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 リンティアが1歳になる頃には、ヨーゼフもアイリスもすっかり育児に慣れていた。

 そして慣例と異なり完全に両親の手で育てられた王女は、健やかに成長した。初毛で覆われていた頭もいつしか金色の髪が覆い、翡翠色の大きな目は長い睫に縁取られ、くっきりとした二重が愛らしさを増す。

 その顔立ちは、日増しにアイリスに似てくるようだった。

 やがてアイリスを「あーたま」、ヨーゼフを「とーたま」と呼んでくれるようになり、片言の言葉が零れるたび2人で喜び合った。

 余裕ができると小さな怪獣に思えていた娘はただひたすらに可愛らしい天使となり、ヨーゼフは時間があればリンティアと遊んで過ごした。


 手入れの行き届いた庭園で小さなリンティアの両手を引いて歩かせる。アイリスの部屋から続く庭園が、今はもっぱらリンティアの遊び場所となっていた。

 覚束ないながらも足を運ぶリンティアは、楽しそうにキャッキャと笑った。


「すごい、歩いてるよ!」


 ヨーゼフは嬉しくなって声をあげた。そんな光景をアイリスは傍で微笑ましく見守る。


「手を離してみて」

「だめだよ。転んでしまう」

「大丈夫よ。意外と1人でも歩けるんだから」


 そう言われると見てみたくなり、ヨーゼフはリンティアの小さな手をそっと離した。

 リンティアは両手を前に差し出したまま、暫し佇む。

 少し距離をとって「おいで」と両手を差し出せば、父の呼び掛けに応えて足を踏み出した。


「すごい、すごい!」


 大興奮のヨーゼフに、リンティアの顔には得意気な笑顔が広がる。調子に乗って速度を上げ、結果どてんと顔から転げた。


「あぁっ…!」


 慌てて駆け寄って抱き上げると、呆然としたリンティアの顔はみるみるうちに崩れ、大声をあげて泣き始める。


「あー、かわいそうに、かわいそうに…」


 慰める夫を見ながらアイリスは不謹慎にもくすくすと笑った。ヨーゼフは妻を振り返り、顔をしかめて抗議する。


「転んでしまったじゃないか」

「大丈夫よ。ここの芝生は柔らかいもの。キースなんてもっとわんぱくだったから何度顔から転んで血を出したか分からないくらいよ。でも歩くの早かったんだから」

「キースはいいんだ。男の子なんだから」


 腕の中のリンティアは早くも泣き止んで、降ろせとばかりにじたばたする。ヨーゼフはまたリンティアを芝生に立たせると、手を引きながら歩かせ始めた。


「キースは、どうしているかな」


 名前が出たことで、懐かしくなる。もう1人の小さな天使は、元気にしているだろうか。


 7歳を迎えるキースは去年から本格的に家庭教師による勉強を始めたと聞いている。気軽に城に呼べる雰囲気でもなくなり、リンティアにもまだ会わせていない。


「たまに手紙がくるけど、勉強と稽古で毎日忙しいみたい。お父様は厳しいから、あまり遊ばせてもらえないと思うの。稽古の方はキースがお願いしてやらせてもらってるみたいなんだけど」


