お披露目
ヨーゼフ王が初めてアイリス姫を自らの部屋に招いてから以降、姫は毎夜のように召されることとなった。
そして夜だけでは飽き足らず、昼時にも時間を割いては彼女のもとを訪れるようになった。
その堂々とした寵愛ぶりは、自然と城内全ての者達に、彼女が国王の最愛の妃であることを認識させていった。
◆
「次の舞踏会では、王族席にアイリスの席を用意させるように」
ある日、ヨーゼフは宰相にそう命じた。
今までにない王の要求に、宰相は僅かに戸惑いを見せた。
それも無理からぬことである。過去に王族席に愛妾が列席したという前例は無い。特に側妃の中でも一番身分の低いアイリスがその座につけば、反感を抱く者も居るだろう。
今まで公の場に出たことの無かったアイリスにとって、それが急激すぎる変化であることは確かだった。
「あまり気持ちのいい場ではないだろうが、私はあれの存在を貴族達に示しておきたいのだ。身分に関係なく、あれが私の特別な妃であること、そしてあれやその家に害なす者は私をも敵に廻すのだということを認識させたい」
国王の言葉に、宰相は軽く目を見開いた。聡明な彼は直ぐにヨーゼフの行動の理由に思い至ったようだった。
「…陛下、もしや」
「察しがいいな」
ヨーゼフは苦笑して言った。
「そうだ。アイリスの体には今、懐妊の兆候が表れている」
予想は出来ていたはずだが改めて告げられると驚くらしく、宰相は声を失った。
ヨーゼフは内心、罰が悪い思いだった。
アイリスに子供を産ませる気は無いと言ったのはついこの間のことだ。薬を使っていれば確実に妊娠はしないのだから、今のこの状況に言い訳のしようもない。
宰相はふと我に返って言った。
「――おめでとうございます!」
彼の口から出たごくシンプルな祝いの言葉に、ヨーゼフは思わずふっと微笑を洩らした。
「……ありがとう」
◆
午後のひととき、ヨーゼフはいつものように花園のアイリスのもとを訪れていた。
草花の世話をする彼女の一挙一動をハラハラしながら見守っていたが、水撒き用の容器に水を満たしてよいしょっと持ち上げた時には流石に黙ってられずに口を出した。
「そんな重いものを持って大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。そんなに重くないもの」
本当だろうかと訝りながら、ヨーゼフはその容器に手をかけた。
「私が代わろう」
「そんなこと!国王陛下が水撒きだなんて、とんでもないことです!」
「…意地が悪いな、その言い方は」
子供のように拗ねたヨーゼフを、アイリスはくすくすと笑った。
「ごめんなさい。でも本当に大丈夫。これは私の楽しみだから、やらせて」
そう言われるとそれ以上は押せず、ヨーゼフは諦めて身を退いた。そして幸せそうに微笑む妃を見つめる。
”赤ちゃんが来てくれたかもしれない”
そう自分に告げた時も、彼女は今と同じような笑顔を浮かべていた。
アイリスが自分の子供を産みたいと言ってくれたあの日、ヨーゼフは彼女に渡していた薬を引き上げた。
それを手放した瞬間、アイリスの顔には呪縛を解かれたような安堵の色が広がった。
”これを飲んだとき、とても悲しかったの。もしかしたら来てくれたかもしれない赤ちゃんを殺してしまったような気になって…。だからまた飲まないといけなくなると思ったら、あなたに触れられるのも辛くて…”
ごめんなさいと言ったアイリス抱き締めて、ヨーゼフもまた謝罪した。
薬を渡したことで彼女を守った気になっていた。彼女の気持ちを置き去りにして、自分がしていたことは単なる自己満足に過ぎなかった。
ヨーゼフが思うよりずっと、アイリスは前向きに自分を受け入れてくれていたというのに。
ヨーゼフに付きまとうしがらみも含めて、全てを――。
「アイリス…」
水遣りをするアイリスに語りかけると、「はい?」と言って振り返る。その明るい笑顔に、自然に微笑みがこぼれた。
「次の舞踏会は、私と一緒に出席して欲しい。窮屈な王族席で申し訳ないが」
