誕生
アイリスが出産したのはそれから2ヵ月以上後のことだった。
「――陛下、お産まれになりました」
議会の最中部屋に入ってきた侍従の口から、ごく事務的にその報せはヨーゼフのもとへ届けられた。
昨夜は陣痛で苦しむアイリスの傍で一晩中付き添っていたが、結局産まれぬままに朝を迎え、政務に戻っていた。
待ち兼ねたその瞬間、ヨーゼフは弾かれたように玉座から立ち上がった。
宰相と目を合わせると、彼は全てを了承して頷きを返してくれる。
「申し訳ないが、後を頼む」
「かしこまりました」
宰相が頭を下げる間も惜しく、ヨーゼフは玉座を離れた。
今日は全く政務に身が入らず、頭の半分以上はアイリスが占めていた。こんなに集中力を欠いたのは初めてのことだった。かつてカーラが子供を産んだ時は事後報告を受けただけに終わったが、今回は陣痛が始まったその時から傍に居ることが出来た。
女性が子供を産むのにこんなにも苦しむのだということを、ヨーゼフは初めて知ったのだった。
そして男はそれに対して、どうしようもなく無力だということも。
慌しく議会の場を離れアイリスのもとへ駆けつけると、彼女はまだ寝台に横になっていた。
息をきらして現れたヨーゼフを、穏やかな微笑みで迎えてくれる。腕に産まれたばかりの小さな赤子を抱き、乳を含ませているところだった。
医師はヨーゼフに「おめでとうございます。大変元気な姫様です」と報告した。
「姫…?」
「はい、王女様で御座いました」
ヨーゼフの目はまたアイリスへと向く。疲れは見えるが、それ以上に幸せそうな微笑みをたたえ、懸命に乳を吸う赤子を見つめていた。
傍らに行って屈むと、赤ん坊の顔が見える。
間近で対面した娘は、思った以上に小さかった。
「有難う、アイリス…」
気の利いた台詞も思いつかず、ただそう声をかけると、アイリスが微笑みで応える。
「体は…大丈夫なのかい?」
「うん…」
アイリスは小さく頷いた。
「ちょっと疲れたけど、大丈夫。この子を見たら、全部吹き飛んじゃったみたい」
そう言って赤子に目を向けたアイリスの視線を追い、ヨーゼフもまた娘の顔を覗きこむ。口一杯に乳を含んだ小さな命は、眩しい程の生命力に溢れて見えた。
「力強いね」
「うん…痛いくらいよ。まだ何も出てないと思うんだけど」
「そうなのかい…?」
「うん。だんだん出るようになるんですって…」
「へぇ…」
子供が居るはずなのに、なにも知らない自分に苦笑する。ジークもヨハンも、いつの間にか産まれ、育っていた。しかもそのほとんどは乳母の手によってであり、全てが人任せだった。
当たり前のようにそうしていた己を省みて、ヨーゼフは今更ながら恥じ入った。
その後アイリスは赤子をヨーゼフに抱かせてくれた。
小さなその体はあまりに軽くて、頼りなくて、壊してしまわないかと恐ろしくなる。けれども、その顔はどうしようもなく可愛らしくて、どれだけ見ていても飽きることがなかった。
「目の色、あなたと同じでしょ?」
アイリスの言葉で、初めて気付く。まだ何も見えてなさそうな瞳は、確かに翡翠色をしていた。
「本当だ…」
改めて自分の子だという実感が湧いて、ヨーゼフは幸福感に包まれた。
「名前を、考えてくれる?」
「…あぁ、考えるよ」
幸せにしてやりたいと、心から思った。
国王の娘という特殊な運命のもとに産まれたわが子。
この子にいつか、それでも”生まれてきて良かった”と思ってもらえるように――。
◆
生まれた王女は”リンティア”と名付けられた。
ヨーゼフが一生懸命考えた名前を、アイリスはとても気に入ってくれた。
母となった彼女は片時も娘を傍から離さず、甲斐甲斐しく世話をするようになった。
通常王族の子供は乳母の手により育つのだが、アイリスはそれを拒否した。全て自分でやりたいという申し出をヨーゼフも受け入れ、昼も夜もリンティアのベッドはアイリスの部屋に置かれていた。
その後順調に母乳も出始めたが、乳母に頼らない育児はやはり想像以上に大変そうだった。
夜中に何度も授乳やおしめのために起こされるようで、アイリスは常に寝不足だった。
時には泣いている理由が分からず、何をしても泣きやまずに途方に暮れることもあるという。それが昼夜を問わず続くので、アイリスの顔には隠しきれない疲労感があらわれ始めた。
ヨーゼフは流石に心配になり、ある時、夜の間だけでも乳母に預けてみないかとを提案した。
