは口を開いていた。


「怖がらないでくれ。私はきみに寝所の相手などさせる気はない。ただ、話し相手になって欲しいだけだよ」


 顔を上げたアイリスがまた驚きを滲ませてヨーゼフを見た。

 2人の間の時が束の間止まる。お互い目を見合せたまま、固まった。

 思わず逃げるように目を伏せ、ヨーゼフは「悪かった」と呟いた。


「他に、想う男が居ただろうね…」

「いえ、そんな…!」


 アイリスがとっさに首を振る。当然のことだ。例え居たとしても、認めることなどできるはずはない。


「いつかクレイド家が安定したら、また家に戻ることも可能だ。ただの側室で子も成さなければ、私が手離したとしても問題にはならない」


 ヨーゼフは穏やかに語りかけた。

 そうだ。少しの間でいい。ほんの少し、その温もりを分けてもらえれば…。


「陛下…」


 アイリスが体をヨーゼフに向けて座りなおす。そして改めて、深く(こうべ)を垂れた。


「感謝の言葉もございません。私の家のために、本当に有難うございます…」


 そう言った声は微かに震えていた。

 心からの感謝が胸に痛くて、ヨーゼフはアイリスから目を逸らした。

 勢いに任せ、ずいぶん綺麗ごとを並べたものだ。自分で自分に呆れる。そんな風に頭を下げられる価値は全く無い。


「きみと話したあの時間、とても楽しかった。……また会って話せたらと思っていたんだ」


 アイリスがすっと顔を上げる。ヨーゼフは彼女を見ると、穏やかに微笑みかけた。


「少しの間私を父親と思って、話相手を務めてくれるかい?」

「…はい!」


 頷いて、彼女はまたあの陽だまりのような笑顔を浮かべた。


 ――やっと見れた。


 父親代わりで構わない。限りある時間でもいい。

 こんなにも優しい温もりを感じられるならば。


 ◆


 その後、ヨーゼフは居間で用意されていた酒を空けた。

 アイリスに酌をして貰いながら、あの日のように他愛もない話をする。

 すっかり緊張の解けたアイリスは、また楽しげに色んな話を聞かせてくれた。

 よく知っているはずの酒の味が、不思議な程美味しく思える。


「お祭りに行かれたことはありますか?」

「あぁ、招待されれば出席するよ。たまに王族席に座っていたのだけれど、記憶にないかな?」


 無いであろうことを知りつつ問いかけると、アイリスは思い出そうとしているのか、眉間を寄せて考え込んだ。

 そんな真剣な表情にヨーゼフの頬が緩む。


「いや、皆遊びに夢中でこちらなど興味ないんだ。距離もあって顔など見えないしね」

「陛下は遊ばれないんですか?」


 思いがけない問いかけに、ヨーゼフは目を丸くした。


「国王が皆に混じって遊んでいたらがっかりしないかい?」

「しませんしません!勿体無いです!少しのお金でもたっぷり遊べるんですよ。射的とか輪投げとか、とても楽しいんです!私は下手なんですけど、キースが小さいのに上手で…」


 力説するアイリスが本当に楽しそうで胸が躍る。けれども小さな弟の名が出た瞬間、ふとその表情が曇った。

 だがそれは本当に一瞬で、すぐにまた笑顔とともに「お見せしたいくらい」と言ってくれた。


「是非見せてもらおう。いつでもここへ招待するといいよ」


 アイリスが驚きに目を丸くする。


「…キースを……呼んでもよろしいのですか?」

「もちろん構わない。きみの弟なんだから」


 そう答えれば、アイリスはぱぁっと顔を輝かせた。


「有難うございます!とても嬉しいです。よかった…また会えるんだ」


 両手を合わせ、アイリスは独り言のように呟いた。喜びを噛み締めているのが声に伝わる。我が子のように可愛がっていた弟にまで別れを言うのは辛かったに違いない。もう会えないのだと諦めていたのだろう。

 彼女が喜んでくれるのが嬉しくて、ヨーゼフは「他にも何か望みがあれば遠慮なく言ってくれ。甘えてもらって構わないから」と言い添えた。


「はい、本当に有難うございます」


 ヨーゼフの言葉にそう応え、彼女はまた花が綻ぶような笑顔になった。

 

 初めて夫婦として迎えたその夜、ヨーゼフは夜が更けるまで新しい妃と談笑をして過ごした。

 それは誰と過ごした夜よりヨーゼフを満たす、至福の時となった。

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