王族席と聞いて、アイリスは戸惑いを見せる。
「でも、王妃様が…」
「あぁ、確かに居るが…。気にすることはない。きみは私の隣に居てくれればいいんだ。心配しなくても、彼女は私に興味はないよ。王子たちの王位継承権が揺るがなければ、不満はないんだ」
ヨーゼフはふと手を延ばし、アイリスの髪に触れた。柔らかい金糸を手で梳きながら囁く。
「貴族達への顔見せだよ。私の妃としてね。今後私が城を離れる時は、毎回きみを連れていく」
「いいの?私なんかが…」
「いいんだよ。きみはただの側妃じゃない。私の子を産ませる私の妻だ。それに毎回舞踏会は話し相手もいなくて退屈なんだ。きみが居てくれれば寂しくない」
ヨーゼフはアイリスの髪に、優しく口付けた。
「要は、私がきみを側に置きたいだけだよ」
どんな大義名分を並べても、結局はそれが一番の目的だ。
正妃の座はあげられない。それでもそれに劣らない立場を与えたい。
産まれて来る我が子のためにも――。
「体は、辛くないのかい?」
「うん、全然。不思議なくらい元気よ。本当に赤ちゃんが居るのかしらって心配になるくらい…」
「親孝行な子だ」
ヨーゼフはそう言って、アイリスのお腹に触れた。
まだ特別な膨らみはない。それでもそこに居るはずの我が子に伝えるようにそっと撫でる。
「そろそろ戻らなくては…」
「はい。行ってらっしゃい」
「また、夜に」
「うん…」
二人は短く言葉を交わすと、どちらからともなく唇を重ねあった。
◆
舞踏会当日、ヨーゼフはいつものように王族席中央の玉座に座っていた。
いつもと違うのは、彼の両隣に椅子が用意されていること。
片方は当然カーラの席。そしてもう片方が、アイリスの席である。
やがて現れた第一王子ジークフリードは、カーラによく似た切れ長の黒い目を、一瞬その余分な椅子に向けた。まだ誰も座っていないその椅子の存在を怪訝に思ったのだろう。だが父に問うこともなく、黙って腰を下ろす。
ヨーゼフと王子達の間にも、長いこと会話らしい会話は無い。
それが既に、当たり前になっていた。
やがて着飾ったカーラが騎士を従え大広間に現れた。ジークフリードと同じように一度彼の隣の椅子に目を遣る。けれどもやはり何も言わずに、ヨーゼフの隣にゆっくりと腰掛けた。
「カーラ」
声をかけてきた夫に、カーラは視線を向けずに「はい」と応えた。
「今日は私の妃も出席させてもらう。今後は毎回彼女の席を用意させるつもりだ。承知しておいてくれ」
カーラはすぐには何も応えなかった。前を向いたままのその横顔からは、なんの感情も窺えない。
「…はい」
ヨーゼフはその短い答えを確認すると、また彼女から目を逸らして前を向いた。
人が集まり始めた広間は俄かに活気付いた。楽器演奏の準備が整えられる中、談笑の声で辺りはさざめく。
その中にはクレイド家の当主の姿も見えた。
アイリスと同じ金色の髪は綺麗に整えられ、質の良さそうな礼服がよく似合っている。歳を感じさせない美しく上品な紳士は、一度失墜した信頼を回復させたのだろう。どこかの当主と友好的に挨拶を交わしていた。傍には奥方も寄り添っているが、そこにどうやら小さな天使の姿は無い。
キースは留守番だろうか。
連れてくるよう言っておけば良かったとヨーゼフは後悔した。
ふと広間の扉が開いたのを見て、クレイド氏の表情に驚きの色が現れた。
彼の視線を追って、ヨーゼフも何気なくそちらを見遣る。
直後、そこから現れた姫君の姿に、思わず息を呑んだ。
女官を従えたアイリスが一歩足を踏み入れた瞬間から、広間に溢れていた人の声は静まって行った。
ひとり、またひとりと、伝播するように誰もがアイリスに目を奪われる。――ヨーゼフと、同じように。
”見劣りしないよう、着飾ってやってくれ”
そう命じたのは自分だった。だから着飾って現れることは分かっていた。
それでも、その場に突然大輪の花が咲き誇ったかのようなその姿に、見惚れずにはいられなかった。
丁寧に結い上げられた金色の髪には宝石が散りばめられ、さらに輝きを増している。彼女の瞳と同じ空色のドレスは、胸元に飾られた首飾りとともに、陶磁器のような白い肌を引き立てていた。
