迎え
翌日、突然クレイド家に向かうと言った国王の言葉に、宰相は特に驚きを見せなかった。
そろそろそう言い出すだろうことは予期出来ていたのかもしれない。幼子を見守る親のような顔で、”かしこまりました”と応じられ、気恥しい思いを味わった。
政務が落ち着いている時期だったのが幸いし、議会の予定を繰り下げて時間を作るのは無理なく行えた。
クレイド氏には昨夜のうちに今日の約束を取り付けてはおいたが、アイリスには秘密にしておくよう釘を刺すのは忘れなかった。
そして騎士の護る馬車に乗り、多少大袈裟な一行はクレイド家の屋敷へと向かったのだった。
クレイド家の邸宅は貴族にしてはさほど大きくなく、主の人柄を思わせる落ち着いた佇まいであった。
到着したヨーゼフは即座にクレイド氏によって出迎えられた。彼は昨夜国王自ら迎えに来るという話を恐れ多いと遠慮したが、強引に押し切られて今に至る。やはりひどく恐縮した面持ちだった。
ヨーゼフとしてもクレイド氏の立場は理解しているものの、彼の言うとおりにアイリスを無理やり城に戻すのでは意味が無い。
アイリスに対してだけは王ではなく、1人の男でありたいのだ。
「アイリスは?」
問いかけたヨーゼフに、クレイド氏は「部屋に居ります」と答えた。
「出かける予定はなかったのか」
「ありません。戻ってからはほとんど部屋を出ておりませんので」
「…閉じ込めてるのか?」
「いえ、閉じ籠っているのです」
そんな会話を交わしながら屋敷へと入る2人の後ろを、数人の騎士がついて歩いた。
やがてアイリスの部屋の前に着くと、クレイド氏は「ここです」と言ってその扉を軽く叩いた。次いで中へ向かって呼び掛ける。
「――アイリス!」
「…はい」
中から小さく懐かしい声が応える。やがて少しの間を置いて、扉はゆっくりと開かれた。
扉の向こうから少女の顔が覗く。肩をおおう金色の髪、真っ青な瞳。1月ぶりの妃の姿がそこにあった。
彼女の目が父を認め、自然とその隣に立つヨーゼフへと動く。
本当に何も聞かされていなかったのだろう、途端、アイリスの真っ青な瞳は驚きに揺れた。
目を見開いたまま硬直する彼女をよそに、ヨーゼフはクレイド氏に言った。
「2人で話がしたい」
「はい」
クレイド氏は頭を下げ、速やかにその場を離れた。
ヨーゼフはついてきた騎士に「ここで待機するように」と言い置くと、アイリスに向き直る。
その顔はまだ驚愕の色しか無かった。
「…久し振り」
穏やかに微笑みかけると、漸く事態を理解したらしい。アイリスはたどたどしく応える。
「…どう、して…?」
「入ってもいいかな」
ヨーゼフの言葉にアイリスは我に返ると「あ、はい…」と改めて扉を大きく開いてくれた。
「有難う」
中に足を踏み入れると、綺麗に整えられたアイリスの部屋が目に入る。それと同時に視界に現れた姿に、ヨーゼフは目を丸くした。
「――帰れ!!!」
仁王立ちで行く手に立ちふさがる小さな天使は、開口一番そう叫んだ。
「キース!!」
アイリスが慌ててたしなめる。
「なんてこと言うのっ!部屋に戻ってなさい!」
「やだ!!」
物凄く分かりやすく歓迎されていない。
折角戻って来た姉を再び連れ戻そうとする男だということを、賢い天使はすでに認識しているようだった。
「キースっっ!」
「いや、構わないよアイリス。キースにも居てもらおうか」
キースの大きな目がヨーゼフを睨みつける。ヨーゼフは苦笑しつつ彼から視線を外すと、それをアイリスへと向けた。
扉を閉めたアイリスが、躊躇いつつ振り返る。それを背に立つと、ヨーゼフと向き合う形になった。
しばらく離れていた間に、アイリスのお腹はまたふっくらとしていた。
袖の無い桜色のワンピースはくるぶしまでの長さがあり、彼女の体全体を覆っている。
この1ヵ月の間に彼女の気持ちが変わっていない事を祈りながら、ヨーゼフは話を切り出した。
「まず、誤解を解かせて欲しい。私がきみ以外の妃のもとへ通っていると…。きみがそう思っていたというのは本当?」
アイリスが驚きにまた目を見開く。
僅かに間をおいて「誤解…?」と小さく聞き返した。
「誤解だよ。私はきみを迎えてから、他の誰のもとへも通っていない」
アイリスはとっさに何も応えられず、暫く呆然としていた。今まで事実と思い込んでいたことを急に否定されても、俄かに信じ難いのかもしれない。
「何故そう思ったのか、教えて欲しいんだ」
問い掛けで記憶が甦ったのだろう、アイリスの目がじわりと赤くなる。押し寄せる涙を堪えるように俯くと「だって、イライザが…」と口籠った。
「イライザ??」
聞いた事の無い名前を聞き返すと、アイリスが説明を添える。
「あ…新しい女官の…」
「あぁ…!」
ヨーゼフの脳裏にアイスブルーの瞳とプラチナブロンドの髪の気難しそうな女官の顔が甦った。そういう名前だったのかと今初めて知る。
「前にイライザに言われたの。”陛下は今夜アグネス姫と過ごされていて、こちらに来られるのは遅くなるそうです”って…」
がつんと鈍器で殴られたような衝撃だった。
いつの話かなど、聞くまでも無い。何故その件がアイリスにまで伝わっているのだ。やましいことは全く無いとはいえ、聞けばいい気持ちはしないだろうとあえて告げなかった事が…!
