ローアングルデイズ
一人暮らしをしているアパート1階の自室に帰宅してからずっと、志穂はテーブルの前で悩み続けていた。彼女の視線の先には小さな錠剤が詰まった薬瓶が置かれている。
不意に微かな物音がした。窓に目をやると夜風に揺れたカーテンの下から猫が顔を覗かせている。
志穂は薬瓶から錠剤を一錠、手のひらに乗せると、猫の口許に差し出してみた。
こちらを見上げた猫と目が合う。心なしか疑っているような目付きだ。
それには構わず彼女がさらに手を近付けると、猫はふんふんと匂いを嗅ぎ、そしてパクッと錠剤を飲み込んだ。
志穂の身体に緊張が走る。飲ませてしまったものの、この薬の安全性についてはなんの保証も無いのである。
しかし猫はにゃあ、と一声、鳴いただけで何事も無かったかのように彼女に背を向け、どこかへ行ってしまった。
志穂は暫く猫の消えた暗闇を見つめていたが、やがて意を決し、自身も錠剤を飲み下したのだった。
○
心臓がドクッと身体に悪そうな鼓動を打ち、私は反射的に我が身を抱き締めた。
さっきの猫がなんでもなさそうだったからつい自分も飲んでしまったけど、やっぱりヤバイ薬だったのかも知れない。
(恐い・・・一樹、助けて・・・)
息も苦しくなってきた。まるで肺が小さくなっていくようだ。
(このまま死んじゃったらどうしよう…嫌だ…嫌!)
「にゃあ!」
死の恐怖から悲痛な泣き声を発したつもりの口から出たのは自分でも拍子抜けするほど愛らしい鳴き声だった。
思わず室内を見回すと、部屋の壁に立て掛けられた全身鏡のなかに声の主を見つけることが出来た。
そこには真っ直ぐに私を見つめ返す、猫の姿があった。
○
一樹とは付き合って半年くらいになる。最近は急に仕事が忙しくなったとかで、連絡もろくにくれないけど、頑張っている一樹の邪魔はしたくないから、寂しくても我慢しようと決めた。
それでも時にはどうしても会いたくなって、連絡してしまうことがある。そんなときでも忙しい一樹からは返事すらくることは稀だ。
そして私は決意を守れなかった自分を嫌悪する。その日もそういう夜だった。
○
定時を過ぎても夕飯に誘うメールへの返信は無かった。朝一番に送ったのに、メールチェックする暇も無いほど忙しいのだろうか。
諦めて会社からの帰り道をひとりで歩き始める。
街路に植えられた桜の木には開きかけた蕾もあるけれど、夜風はまだ少し冷たい。すれ違うひとは数え切れないほどなのに、週末ということもあってか、やたらとカップルばかりが目について、嫌でも一樹のことを考えてしまう。
明るい表通りは寂しさが募るばかりで、私は逃げるように静かな脇道に入った。
先程まであれほど通行人に愛想を振り撒いていた路面店も一様に冷たく背を向ける路地裏で、恋情にまみれた喧騒から離れられたとホッとしたのも束の間、仲睦まじく寄り添う二匹の猫が目についた。思わず今日だけでも何度目かわからない溜め息を吐く。
猫すら羨ましく思ってしまう自分は情けなくも思えるけれど、仕事に忙殺されることも、会えない寂しさからくる不安にとらわれることもなく、純粋に互いを思い合っているその姿はやっぱり羨ましかった。
(猫は良いなぁ…私も猫だったら日がな一日ずっと一樹と一緒に居られるのに…)
そんなことを考えたとき、突然、背後から声をかけられた。
「失礼、お嬢さん。なにか思い悩んでいるようですね。」
そうして答える間も振り返る隙も与えること無く、声の主は私の手に薬瓶を握らせた。
「この中の錠剤を一粒、飲んでごらんなさい。きっと貴女のお役にたちましょう。」
そう言い残し、背後の気配は消え去って、振り向いたときにはもう誰も居なかった。