その姿はまさに至上の美――まるで触れることも叶わない、一枚の絵のようだった。
長い裾を気にしてか、アイリスはゆっくりと歩みを進めた。その間にも多くの貴族達の注目を浴び、表情には戸惑いが浮かんだ。
ヨーゼフは我に返ると、立ち上がった。
そして初めて、後ろに座っていたはずのジークフリードも同じように立ち上がっていることに気がついた。
ヨーゼフの動きに我に返ったように、彼は目を背けて腰を下ろす。
ヨーゼフは玉座を離れると、アイリスのもとへと歩き出した。広間はいつしか水を打ったように静まり返っていた。
招待客に見守られながらアイリスのもとへ辿り着いたヨーゼフは、彼女に手を差し延べて言った。
「待っていたよ」
緊張の窺える表情で、アイリスがその手を取る。
傍に来ると、ヨーゼフにだけ聞こえる声で心配そうに囁いた。
「ヨーゼフ…私、本当に来てよかったの?皆、おかしく思ってる…」
「違うよ、アイリス」
ヨーゼフは笑いながら囁きを返した。
「皆、見惚れているんだよ。きみがあまりに綺麗だから」
◆
舞踏会の最中、貴族の当主が次々とヨーゼフのもとを訪れた。
列に混じり、やがてアイリスの父親も国王の前に辿り着く。
父の姿を見付けた瞬間、アイリスは顔を輝かせた。
けれども娘に声を掛けることはなく、クレイド氏はヨーゼフの前に跪き、型通りな挨拶を述べる。
「キースは、来てないのか?」
ヨーゼフからの問いかけに、クレイド氏は「失礼があってはいけないので、遠慮させております」と答えた。
「次は連れて来てくれ。アイリスも喜ぶ」
「――はい。有難うございます」
クレイド氏はそう言って一礼すると、その場を離れた。
例え娘であっても王の妃に対し気安い態度はとらない、その心掛けは立派である。だが彼を見送るアイリスの寂しそうな顔は、ヨーゼフの胸を痛い程に締め付けた。
気の利いた言葉など何も掛けられず、ヨーゼフはアイリスの手を握った。
アイリスはそれに応えるようにヨーゼフを振り返り、にっこり笑って握り返してくれる。
その優しい微笑みが、切なかった。
◆
ヨーゼフの牽制が効いたのか、その後、後宮でのアイリスの日々は平和に流れた。
やがて彼女のお腹の膨らみも増し、胸のすぐ下に切り返しのあるゆったりとしたドレスへと変わった。
そして赤ん坊が元気にアイリスのお腹を蹴っているのを感じられるようになる頃、懐妊の事実は公のものとなった。
ある日、ヨーゼフのもとをカーラが訪れた。
彼女が自ら自分に会いに来たことはかつて一度も無いが、特に驚きはなかった。用件はだいたい予想がついたのだ。
「最近側妃として迎えられた姫君のことですが」
向き合って座したカーラは、ヨーゼフの想像通りの話を切り出した。
「ずいぶんお若くて、驚きました。ジークフリードと同じ歳だそうですわね」
「…そうだな」
ヨーゼフは早く話を終えるため、彼女の言いたい事を先回りした。
「身篭ったことを聞いたのだろう?」
ヨーゼフの問いかけに、一拍の間を置いてカーラが答える。
「――えぇ」
やはりなとヨーゼフは内心で独り言ちた。
カーラがその事実を知れば何かしらの動きはあると思っていたが、それがアイリスへ向けてでなかったのは幸いだった。
「心配はいらない。私は産まれる子が王子であったとしても王位継承権を与える気はない。次期国王はジークフリードだ。それは変わらない」
今更言うまでもないことのはずだったが、あえてそう宣言した。
カーラは束の間沈黙したが、その表情は相変わらず硬いままだった。
「…でしたら」
カーラが口を開いた。
「何故、子を産ませるのですか?」
「…私が欲しいからだ」
他に答えようが無い。ヨーゼフの答えに、カーラは初めて笑った。残念ながらそれは嘲笑にしか見えない笑みであったが。
「陛下がそのような私欲を通されるとは思いませんでした」
「そうだな、完全な私欲だ。私も人間だからな。あれを妃に望んだことがそもそも私欲でしかない」