 アイリスは心配そうに顔を曇らせた。


「何の稽古?」

「剣と馬ですって」

「へぇ…大変だな」


 ヨーゼフは再びリンティアを抱き上げると、ふっと微笑んだ。


「もうきみの後を追いかける坊やじゃないのかな」


 アイリスは複雑そうに眉を下げる。やはり姉としては、可愛い弟に離れていかれるのは寂しいらしい。

 ヨーゼフは失笑しつつ、リンティアをアイリスに預けた。


「仕事に戻らないと」

「うん。行ってらっしゃい」


 別れの挨拶に、軽く唇を重ねる。そしてリンティアにも口付ける。

 家族との時間を名残惜しみながら、また政務へと戻る。――そんな日々だった。



 たまに視察の旅の時には、当然のようにアイリスとリンティアも連れて行った。

 各地を周りながら様々な出会いとともに感動を分かち合った。

 豊かに実った農地、馬や牛が放された牧場。そして賑わう町や村。

 平和な国の美しい景色に、リンティアが大きな翡翠色の瞳をきらきらと輝かせる。

 そんな娘に、ヨーゼフは誇らしげに言った。


「リンティア、これがアリステアだ。お父様の治める国だよ」


 ◆


 キースとリンティアが対面を果たしたのは、それからさらに3年ほど後のことだった。

 なんだかんだで会う機会を持てずに時は過ぎ、キースが10歳になって学校へ通うようになった頃に、そのお祝いとして漸く城に招くことが出来た。

 キースは貴族の子供達が通う一流の学校に入学が決まっていた。


「ご無沙汰しております。この度は、お招き有難うございます」


 立派な礼服に身を包み、教えられたのであろう礼儀作法にのっとって挨拶をした少年に、ヨーゼフとアイリスは呆然とした。

 久し振りに会ったキースはあの小さかった坊やではなく、すっかり男らしく成長してしまっていた。

 顔を上げた彼の金色の髪や深い青の瞳は何も変わらない。けれどもその端正な顔には歳相応とは思えぬ落ち着きがあり、気品すら感じさせる。

 どことなくクレイド氏を思わせる雰囲気は、やはり親子なのだと今更に実感させられた。


「あぁ…ようこそ」

「ひ、久し振りね…」


 ぎこちなく声をかける2人の後ろから、ひょっこりとリンティアが顔を出す。キースがそれに気付き、軽く眉を上げた。

 リンティアはアイリスに対し、無邪気に問い掛けた。


「お母様、この人だぁれ?」


 その後も元気にすくすくと成長し4歳になった娘は、よくしゃべる明るい女の子になっていた。


「キースよ。お母様の弟。前にお話したでしょ?」

「”キースの花”のキース?」

「そうよ」


 アイリスがふふっと笑う。キースは不思議そうに「キースの花…?」と呟いた。


「あなたがずっと昔にくれた花のことよ」


 キースの鉢から生まれた芽は、真っ白で綺麗な花を咲かせた。そしてその後、散っては咲いてを繰り返し、今もアイリスの花園で生きている。


「覚えてないわよね。小さかったもの」


 アイリスが言うと、リンティアが出番だとばかりに「後で見せてあげるっ」と手を挙げる。

 キースはそんな姪っ子の言葉で漸く表情を和ませ、穏やかに微笑んだ。


 4人で食事をしながら、アイリスは離れていた時間を埋めるようにキースと色々な話をした。

 キースはやはりクレイド家の跡継ぎとしての教養を今から叩き込まれているらしい。家に居ると疲れる、学校に行くようになってむしろ楽になったという言葉に、アイリスはやはり心配そうに眉を下げた。


「でも、俺はクレイド家を継ぐ気はないけどね」


 何気なく呟いたキースの言葉に、ヨーゼフもアイリスも驚いて目を見張った。


「”つぐ”ってなぁに?」


 リンティアが無邪気に問いかける。

 アイリスは娘の問いに答える余裕も無く「どうして?」と弟に聞いた。

 キースは食事の手を止めると、いつの間に大人びたその瞳をアイリスへと向ける。


「騎士になりたいんだ」

「――騎士?!」


 アイリスは驚いて声をあげた。そして夫を振り返る。

 ヨーゼフはその視線を受け止めると、キースに訊ねた。


「騎士の家系でもないのに?」

「騎士の家系でなければいけませんか?」


 少し尖った声が即座に聞き返す。相変わらず気が強いなと、ヨーゼフは内心で苦笑した。


「いけなくはない。当然騎士の家系でない騎士はいくらでもいる。けれどもきみはクレイド家の1人息子だからね。当然後継ぎとして期待されているだろう。…父上にその気持ちは伝えているのかい?」

「――いえ」


 キースが短く否定する。ヨーゼフは一拍の間を置いて続けた。


「…本気なら早めに伝えなくてはいけないだろうな。それともまだ夢の段階かい?」


 その言葉にキースは顔を上げると、きっとヨーゼフを睨んだ。


「ただの夢じゃありません!本気で騎士になりたいんです!そのために、剣も馬も習ってきました!」


 食ってかかる弟にアイリスが困惑する。リンティアもその穏やかならぬ空気を感じてか、怯えたように押し黙った。


「ならばまず父上を説得しなさい。騎士になるなら皆12、3歳頃には見習いとして入隊する。きみももう10歳なら時間はあまりない。説得が難しいと思ったら、私の希望だと言っても構わない」

「陛下の名前に頼りたくはないです」


 キースが毅然と言い放つ。子供とはいえ誇り高い。――だが、意地だけでは通らない話もある。


「家出という事態になられても困るんだよ。きちんとクレイド家の後ろ盾を持って入隊してくれ。その後はもちろん、私の名前に頼ることなく騎士の称号を手にしてもらう」


 キースの目から、ふと険が消えた。


「キース、騎士になるということはね。私に仕えるということだ。私とともに国を護る役目を担うということだよ。私は妻の弟だからといって簡単にその資格は与えないし、きみも私を君主として仰ぐことができないなら騎士になどなるべきじゃない」