アイリスは目を伏せたまま、苦しげに続ける。
「イライザに、”ご理解下さい”って言われて…私、何も言えなくて…」
なんてことだ。ヨーゼフは思わず頭を抱えた。
「それは…確かに一度アグネス姫のもとを訪れたことはあったよ。でも相談事があると言われて聞きに行っただけだ。それ以上のことは一切、何も無い」
「……でも、話してくれなかった…」
あの日、窺うように自分を見ていたアイリスの目を思い起こして己を呪う。秘密にされたことで、疑惑は確信へと変わったのだろう。
「でも、私はこんな体で責めることなんてできないし…。その後あなたが来るのが遅くなる度もしかしたら今頃って考えるようになっちゃって…。だったら私のところへなんか、来ないでくれればいいのにって…!」
訴えるように声を絞り出しながら、アイリスの目には堪えきれずに涙が浮かんだ。それを隠すように慌ててまた俯く。それでも隠し切れず、涙はぽとりと床に落ちていった。
「一緒にいるのが、つらかったの…」
込み上げる想いを抑えきれず、ヨーゼフはアイリスの腕を掴んで抱き寄せた。
その体を腕の中に包み込むと、アイリスは堰を切ったように泣き出す。その痛切な声を聞きながら、柔らかい金色の髪に顔を埋めた。
「アイリス、誓ってもいい。そんな事実はどこにも無いよ」
穏やかにゆっくりと語りかけた。
「できるわけがない、そんなこと。私の子を自分の体で育ててくれているきみを裏切るようなこと…。そんなことをして、きみに嫌われたらどうする?とてもその先、生きていけないよ」
大袈裟な言い方に、アイリスが泣きながらもちょっと笑ってくれる。けれどもヨーゼフにとっては全く誇張ではない。
「アイリス、頼むから、そんな風に1人で苦しまないで、何かあったときには私に話してくれ。知ってるだろ?私は本当に気が回らないんだよ」
涙が落ち着いたアイリスがそっと顔を上げる。
そしてその綺麗な瞳で、ヨーゼフを振り仰いだ。
「お父様には、とっても怒られたの…。愛妾として立場をわきまえられないなんてって…」
「愛妾じゃない」
ヨーゼフは即座にその言葉を否定した。
「私にとっては、きみは只1人の妻だよ」
アイリスの瞳がまた涙に潤む。惹かれて止まない美しい少女。懐かしくて恋しくてたまらなかった、最愛の妃――。
「この1ヵ月……寂しくてたまらなかったよ」
正直な想いを伝えると、アイリスの目からは涙が零れて頬を伝った。
「私もなの…。離れたら、楽になると思ってたのに…やっぱりつらかったの。ヨーゼフからお手紙も来ないし、怒ってるかもしれないって思って。もう戻ってこなくていいって言われたら、どうしようって…」
ヨーゼフは不謹慎にも笑い出してしまった。くすんと鼻をすするアイリスの前髪を優しく撫で上げ、その瞳を覗きこむようにして囁く。
「そんなことを思うのは、この世にきみ1人しかいないだろうね」
アイリスの白い頬に手を触れ、そこに伝う涙を指で拭った。
「城の誰もが思ってる。国王陛下は年甲斐も無く若い妃に溺れてるってね。事実なので反論もできない。しかも里帰りを申し出たきみをこうして無理やり迎えに来たとして、またひとつ”ご寵愛伝説”を増やしてしまった」
アイリスが嬉しそうに微笑む。やっと見せてくれた笑顔に、ヨーゼフの胸は激しく揺さぶられた。
「…私はきみに、夢中なんだよ…」
お互い引き合うように、唇が重なった。
懐かしく甘い口付けに引き込まれる。アイリスも、ヨーゼフを抱き返しそれに応えてくれた。
不意に背後から太腿を蹴られる衝撃を感じ、ヨーゼフは我に返った。慌てて振り返り、そこに立つ坊やの存在に気付く。
「――あ」
すっかり忘れ去られていた小さな天使が、さきほどよりさらに怒りに燃えた目で自分を睨んでいた。
「ばーーーか!!!」
