里帰り
翌朝目を覚ましたヨーゼフの隣に、アイリスの姿は無かった。
まだ空は白み始めたばかりという様子で、起きるには早い時刻だ。訝しく思いながら寝台を出ると、直ぐにテラスへと続く大窓が開け放たれている事に気付く。どうやらアイリスは早朝から花園に出ているらしい。
ヨーゼフも上着を羽織ると、テラスから庭園へと出て行った。
思ったとおりアイリスは花園に居た。
だが花の世話をするでもなく、ただ1人白い長椅子に腰掛けてぼんやりと景色を眺めている。近寄ると、その足音に気付いてこちらを振り返った。
「…おはよう。早起きだね」
ヨーゼフの挨拶に、アイリスは微笑みで応えた。
その笑顔が翳って見えるのは昨夜の涙のせいだろうか。胸に湧き上がる漠然とした不安に意識的に蓋をして、ヨーゼフはアイリスの隣に腰掛けた。
朝を迎えたばかりの空気はまだ少し冷気を帯び、肌に心地良い。露を纏う花々を前に綺麗だねと動きかけた口は、アイリスの呼び掛けに固まった。
「ヨーゼフ…」
振り返ったヨーゼフを、アイリスは見返すことなく言った。
「…お願いがあるの」
唐突なその言葉に、反応が一拍遅れた。アイリスが自分に何かをねだったことなど、今までに一度も無い。
「……なんだい?」
何故か嫌な予感が頭をもたげ、形の見えない不安が膨らんでいく。
アイリスは目を伏せたまま少しの間沈黙した。言いにくそうな様子が、なおさらヨーゼフの焦燥を煽る。
「…アイリス…」
「――赤ちゃんが産まれるまで、実家で過ごしたいの」
ヨーゼフは言葉を失った。
胸苦しさに襲われ、とっさに何も応えられない。アイリスの初めての願いは、自分のもとを離れることだった。
重苦しい沈黙の中、ヨーゼフは動揺する自分を懸命に抑え込んだ。どう返せばいいのか、考えれば考えるほど言葉は頭の中で霧散する。
様々に思考を巡らせた甲斐も無く、結局ヨーゼフが口に出来たのは情けない程の弱音だけだった。
「それは……寂しいな」
産まれるまではあと3ヵ月ほどある。城を離れてしまえば、簡単には会えなくなるだろう。
たった3ヵ月と言われればそれまでだが、ヨーゼフにとって長すぎる時間だ。だがアイリスは、それを望んでいる…。
「ごめんなさい…」
アイリスが小さく呟く。
「赤ちゃんが産まれたら、一緒に戻ってくるから…」
通常、妃の出産は城で行われる。それは王の血筋の者が攫われたり摺りかえられたりすることを防ぐためだが、王位継承権を持たないアイリスの子がどこで産まれようと恐らく問題にはならない。
その願いを叶えてやることは難しくはないはずだった。――理屈の上では…。
「…産まれる時には、私も側に居たいのだが…」
悪足掻きをするヨーゼフに、アイリスは「その時は、必ず知らせるから」と応えた。
どうしても家へ帰りたいという切実な思いが、彼女の頑なな様子から伝わってくる。
それが分かっているのに、頷けない。
アグネスに対しては容易く里に帰れと言い放っておいて、なんと身勝手なことかと自嘲した。
「理由を教えて欲しい。ここに居るのが辛いのかい…?」
アイリスを困らせると知りながらも問い掛けた。どこかで否定してくれるのではないかと期待する思いはあっさりと裏切られ、アイリスは小さく頷く。
「今は、辛いの…。どうしようもなく、寂しくなっちゃうの。我侭を言ってるのは分かってるけど…。でも…」
アイリスは言葉を切ると、ヨーゼフに対して体を向けた。そして改めて頭を下げる。
「お願いします…」
心臓の脈打つ音が耳の奥で響き、それに合わせるように胸が痛みを訴える。
頭を下げてまで自分の傍を離れたいと願っている――その事実を、受け止めるのが辛かった。
いつかそう言われる日が来るような気はしていた。親からも弟からも、そして友人からも引き離された場所。自分1人がどれだけ頑張っても、その寂しさを埋めることはできないのだと思い知らされる。
子供が産まれれば、確かに孤独感は紛れるだろう。
それまでのたった3ヶ月、彼女を自由にしてやることができないようでは情けない。
戻ってくると言ってくれているのだから、まだ良かったのだ。
ヨーゼフは自分に言い聞かせながら漸く口を開いた。
「……分かった」
アイリスは顔を上げると、その青い瞳でヨーゼフを映した。愛しい妃に笑顔を返しながら、それが彼女の目にぎこちなく見えていないことを願う。
「いいよ。ゆっくりしてくるといい。産まれる時には駆けつけるよ」
優しい風の中、ふと沈黙が流れる。
不意にアイリスはヨーゼフの肩にすがるように顔を埋めた。そして、震える声を振り絞る。
「ごめんなさい…」
「…謝ることないさ」
「どうしてもっと、強くなれないのかな…」
