婚約破棄ですか。では、王家への貸付金を精算しましょう
王宮大広間の灯は、いつもより少し眩しかった。
磨き上げられた大理石の床。銀の燭台。壁際に並ぶ楽師たち。天井から落ちる光は、貴族たちの宝石をきらめかせ、絹の衣擦れを甘く響かせている。
けれど、その場に満ちているのは祝宴の華やぎではなかった。
何かが起きる。
誰もがそう知っていて、知らないふりをしている。
笑みを浮かべる者も、扇で口元を隠す者も、隣の者と小声で囁く者も、視線だけは同じ場所に集まっていた。
クラリベル・レインフォードは、その中心に立っていた。
侯爵令嬢として、王太子の婚約者として、今夜も失礼のない装いを整えている。淡い青灰色のドレス。控えめな真珠。髪は高く結い上げすぎず、王太子の隣に立っても出すぎない高さに留めた。
いつも通りだった。
少なくとも、クラリベルはそう思っていた。
だから、アルリクス・オルヴァレン王太子が彼女の前へ進み出た時も、クラリベルは軽く膝を折った。
「クラリベル」
名を呼ばれた。
公の場で、爵位も家名もなく。
その時点で、クラリベルはわずかに眉を動かした。
王太子アルリクスは、金の髪に王家特有の淡い碧眼を持つ青年だった。立っているだけで人目を引く。声は柔らかく、微笑めば相手を安心させる。幼い頃から、彼はそういう人だった。
人に好かれることを、自然に知っている人。
相手を責めるより先に許そうとし、困っている者を見れば手を伸ばし、王太子としての理想を、まだ少年のようなまっすぐさで信じている人。
クラリベルは、そんな彼を嫌いではなかった。
むしろ、だからこそ支えようとしてきた。
ただし今夜の彼は、微笑んでいなかった。
「私は、君との婚約を破棄する」
広間の空気が止まった。
止まったように感じただけで、実際には、誰かが息を呑み、誰かが扇の陰で目を見開き、誰かが満足そうに唇を歪めていた。
クラリベルは、少しだけ瞬きをした。
驚かなかったと言えば嘘になる。
ただ、崩れるほどではなかった。
婚約破棄。
契約関係の終了。
であれば、まず確認すべきは、破棄の理由、破棄日、付随する財産関係、未履行義務、未精算債権債務。
そこまで考えてから、クラリベルは、自分が一番最初にそう考えたことに少しだけ胸の奥を冷たくした。
今、自分は傷ついているはずなのに。
それでも最初に出てくるのは、感情ではなく処理の順番なのか。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
アルリクスの表情が硬くなった。
彼は、その言葉を待っていたようで、同時に待っていなかったようでもあった。
「君は、私を愛していなかった」
その一言は、予想していたどの理由よりも、クラリベルの胸に静かに刺さった。
横領でも、不敬でも、聖女への嫉妬でもない。
愛していなかった。
クラリベルは返事を忘れた。
アルリクスの隣に、一人の女性が立っていた。聖女フィリア・ファルティア。柔らかな栗色の髪を肩の上で揺らし、白い衣をまとった少女のような女性だった。
彼女は悲しげな顔でクラリベルを見ている。
勝ち誇る顔ではない。
責める顔でもない。
ただ、相手を傷つけることを恐れながら、それでも自分は正しいことをしていると信じようとする顔だった。
それがかえって、広間の中でクラリベルの立場を狭くしていた。
「殿下は、ずっとお苦しみでした」
フィリアの声は震えていた。
怯えているのではない。人を傷つけることに耐えられない者の震えだった。
「クラリベル様は、いつも正しくて、間違っていなくて……でも、殿下のお心を見ようとはなさらなかったのではありませんか」
周囲が、静かに頷く気配がした。
正しい。
間違っていない。
だが、冷たい。
聞き慣れた評価だった。
クラリベルは、幼い頃からそう言われてきた。賢い。行儀が良い。整っている。侯爵令嬢として申し分ない。けれど、可愛げがない。
前世でも似たようなものだった。
税理士として働いていた頃、彼女は顧客に何度も言った。
その経費は認められません。
その処理は税務調査で否認されます。
契約書がないなら、支払うべきではありません。
資金繰り表を作ってください。
今、払えるかどうかではなく、半年後に払えるかを見てください。