○
茫然自失とはこういう状態のことを指すのだろうか。鏡の前で、私は声を失い、動けずに居た。
信じられないことだが鏡に映っているのは猫に変身した自分なのである。
全身をチェックしてみるが、顔も身体も猫そのもの。ご丁寧に尻尾まで生えている。頬をつねろうとした右手にはぷにぷにと柔らかそうな肉球もついていた。
何度も鏡の前でターンしてみるも目の前の事実は変わらない。
「なんなのこれ・・・どういうこと?あの薬のせい?」
「そうとしか考えられないだろ?」
答えた声に驚いて振り返ると、そこにはさっき錠剤を飲ませたあの猫が立っていた。
「猫が話してる!」
「今はお前も猫だろうが!」
言い返されて自身の置かれた状況を思い出す。
「そうよ・・・どうしてこんなことになるのよ!同じ薬を飲んだのに、あんたはなんともないじゃない!」
「なんて自分勝手な言い草なんだ・・・。ひと・・・いや、猫を妙な薬の実験台にしておいて・・・それに俺はちゃんと忠告してやっただろ?」
あの去り際の一鳴きはそういう意味だったのか、と今さらわかっても後の祭だ。
「猫の言葉なんてわかるわけないでしょ!?」
「まぁそんなことだろうと思って戻ってきてやったんだけどな。とりあえず落ち着けよ。」
「落ち着いてる場合!?どうするのよ、人間に戻れなかったら・・・」
言いかけた私の唇に、猫の唇が軽く触れた。その刹那、いつも見慣れた私の姿が鏡の中に現れた。
「姫の呪いを解くなんて簡単だ。王子様のキスがあれば。」
唖然とする私に、猫がニヤリと笑ってそう言った。
○
いかにもお伽噺に出てくる魔法使いのお供という感じの、黒く艶やかな毛並みをしたその猫はダイと名乗った。
彼は私が飲ませた薬のせいで人間の言葉を理解し、話せるようになってしまったと言う。
そして彼曰く、私が人間の姿に戻るにはダイからのキスが必要らしい。
「そんなバカな…」
「でも現実だ」
朝食を摂りながら昨夜の出来事と目の前に居る話す猫のことを考えるとやはり認めざるを得ない。
「そうなんだよね…」
「それにしても休日の朝に猫とモーニングコーヒーとは寂しい女だな。」
「うるさいな!私の彼氏は忙しいの!!」
「彼女は暇なのに?」
「暇じゃないわよ!」
「じゃあ今日の予定は?」
「・・・・・・・・・」
「やっぱり暇じゃないか。」
「もう、うるさい!」
「まぁまぁ・・・そうだ、今日は俺とデートしようよ。また猫になってさ。完璧なエスコートで休日を満喫させてやる。」
「なんで猫とデートなんか・・・」
「良いだろ?どうせ暇なんだから。」
私に言い返す言葉は無かった。
○
一樹と最後にデートしたのはいつだろう。
少なくとも最近では休日を一日使って遊びに行くなんてことは無くなっていた。
会えたとしても夜に軽くお酒を飲んですぐにサヨナラ、というようなパターンが定着し、会うたびにむしろ寂しさが増すような、満たされない気持ちを感じていた。
だから猫が相手とは言え、久しぶりのデートはわくわくした。
デートといってもダイについて見慣れた近所を散策しているだけなのだが、視界が変わるだけでとても新鮮だった。
青空の下、悠々と屋根の上を散歩する。
人波に揉まれることもなく、直に感じるそよ風が気持ち良い。
「猫とデートってのもなかなか楽しいだろ?」
「うん!こういうの久しぶりだし…すごく楽しいよ。」
「本当に寂しい女だなぁ…世間にはあんなに楽しそうなカップルも居るのにさ。」
ダイが顎で示した先には、隣に並んだ女性に楽しそうな笑顔を向ける一樹の姿があった。
○
「う…ふぐ…うぅぅ…」
「オイ…」
「一樹…一樹ぃ…」