独り言のような呟きが、嗚咽に変わる。自分自身を責めるような彼女の言葉に、また胸が痛んだ。
強くならなければいけない歳じゃない。
耐え切れなくなって、当然じゃないか――。
押し殺した泣き声を聞きながら目を閉じる。
その震える肩を抱きしめる権利すら、今の自分には無い気がした。
アイリスはヨーゼフの指示により、その日のうちにクレイド家へと送られていった。
政務のため見送ることもできず、ただ無事に着いたことを騎士からの報告で知った。
今頃キースと再会しているだろう。
小さな天使の笑顔が見える気がして、ヨーゼフはふっと笑みを零した。
◆
その後、かつてと同じように政務のみを淡々とこなす日々を暫く過ごした。
アイリスの居ないだけで、毎日がひどく色褪せて思える。政務が忙しいのが、むしろ有難かった。ヨーゼフは自分の寂しさを誤魔化すように、必要以上に仕事に没頭した。
時間があれば、どうしても考えてしまう。
このままあの子は二度と、戻ってこないのではないかと――。
そしてアイリスから何の連絡も無いまま、1ヵ月が過ぎ去った。
納税の時期を過ぎ政務が落ち着きをみせると、忘れようとしていた寂寥感が襲ってくる。
けれども会いに行っていいものかどうか判断がつかず、ヨーゼフはただ月日が流れるのを待っていた。
そんなある日、城では晩餐会が催された。
いつものように王族席に着くが、今日はアイリスの席が無い。
静かに座しているだけの王妃と王子達。そんな中ヨーゼフは同じように押し黙ったまま、ただぼんやりと広間を眺めていた。
かつてこの場から脱け出して行った庭園で、アイリスと出会った。まださほど遠い昔ではないのに、その日のことがひどく懐かしく甦る。
そしてまるで二度と戻らない日々を悼んでいるかのような自分に、苦い笑みが洩れた。
―――どこかで、諦めているのかな…。
もしアイリスがもう戻りたくないと言ったら、自分はそれを受け入れるのだろう。受け入れるしかないのだろう。
あの子にはやはり、誰よりも幸せになって欲しいから…。
ふとヨーゼフの目に、金髪の紳士の姿が映った。立派な礼服に身を包んだ彼は、クレイド家の当主、アイリスの父親だ。
以前と同じように、彼は奥方のみを伴い晩餐会に出席しているようだった。
当然アイリスの姿は無い。
不意にヨーゼフは玉座から腰を上げた。
突然動いた国王に、傍で控える騎士が緊張する。カーラもまた、一瞬だけ彼に視線を投げて寄越した。
ヨーゼフは彼らに断ることなく、広間へと進み出た。
国王自ら動いたことで、貴族達の中にも緊張が広がる。即座に歓談を中断し、持っていたグラスを置いて国王に向き直る。そして彼が通り過ぎると同時に、誰もが丁寧に頭を下げた。
人波の中に自然と生まれた道を通り、ヨーゼフは真っ直ぐクレイド氏のもとへと歩いた。
国王が自分のもとへ向かっているのに気付いてか、クレイド氏も形を改める。
真っ直ぐ背筋を伸ばして立つその姿は、かつての没落貴族と思えぬ気品を漂わせていた。
ヨーゼフがクレイド氏の前で足を止めると、同時に彼が頭を下げる。
広間にはいつしか静けさが広がり、誰もが国王とクレイド氏を見守っていた。
ヨーゼフはふとそんな周囲を見渡すと、よく通る声で告げた。
「―――私用だ。続けてくれ」
国王の声が広間に響く。一瞬の間の後、皆は言われた通り徐々に歓談を再開し、場は再びもとの活気を取り戻した。
それを確認し、ヨーゼフは改めてクレイド氏に向き直った。
彼はまだ王に対し、頭を下げたままだった。
「顔を上げてくれ。アイリスの様子を聞きに来たんだ。…あれは、元気にしているか?」
ヨーゼフの言葉でクレイド氏が顔を上げる。アイリスと同じ青い瞳がヨーゼフを映した。
「お気遣い有難うございます。娘は元気にしております」
「子は…順調に育っているか」
「はい。医師に診せております。問題はございません」
「それはよかった…」
聞きたいことは色々とあるはずなのだが、結局当たり障りのないことしか口に出来ない。そして案の定、クレイド氏の答えからアイリスの思いは見えてこなかった。
「…城では、ずいぶんと寂しい思いをさせた。悪いことをしたな」
「――滅相も御座いません…!」
クレイド氏は驚いた様子で言った。
「責めを受けるべきは娘の方で御座います。陛下が既にお妃様をお迎えになっていることは承知の上でお側に上がらせて頂いた身でありながら、自分の立場もわきまえずに陛下をわずらわせ…父親として汗顔の至りで御座います。以後、二度とこのようなことが無いよう言って聞かせます」
彼の口から一気に出た謝罪の言葉に、ヨーゼフは虚を突かれて固まった。
即座に理解できずに、何度か頭の中で反芻する。
―――すでに妃を…?