相手のために言っていた。
潰れないために。追徴されないために。家族を路頭に迷わせないために。
けれど、言われた側は時々、彼女を冷たいと感じた。
この世界に生まれ変わっても、同じだったのかもしれない。
「君は、私を王太子としてしか見ていなかった」
アルリクスの声が少し強くなった。
「私が何をしたいかではなく、何をすべきかばかりを語った。私が善意で何かを約束すれば、予算がないと言った。私が誰かを助けたいと言えば、継続可能性を確認すべきだと言った。私がフィリアを支援したいと言えば、手続きが先だと言った」
「必要なことでした」
「そうだろうな」
アルリクスの顔が歪んだ。
「君はいつも必要なことを言う。だから、私は君の前で、いつも足りない男だった」
クラリベルは息を吸った。
弁明しようと思えばできた。
予算の裏付けがない約束は、優しさではなく、将来の嘘になる。
継続できない支援は、一度受けた者をさらに傷つける。
王太子の善意は、個人の善意では済まない。
彼が何気なく口にした言葉で、人が動き、金が動き、領地が動く。
だから止めた。
だから整えた。
だから、帳簿の中で辻褄を合わせ続けた。
あなたが嘘つきにならないように。
あなたが笑われないように。
あなたが、いつか王として立てるように。
そう言えばよかったのかもしれない。
けれど、それを口にすることはできなかった。
言えば、きっとまた正しくなる。
そして正しい言葉は、今のアルリクスをさらに傷つける。
クラリベルは、静かに膝を折った。
「婚約破棄、承りました」
広間がざわめいた。
アルリクスはわずかに目を見開いた。もっと取り乱すと思っていたのかもしれない。泣くか、怒るか、彼を責めるか、フィリアを睨むか。
だがクラリベルは、そのどれも選ばなかった。
選べなかった。
泣いたところで、婚約破棄は覆らない。
怒ったところで、彼が望んだ心は戻らない。
責めたところで、自分が愛していた時間まで醜くなる。
「クラリベル様……」
フィリアが不安そうに声を漏らす。
クラリベルは彼女を見た。責める気持ちは不思議と薄かった。フィリアはたぶん、アルリクスを楽にしたかっただけなのだろう。
帳簿ではなく、正しさではなく、責任ではなく。
ただ、彼に「大丈夫」と言ってあげたかっただけなのだろう。
それが正しいかどうかは別として。
「ただし、婚約関係の終了に伴い、両家間の未精算事項を確定する必要がございます」
アルリクスの眉が寄った。
「未精算事項?」
「はい」
クラリベルは侍女ニナに視線を向けた。
壁際に控えていたニナが、青ざめた顔で一冊の革表紙の帳簿を抱えて進み出る。大広間に帳簿を持ち込むなど、華やかな夜会にはまるで相応しくない。
だが、婚約破棄には相応しい。
少なくとも、クラリベルにはそう思えた。
「王家への貸付金、および立替金の明細でございます」
沈黙が落ちた。
今度こそ、音楽も完全に止まった。
アルリクスの顔に、怒りに似た色が浮かぶ。
「この場で金の話をするのか」
「婚約とは、感情だけでなく、家と家の契約でもございましたので」
「君は……」
アルリクスは言葉を詰まらせた。
その顔にあったのは、怒りだけではなかった。失望。屈辱。痛み。
クラリベルは、それを見て胸が苦しくなった。
また間違えたのだろうか。
また、自分は必要なことを必要な時に言って、人の心を踏んだのだろうか。
それでも、帳簿は閉じられなかった。
閉じてしまえば、今まで自分がしてきたことが、すべてなかったことになる。
「明日、王宮財務室にて、正式に精算協議をお願いいたします」
クラリベルは深く礼をした。
「本日は、これにて失礼いたします」
背を向けた瞬間、広間のざわめきが一斉に戻った。
冷たい女。
最後まで金の話。
殿下がお可哀想。
聖女様の方がよほどお優しい。
そんな声が、扇と吐息の隙間から漏れていた。
クラリベルは歩いた。
足元は揺れなかった。
揺れないように歩く訓練なら、幼い頃から何度も受けてきた。
広間を出て、扉が閉まる。
喧騒が一枚向こうに遠ざかった。
その瞬間、ニナが小さく声をかけた。
「お嬢様」
「何かしら」
「泣いても、よろしいのですよ」
クラリベルは足を止めなかった。
「今は帳簿が先です」
ニナはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、帳簿を抱える手に、そっと力を込めた。
王宮財務室は、夜会の翌朝とは思えないほど重苦しかった。
長机の上には、王家側の記録、レインフォード侯爵家側の記録、契約書写し、領収書、支払証明、寄付証書、未返済一覧が並んでいる。
窓から差し込む朝の光は明るいのに、部屋の中だけが冬の底のようだった。
出席者は、王ガルディス・オルヴァレン、宰相ベルトラム・ケイル、財務官オズワル・メルヴィン、王太子アルリクス、そしてクラリベル。
もう一人、部屋の奥に王弟ラザール・オルヴァレンがいた。
彼は王の弟であり、王太子の叔父にあたる。王位から距離を置き、表舞台に立つことは少ないが、王家財政や地方行政に通じた人物として、官僚たちには知られていた。
年はアルリクスより一回り以上上。黒に近い灰色の髪と、静かな琥珀色の目を持つ男だった。
クラリベルは彼と深く話したことはほとんどない。
ただ、その目が帳簿を見る時だけ、少し温度を帯びることは知っていた。
「では、始めましょう」
クラリベルは帳簿を開いた。
声は思ったよりも落ち着いていた。
「まず、三年前の王太子殿下主催、春の慈善舞踏会における赤字補填分です。当初予算二千六百金貨に対し、実支出は三千四百八十金貨。差額八百八十金貨のうち、王家予備費から支出できなかった六百金貨を、レインフォード侯爵家が一時立替しております」
アルリクスが顔を上げた。
「待て。あれは……」
彼は何かを言いかけて止まった。
あの舞踏会は、彼が初めて自分の名で開いた慈善行事だった。孤児院への支援を目的とし、多くの貴族が参加した。
華やかで、評判も良かった。
王都の新聞にも、若き王太子の慈愛として大きく取り上げられた。
アルリクスは、あの日よく笑っていた。
孤児院の子どもたちに花を渡され、寄付額を予定より増やすとその場で告げ、周囲の貴族たちは拍手をした。
クラリベルも隣で拍手をした。
けれど、その夜、彼女は別室で収支表を見つめていた。
装花を増やした。楽師を増やした。孤児院への寄付額を当初予定より上げた。招待客への返礼品も、王太子名義に相応しいものへ変更した。
アルリクスは善意でそうした。
クラリベルは、あとで不足分を埋めた。
彼が善意を口にした日に、後ろで誰が数字を合わせたかなど、誰も知らなかった。
「次に、辺境ローレン橋修繕費。殿下が視察時に、冬までの修繕を約束なさった案件です」
アルリクスの喉が動いた。
「橋は……直ったのか」
「はい。翌月、侯爵家経由で業者を手配いたしました。王家公共事業費として申請するには年度をまたぐ必要がありましたので、先行支出しております」
財務官オズワルが資料をめくり、顔をしかめた。
「記録があります。たしかに、王家予算での正式処理は翌年度になっておりますが、先行支出分の返済処理が未了です」
アルリクスは黙った。
あの視察の日、彼は泥のついた靴のまま橋の前に立っていた。
老いた村長が、冬になると橋が凍り、子どもが落ちたことがあると話した。
アルリクスは即座に言った。
冬までに直そう。
その場にいた者たちは涙ぐんだ。
クラリベルは横で静かに頭を下げた。
帰りの馬車の中で、彼女は言った。
「殿下、年度内の公共事業費はすでに枠が埋まっております。王家の名で約束なさるのであれば、財源を確認してからにすべきです」
アルリクスはその時、窓の外を見たまま言った。
「君は、あの村の者たちの顔を見ていなかったのか」
見ていた。
だから、直した。
けれど、それをクラリベルは言わなかった。
「続けます」
彼女は頁をめくった。
「聖女庁への冬季支援金。殿下が増額をお約束なさった分のうち、王家支出として処理できなかった一千二百金貨を立替」
フィリアの名は出さなかった。
けれど、部屋の誰もが意味を察した。
「王太子殿下の留学中、王家からの送金が遅延した際の滞在費不足分。三百六十金貨」
アルリクスの目が揺れる。
「学園奨学金制度の初期積立。二千金貨。これは殿下名義の事業として発表されておりますが、初期資金の半分はレインフォード侯爵家より支出」
宰相ベルトラムが、ゆっくりと資料を確認する。