「泣き止め、いい加減。」
「うわあああああああんっ!」
「泣き止めっつってんの!」
「泣くに決まってるでしょ!?一樹・・・一樹が・・・」
「世間ではよくある話じゃんか。彼氏の浮気現場に遭遇するくらい。」
「うわあああああああんっ!!」
「うるせぇ!」
「うっ…」
苛立ちが頂点に達したとはいえ、落ち込んでいる女性に頭突きをかましてくるとはとんでもない猫だ。
思いきりダイを睨み付ける。
「おお・・・ちょっとは落ち着いたか。」
「だ・・・大体・・・あんたとデートしなければ浮気現場なんか見ることもなかったのに!」
「号泣の次は八つ当たりかよ・・・どれだけ自分勝手な女なんだ・・・。」
「うわあああああああんっ!!!」
「ああ、もう・・・わかったよ!」
もう降参、といった調子でそう言ってから、悪戯っ子のような瞳を合わせてダイが囁いた。
「そんなにあの男が欲しいなら、奪い返してやろうぜ。責任とって俺も協力してやるよ。」
○
それから一週間、ダイが仕入れてきた情報によると、一樹と浮気相手は今週末、ドライブデートに出かけるらしい。
「そこに乗り込むぞ。お前の手で奴を取り戻すんだ!」
「えぇ・・・でも・・・」
「なに弱気になってるんだ。」
「一樹の・・・迷惑になりたくないし・・・嫌われたく・・・ないし・・・」
「じゃあ他の女に獲られても良いのか?」
「それは・・・嫌・・・」
「だったらやるしかないだろ。」
なんだかすっかりダイのペースだ。それでも今はこの猫に頼るしかない。一樹を取り戻したい一心が、私にそうさせていた。
「大丈夫。お前には俺と、あの薬があるんだから。上手くいくって。」
「うん・・・にしてもそんな情報どうやって知ったわけ?」
「猫の情報網をなめんなよ!」
かくして私とダイは一樹の浮気現場に乗り込むことになったのだった。
○
休日の街中を、一樹の運転する車が走り抜ける。目的地は海。こんなデートらしいデート、志穂とは久しくしていない。少なくとも最近では休日を一日使って遊びに行くなんてことは無くなっていた。会ったとしても夜に軽く酒を飲んですぐにサヨナラ、というようなパターンが定着していたが、最近ではそれすらも面倒に感じるようになっていた。
助手席に乗せた彼女とはまだ出会って間もないが、共に過ごす時間はいつでも楽しく、彼女とのデートを重ねるに連れて志穂に対する罪悪感も薄れてきてしまっていた。
彼女の話に相槌を打ちながら、一樹はカーナビの指示に従ってハンドルをきる。その瞬間、黒猫が飛び出してきて、一樹は急ブレーキをかけた。
「あっぶねぇ・・・」
「ねぇ、轢いちゃったんじゃないの・・・?」
隣に座る彼女の不安げな眼差しに負けて、一樹は猫の安否を確認するために車から降りた。ボンネットの前に回ってみるが、そこにはなにもない。辺りを見回してみても、猫の姿は見当たらなかった。
「大丈夫。どこかへ逃げたみたいだ。」
「そう、良かった。」
ホッとした表情を見せる彼女の優しさに緩む頬を引き締め、車は再び海を目指して走り出す。安全運転に集中するあまり、一樹は後部座席に二匹の猫が入り込んだことに気付かなかった。
○
空は快晴で、気候も申し分ない。太陽の光を受けてキラキラと輝く海を背にはしゃぐ彼女を見つめながら、一樹は自分がなんとも言えない温かな気持ちで満たされていくのを感じていた。
そのときだった。
「一樹・・・」
自分の名を呼ぶ聞き覚えのある声に振り返ると、そこには驚いたことに実の彼女が立っているではないか。
「志穂・・・!?どうしてここに・・・」
「え・・・誰?知り合い?」