 ヨーゼフは淡々とキースを諭した。

 少し厳しく難しい話かもしれないが、彼が言葉通りに本気であればいずれ直面する現実である。

 キースは黙ってヨーゼフの言葉を聞いていた。


「もう一度、よく考えてごらん」


 最後にそう声を掛けると、キースは僅かに間を置いて「はい」とだけ答えた。

 その目はまた深い海のような静けさを取り戻していた。



 食事が終わると、リンティアはキースの手を引いて花園へと連れて行った。キースは戸惑いつつも、勢いに負けて引っ張られていく。

 そんな背中を見送って、ヨーゼフとアイリスはお互いに目を合わせた。


「また嫌われてしまったかな」


 ヨーゼフが苦笑する。アイリスは「ううん」と首を振った。


「素直に”はい”って言ったもの。納得いかないことには絶対頷かない子なんだから」

「もう5歳の聞かん坊じゃないよ」

「変わってないわよ、そこは」


 アイリスはどこか楽しそうに笑った。

 子供達を追って出た庭園には、午後の暖かな光が降り注いでいた。


 ◆


 その後しばらくして、キースからアイリス宛てに手紙が届いた。

 それは騎士になることの許可をもらったという報告の手紙だった。

 説得はやはり長引いたようで、最終的にはヨーゼフの提案とおり”国王の希望だ”というようなことを話したそうだ。

 頑なに反対していた父親も、国王の名を前には口を噤むしかなかったのだろう。


 クレイド家は養子を迎えることになり、キースは父親と口をきかなくなったという。穏やかならぬ雰囲気だが、キースはやはり本気で騎士を目指しているということだ。

 それが城に居る姉のためだろうことは、容易に想像できた。

 アイリスもそれを感じているようで、キースの選択に口を出すことは無かった。


「近衛騎士隊を目指すのだろうね」


 ヨーゼフはぽつりと呟いた。

 長椅子に座るヨーゼフの膝に頭を乗せ、リンティアはすやすやとお昼寝中だ。起こさないようにゆっくり動き、目の前のテーブルに手紙を置く。向かいに座るアイリスは、それを受け取りながら嘆息した。


「そうなのかしら…だとしたら大変だわ」

「きっとそのつもりだよ」


 リンティアの髪を優しく撫で、ヨーゼフは穏やかに微笑んだ。


「頼もしいな。きみやこの子を護ってくれる強い味方だ」


 無邪気な寝顔を見ていると、幸せを感じる。何の苦労も知らず育ってくれればと願わずにいられない。

 アイリスは目を細め、そんな夫を眺めていた。


「リンティアの結婚相手はどんな男かな」


 不意にヨーゼフが呟いた。気の早すぎる話に、アイリスは失笑する。


「まだまだ先の話よ」

「そうだけどね…」


 今からすでに想いは複雑である。アイリスを奪われたクレイド氏も同じ気持ちだったのだろうかと、想像して苦笑した。


「幸せな結婚をしてほしいわ…」


 アイリスの呟きに「当然だよ」と返す。


「この子に政略結婚なんてさせない。心から望む誰かを選ばせてあげたい。私がきみを選んだようにね…」


 アイリスの顔に、嬉しそうな微笑みが広がる。

 初めて会ったあの時から、自分を癒し続け、諦めていた幸せを与えてくれた女性(ひと)


「ヨーゼフ…」


 アイリスが囁く。


「ん?」

「…愛してるわ」


 まるで綺麗な歌声のように、その小さな囁きはヨーゼフの胸の中で響いた。声を失い固まる夫に、アイリスはふと首を傾げる。


「…どうしたの?」

「え?」


 不思議そうに窺うアイリスの問い掛けで我に返り、ヨーゼフは誤魔化すように目を伏せた。


「いや、ごめん。…ありがとう」


 ぎこちなく礼を言って、またリンティアの髪を撫でる。少し間をおき、アイリスがすっと向かいの長椅子から立ち上がった。

 そしてテーブルを廻ってこちらに来ると、ヨーゼフの隣に座りなおす。

 真っ直ぐ自分を見つめる青い瞳に戸惑いつつ、ヨーゼフは「どうした?」と問いかけた。


「私、伝えてなかった…?」

「いや、そんなことない。ちゃんと伝えてくれていたよ」


 慌てて首を振った。そう、何度も感じさせてくれていた。ただその言葉を聞いたのが初めてだっただけで。

 ただそれだけのことで、またこんなにも心が震える。

 そんな自分は、本当に幸せ者だと思う。


「愛してるわ」

「うん」

「世界中で一番、あなたを愛してる」

「うん」

「こんな幸せを、ありがとう…」


――それは私の台詞だよ…。


 言葉にならない想いが込み上げて、もう何も言えない。

 何かを口にすれば、一緒に涙が出そうだから。

 こんないい大人が、まさか泣いたりできない。


 でもアイリス、今は心から思う。


 生まれて来れて、本当によかったよ――。

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