「それは国にとって喜ばしいこととは思えません」
「国は関係ない」
「そうでしょうか」
カーラの語気が強くなる。
感情を抑えるよう努めてはいるが、その苛立ちは明らかだった。
「一国の王が、身分の無い小娘の言いなりになっているようでは、国の未来に不安が湧きます」
「言いなり?」
意味が分からず問いかけると、カーラはこれみよがしに嘆息した。
「…陛下が御自覚されていないとは…。あれはクレイド家の娘だと聞きました。クレイド家など没落貴族であったものを、再び領土まで渡したとか。陛下と同じ居館に部屋を与え、公の場で立場に合わない王族席に座らせ、その上言われるがまま子供まで…!わずか15歳で、ずいぶん強かだと感心させられますわ。クレイド家の思うが侭ではありませんか!」
ヨーゼフは思わずカーラと同じようにため息をついていた。
自分のしていることが周りからどのように見えるのかを、改めて思い知らされる。
「カーラ、それは全て私が勝手にやっていることで、あの子の望みではない」
「そう思っていらっしゃるのでしょうね。あの姫の思い通りに、陛下は動かされてしまっているというのに」
「……思い通りか」
ヨーゼフは苦い笑みを洩らした。
「彼女が何を狙っていると思っている?」
「当然、最終的には王位ですわ」
確信に満ちた答えだった。それ以外には有り得ないというように。
「…だから私はそれを与える気はない」
否定しても仕方が無いと判断し、ヨーゼフは言った。実際子供を望んだのはアイリスだが、その理由をカーラが理解することは生涯無いだろう。
「でしたら、あの姫の扱いを考え直すべきです。立場をわきまえさせ、産まれる子も公の場には出さぬよう…」
「――出すぎたことを言うな!」
声を上げたヨーゼフに、カーラが息を呑んだのが分かった。
ヨーゼフの翡翠色の瞳がカーラを睨み据える。
ヨーゼフが王妃を怒鳴ったことなど過去に一度も無い。そのためだろうか、明らかに怯んでいた。
「隠さねばならぬような子を作ったつもりはない。王位継承権は与えないが、王族として、私の子としての扱いを受けさせる。
国王である私が決めたことだ。口出しは許さない」
カーラの顔は屈辱のあまり紅潮した。
権力を誇示するのは好きではないが、アイリスを護る武器になるのならば躊躇わない。口惜しさを噛み締めながらも、カーラはその権威を前に口を閉ざした。
ヨーゼフはふっと肩を落とすと、彼女の欲しいであろう約束を口にした。
「アイリスの産む子に王位継承権を与えないことを、次の議会で宣言する。大臣達全員が証人となる。――それでいいな?」
周りから見れば自分は確かにクレイド家に踊らされているように映るかもしれない。
そうしておけばカーラの気も済み、皆に無駄な不安を与えることもない。
「…是非、お願い致しますわ」
カーラはそう言って話を終えると、自分の部屋へと戻って行った。
◆
カーラが去った後、ヨーゼフはアイリスの部屋へと向かった。
まだ政務は残っていたが、無性に顔が見たかった。
「ヨーゼフ…!早いのね」
優しく迎えてくれる彼女の笑顔に、癒されるのを感じる。
立ち尽くしたままアイリスを見つめるヨーゼフに、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「…どうしたの?」
”わずか15歳で、ずいぶん強かだと感心させられますわ”
他の者達も彼女をそういう目で見ているのだろうか。王位という欲のために自分に取り入っていると。――自分の妃となったばかりに…。
「…ヨーゼフ?」
堪らず、ヨーゼフはアイリスを抱きしめた。きつい抱擁に驚くアイリスの耳に、ヨーゼフの苦しげな声が聞こえる。
「…すまない」
――それでももう、手離すことなど出来はしない。
「…どうして謝るの…?」
ヨーゼフは答えられなかった。代わりに訴えるように伝える。
「愛してるよ、アイリス…。愛してるんだ…」
アイリスの手がヨーゼフの背中に触れる。
私もよと囁き返す優しい声に胸が震え、ヨーゼフの睫毛は僅かに濡れた。