「…何のことだ?」
今、他の妃の話が出てくる理由が分からない。
クレイド氏の隣では、クレイド夫人がその顔に明らかな動揺を滲ませている。
「妻から事情は聞いております」
クレイド氏は憮然としてそう言った。妻から聞いたということは、アイリス本人からは何も聞いていないのだろうか。
何か理解に行き違いがあるような印象を受け、ヨーゼフは「事情とは?」と問い返した。
王と夫の間で、クレイド夫人がおろおろと忙しなくその目を動かしている。
クレイド氏は当事者であるヨーゼフから追求を受けることに多少の戸惑いを見せつつ、答えて言った。
「娘は…陛下が他の姫のもとへお通いになることに対して恐れ多くも不満を訴え、一時暇を出されたと」
「――は?」
ヨーゼフの口からは、国王にあるまじき間抜けな声が飛び出した。
遂に言ってしまったという顔で、クレイド夫人が空を仰ぐ。
3人の間の時が止まった。
目を丸くして固まった国王の反応に流石に違和感を覚えたのだろう。クレイド氏の目に当惑の色が浮かぶ。
”陛下が他の姫のもとへお通いになるのが…”
―――誰がだ?
ヨーゼフは思わず自問した。さっぱり意味が分からない。何処からそんな話が生まれたというのだ。我に返ると、クレイド夫人に対して問うた。
「アイリスがそう言っていたのか?」
「いえ、あの…」
クレイド夫人は狼狽して言い淀む。
「も、申し訳ございません…。娘が自分から里帰りを申し出たということは、承知しております…」
「――なんだと?!」
夫が横から憤然と口を挟んだ。
「私は聞いていないぞ!暇を出されたとお前が言ったのではないか!」
「それは…!あなたが理由を言った時点ですごい剣幕だったから…。そうでも言わなければ追い出しかねない勢いだったもの…」
「当然だ!!陛下のお立場を理解できない上、自らお側を離れるなど…」
「――待て!」
言い合いを始めた夫婦を遮り、ヨーゼフは声を上げた。夫婦は揃って我に返り、口を閉ざす。
「そんなことはどちらでもいい。私が他の姫のもとへ通っていると、彼女がそう言っていたのか?」
改めて問いかければ、クレイド夫人は窺うように夫を見遣る。クレイド氏は小さく嘆息して、ヨーゼフに答えた。
「申し訳ございません。陛下には過分なご寵愛を頂いておりながら…」
夫の隣でクレイド夫人が目を伏せる。その様子から質問の答えはおのずと伝わってくる。
ヨーゼフの脳裏に、突如アイリスの泣きそうな顔が甦った。
”それなら…どうしたらいいか教えて”
部屋に行くのが遅れると、そのたび顔を曇らせた。そして家に戻りたいと言った前夜、なんとかして自分の相手をしようとした。
”どうしてもっと、強くなれないのかな…”
頭の中で何かが弾ける。突然、アイリスの行動の全てが腑に落ちた。同時に、何も分かっていなかった自分にも気付かされた。
まさか彼女が受け入れられないからといって、ヨーゼフが他の姫を求めたと思われていたなどと、考えもしなかった。
アイリスはそれを悲しんで…。
”きみがそんなことを心配する必要は無いんだ”
自ら奉仕すると言ったアイリスに、自分が掛けた言葉が甦る。それがどんな風に響いたのか、堪えきれずに泣き出した彼女の様子から明らかだった。
何故その時に、気づいてやれなかったのだろう…。
何故そんな誤解をしたのかは分からない。それでも1つだけはっきりしていることがある。
また自分は、大事な時に彼女の気持ちを分かってやれなかった。
口に出せない想いを、感じてやることもできなかった。
その上、傍を離れたいと言った彼女の言葉を後ろ向きに捉え、その想いを疑った。
アイリスはいつだって、ただ自分を想うがゆえに、苦しんでいるというのに――。
「明日にでも…連れて参ります」
クレイド氏の言葉で、現実に引き戻される。ヨーゼフはその言葉に、ゆっくりと頭を振った。
「その必要はない…」
娘が見限られたと感じたのだろう、クレイド氏の顔が曇る。ヨーゼフはそんな彼に、ふっと笑みを零して言った。
「――私が、迎えに行く」