見事な棄て台詞を吐いて、キースは扉を蹴破る勢いで部屋を駆け出していった。
「キ、キース!!」
姉の声にも足を止めず、そのまま走り去っていく。アイリスとヨーゼフは待機していた騎士達とともに、しばし呆然とその後を見送った。
「完全に、嫌われたな」
ヨーゼフが苦笑まじりに呟く。
「だが国王を足蹴にするとは、なかなか将来有望だ」
「私ったら…すっかり忘れてて…」
眉を下げて呟いたアイリスは、耳まで真っ赤になっていた。
◆
その後アイリスはヨーゼフとともに再び城に戻って来た。
別れ際、アイリスは部屋に籠ってしまったキースのもとへ行き、何やら2人で話していたようだった。
キースは見送りに出てはこなかったが、アイリスは”2人で充分お話できたから大丈夫”と悪戯っぽく微笑んだ。何を話したかについては秘密にされてしまったが。
城に戻ったヨーゼフは、一度政務に戻り、その夜改めてアイリスの部屋を訪れた。
そこには戻って来たアイリスに付いて、噂のイライザの姿もあった。
ヨーゼフはアイリスとともに、イライザに気になっていたことを訊ねてみた。
「私がアグネス姫と過ごしていると、アイリスに伝えたかい?」
国王陛下に直接話しかけられ、常に無表情のイライザもその顔に多少の動揺を滲ませながら答えた。
「お伝え致しました」
流石にきちんと覚えているようで、迷いの無い返事だった。
アイリスは戸惑いつつイライザとヨーゼフを交互に見ている。
「それは誰からの連絡だ?」
「…陛下の部屋を警護する衛兵からです」
「衛兵?」
ヨーゼフが問いかけると、イライザはこくりと顎を引く。
「アグネス姫からお伝えするよう頼まれたと、おっしゃっていましたが」
「アグネス姫が…」
ヨーゼフは思わず眉を顰めた。
国王が部屋に来ると聞いて、わざわざアイリス宛てに伝令を出したということか。
「…なるほど。よく分かった」
ヨーゼフが頷くと、イライザの目には僅かに安堵の色が浮かんだ。
その後2人きりになると、いつものように長椅子でくつろぎながら、ヨーゼフはアイリスにあの時のことを話して聞かせた。
ヨーゼフの説明を、アイリスはただ黙って聞いていた。
「アグネス姫は恐らくきみへの対抗心でしたことだ。自分の優位を示したいという思いが多少あったのだろうが、きみがそんなに傷つくとは思っていなかったはずだよ。誰もきみが私を本気で愛しているなどと、思ってもみないからね…」
そう言って苦笑すると、アイリスはそっと目を伏せた。
「私…罰当たりよね。こんなに、恵まれているのに…」
「さぁ、どうなんだろうね…」
ヨーゼフは苦笑しながら、アイリスの肩を抱き寄せた。
「私が国王でなかったら、誰も羨ましいとは思わないだろうな」
「そんなことないわ…!」
「…ありがとう」
力を込めて擁護してくれるアイリスに心からの礼を言うと、ヨーゼフは自分を見上げる愛しい少女に顔を寄せた。
2人きりの時間を取り戻せた喜びに、体中が熱くなる。
何度も唇を触れ合わせながら、お互い求めるように抱き締め合った。
アイリスの頬に触れていたヨーゼフの手が、首筋に触れ、肩に降りる。そしてゆっくり夜着をその細い肩から降ろしていった。
以前より大きくなった胸のふくらみが現れる。それを覆うように包み込めば、口付けは激しさを増していった。アイリスの吐息も熱くなる。
やがて唇が離れると、ヨーゼフは長椅子から立ち上がり、アイリスの体を抱き上げた。
その意図は伝わっているだろうが、アイリスの口から制止の言葉は出てこなかった。
不思議となんの問題もなく、2人はその夜久し振りに肌を重ねることができた。
終ってしまってからアイリスは大きなお腹を恥ずかしがったが、後の祭りだった。
そして久し振りのぬくもりに満たされながら、またかつてのように一緒に眠りに落ちたのだった。