「このままではきみの体が参ってしまいそうだよ。子供は一晩乳をもらわなくても問題はないし、そのうち諦めて夜に泣くこともなくなるらしいんだ」
それは乳母から聞いた話だった。
アイリスはヨーゼフの言葉に衝撃を受けたようだった。目を見張り、娘を庇うように小さなベッドの前に立ちはだかって言った。
「そんなの嫌…!」
「…でも」
「嫌っっ!どうして産まれたばかりで諦めることを覚えなきゃいけないの?それよりまず、いつ呼んでも絶対誰かが来てくれるっていう安心感を与えてあげるべきじゃないの??」
いつになくはっきりと訴えたその顔は、紛れも無く母親のそれだった。
――諦めることを…。
返す言葉も無かった。己の発言に恥じ入って押し黙るヨーゼフに、我に返ったアイリスは「ごめんなさい…」と謝った。
「…あなたは私のことを、心配してくれただけなのに…」
「いや、いいんだ。きみの言う通りだよ。…私が、間違ってた」
それは昔から王家で当たり前のように行われている育児で、当然ジークとヨハンもそうして育っていた。
生まれて直ぐに彼等が覚えたのは、時には諦めなくてはならない事もあるという残酷な事実だったということか…。
愚鈍な己を嫌悪し、そして思った。
同じことを繰り返してはならないのだ。
ヨーゼフはリンティアのもとへ行くと、その小さな体をベッドから抱き上げた。
そして自分達の寝台へと連れて行く。アイリスは不思議そうな顔で、ヨーゼフの行動を見守った。
ヨーゼフは大きな寝台に乗り、そこにリンティアを横たえると、アイリスを振り返って言った。
「今夜からは3人で一緒に寝よう」
ヨーゼフの提案に、アイリスは青い瞳を丸くした。
「でも…あなたも泣き声で起きちゃうから…」
「いいよ。交代で世話をすればいい。私にもできることはあるはずだよ」
「だめよ。あなたは昼にお仕事があるもの」
「リンティアだって昼に休みをくれるわけじゃないだろ?」
おどけた調子でそう返すと、アイリスの目からはふっと力が抜けたようだった。微笑を浮かべ、首を傾げる。
「…国王様がおしめを替えるの?」
「またそれを言うのかい?」
大袈裟に顔をしかめて見せると、アイリスは笑いながらごめんなさいと謝った。そして肩を下ろし、小さく呟く。
「有難う…」
その顔には久し振りに穏やかな微笑みが広がっていた。
ヨーゼフとアイリスは、その夜リンティアを挟んで初めて3人で眠った。人の気配が分かるのだろうか、両親の間でパタパタと足を動かすリンティアは、少々興奮気味で、喜んでいるようにも見える。
アイリスと目を合わせて微笑み合うと、胸の奥に温もりが広がる。
それはヨーゼフの夢見ていた幸せな絵そのものだった。
◆
その後は2人で小さな暴君のご機嫌をとる日々が始まった。
乳をあげる時以外では、ヨーゼフも細々と世話をやいた。
おしめ替えの手順は早々に覚えたが、特に苦戦したのは寝かしつけだった。歌を歌ってみたり、抱いたままゆらゆらと揺らしてみたり、そうして漸く眠ったかと思っても、寝台に下ろせばあっさりと目覚めてしまったりする。
そのうち外の風に当たるとわりとあっさり眠るのだということに気付き、リンティアと一緒に花園を散歩するのが日課になった。
夜泣きがおさまらない夜には、真っ暗な庭園を歩くこともしばしばあった。
ある夜またリンティアが夜泣きを始めた。ヨーゼフは眠気のあまり朦朧としながら、隣でくったりと眠ったまま起きれない様子のアイリスの夜着を勝手に剥いで胸元を露にし、リンティアをそこへと導いた。
リンティアが待ってましたとばかりに乳に吸い付く。
その感覚で覚醒し、アイリスも薄目を開いた。
「あ、ごめん。勝手に借りてる…」
我に返って謝ると、アイリスは半分眠ったままクスクスと笑った。
それは先の見えない戦いだったが、当然のことながら終わりが来た。
リンティアは何の前触れもなく、ある時から突然朝までぐっすりと眠ってくれるようになったのだ。
初めてリンティアが夜泣きをせずに朝を迎えた日、ヨーゼフは喜ぶより前に動転した。思わずリンティアの呼吸を確認してしまい、その心地よさそうな寝息に心底安堵したものだった。
夜中の授乳が無くなると育児は格段に楽になった。
それでも今更離れがたく、その後も3人で並んで眠る日々は変わらず続いていった。