はしゃいでいた彼女の表情が曇る。なんと答えたら良いのだろう。どうにかしてこの場を穏便に切り抜ける上手い返答は無いものか、頭をフル回転させる。
「いや・・・えっと・・・」
「私は・・・一樹の彼女です!」
正解を答えるのがどんな場合でも褒められる行為とは限らない。少なくとも今の答えで一樹にとっては最悪の状況が出来上がってしまった。いわゆる修羅場である。
「彼女・・・?一樹くん、どういうこと?」
「ねぇ一樹・・・仕事が忙しいんじゃなかったの?」
「この娘が彼女って本当なの?そもそも貴女、いきなり現れてなんなのよ!」
「あ・・・貴女こそどういうつもりなんですか!」
「どういうつもりも何も・・・私は一樹くんに誘われて来ただけよ!彼女が居るなんて聞いてないし!」
言い合うふたりの声は一樹を追い詰めるのに充分だった。
「やめてくれ、もう!志穂!お前とは別れる!!」
「え・・・っ!?」
「薄々わかってただろ?俺もうお前のこと好きじゃない。会いたいとも思えない。お前つまんないんだもん。なんていうか・・・自分が無い感じ。いっつも俺の顔色、伺って、俺の言うことなんでも聞いて、俺と会う以外にすること無いみたいな・・・そういうの、重いんだよ。大体こんなとこまで付いてきて気持ち悪いんだよ!」
○
酷い、と思ったけれど、なにも言えなかった。確かに薄々わかっていたのだ。仕事を理由に私を避けていることくらい。一樹の気持ちが離れていっていることくらい。けれど理由を聞くことが出来なかった。言われて初めて気が付いた。いつの間にか私は、一樹に嫌われないよう振舞うことだけに夢中になって、一樹の本当の気持ちを知ろうともしなかった。一樹の迷惑になりたくないと言いながら、本当は自分が傷付くのが恐かっただけなのだ。これじゃあ付き合っている意味なんて無かったんだ。
「とにかく、そういうことだから。」
一樹が背を向ける。もうこれで、本当にサヨナラだ。今までありがとう。そして・・・
「一樹・・・ごめ・・・」
「謝るな!」
私の言葉を遮って、ダイが一樹に飛び付いた。
「うわっ、なんだ、この猫!?」
「ダイ!?」
「謝るのはコイツだろ!お前はずっと騙されてたんだぞ!?」
「ダイ、もう良いの、やめて!」
「良くない!」
「ああ、もう!」
一樹がダイを振り払う。砂浜に叩き落されたダイが、苦しげに呻いた。
「ダイ!」
「お前、飼い猫まで気持ち悪いのな!マジで二度と俺の前に現れんな!」
その言葉を聞いた途端、あの薬を初めて飲んだときのように心臓がドクッと身体に悪そうな鼓動を打ち、気が付くと、私は一樹を海に突き落としていた。
○
さっきからダイはずっと笑い続けている。
「ねぇ・・・笑いすぎだよ。」
「だって、アイツ・・・あはははははっ・・・」
私から海に落とされた挙句、浮気相手だった彼女からも見事なビンタをくらった後、一樹はひとり車に乗り込みすごすごと帰って行った。
「まぁ、確かに笑えるよね。」
「自業自得だろ。嘘吐き野郎には良い薬だ。」
ふん、と鼻を鳴らすダイの顔は夕陽に照らされて、艶やかな黒い毛が一層、美しく見える。私は清々しい気持ちでそれを眺める。こんな気持ちになれたのも、全てこの小さな王子様のおかげだ。
「ありがとう、ダイ。」
ダイを抱き上げ、感謝を込めて唇に軽く口付けた。
その刹那、黒猫の姿は消え、代わりに黒髪の青年が現れた。
「何よ、自分も嘘吐きだったんじゃない。」
「いや・・・このタイミングで人間に戻れるとは・・・」
唖然とするダイに、私はニヤリと笑ってこう言った。
「王子の呪いを解くなんて簡単よ。お姫様のキスがあれば。」
【完】
読んで頂きありがとうございました。