「王太子側近ロイエル・ダンフォース卿が手配を誤った隣国使節への贈答品差し替え費。八百金貨」
アルリクスが、わずかに顔を伏せた。
「王太子誕生日式典における不足分。招待貴族への返礼品調整、警備増員、馬車導線変更にかかる追加費用。合わせて九百四十金貨」
どれも、ただの借金ではなかった。
ひとつひとつに、アルリクスが恥をかかずに済んだ瞬間があった。
ひとつひとつに、彼が善意を嘘にせずに済んだ理由があった。
だがクラリベルは、それを説明しなかった。
数字だけを読む。
日付、金額、使途、領収書、契約書の写し。
それ以上は語らない。
語れば、愛だったと言ってしまいそうだったから。
「合計は」
王ガルディスの声が低く響いた。
クラリベルは、最後の頁を見た。
「元本のみで、七万二千四百金貨。利息は計上しておりません」
宰相が目を閉じた。
財務官は額を押さえた。
アルリクスは、何も言わなかった。
沈黙の中で、頁をめくる音だけがやけに大きく響く。
その時、奥にいたラザールが口を開いた。
「これは、失策の一覧ではないな」
クラリベルは顔を上げた。
ラザールは帳簿を見ていた。
金額ではなく、使途を。
日付ではなく、その前後に何があったかを。
「アルリクスが、恥をかかずに済んだ日の記録だ」
胸の奥で、何かが音もなく崩れた。
クラリベルは表情を変えなかった。
変えないようにした。
だが指先だけが、帳簿の端を強く押さえていた。
アルリクスが、ゆっくりと顔を上げた。
「叔父上……」
「春の慈善舞踏会。あの時、お前は初めて王太子として民の前に立った。評判は良かった。誰も、お前が予算を読めなかったとは言わなかった」
ラザールの声は責めていなかった。
だからこそ重かった。
「ローレン橋。お前は子どもの前で約束した。橋は直った。誰も、お前を嘘つきとは呼ばなかった」
アルリクスの顔から色が引いていく。
「聖女庁への支援。送金は滞らなかった。学園奨学金。制度は始まった。使節への贈答。隣国は不快感を示さなかった」
ラザールは帳簿を閉じなかった。
「誰かが、すべて間に合わせたからだ」
クラリベルは、呼吸の仕方を忘れそうになった。
言わないでほしいと思った。
同時に、言ってほしかった。
自分が口にできなかったものを、誰かが読んでしまった。
帳簿の行間に押し込めたものを、見つけてしまった。
アルリクスが彼女を見た。
昨日とは違う目だった。
怒りではない。屈辱でもない。
初めて何かを見てしまった目だった。
「クラリベル」
「精算方法についてですが」
クラリベルは遮った。
これ以上聞けば、保てなくなる。
「一括返済は王家財政に過度の負担をかけます。したがって、五年分割を提案いたします。ただし、今後同様の未処理が発生しないよう、王太子殿下名義の支出については事前承認制を導入し、慈善支出と公費支出を分離する必要がございます」
また、正しいことを言っている。
そう自覚した。
この場でも、自分は泣く代わりに制度を出している。
愛していたと言えないまま、返済計画を出している。
王ガルディスが深く息を吐いた。
「レインフォード侯爵令嬢」
「はい」
「王家として、正式に謝罪する」
王が頭を下げるほどではなかった。
それでも、声には明確な謝意があった。
「そなたに、あまりにも甘えていた」
クラリベルは膝の上で手を重ねた。
「私は、婚約者として必要な処理を行っただけです」
ラザールが、わずかに目を細めた。
その視線に気づかないふりをした。
協議は昼過ぎまで続いた。
未返済金は五年分割。
王太子名義の寄付、支援、視察時の約束は、今後すべて文書化。
王家財務室と侯爵家との定期照合は、婚約解消に伴い終了。
必要なことが、淡々と決まっていく。
紙の上では、すべて整理されていく。
けれど、人の心だけは、仕訳のように左右へ分けられない。
最後に、アルリクスが立ち上がった。
「クラリベル」
部屋の空気が少し揺れた。
クラリベルは帳簿を閉じ、顔を上げた。
「何でしょう、アルリクス殿下」
殿下。
その呼び方に、彼が傷ついたのが分かった。
けれど、もう名前だけで呼ぶ関係ではない。
「私は……知らなかった」
アルリクスの声は掠れていた。
「君が、そこまでしてくれていたことを」
「知っていただく必要はございませんでした」
「違う」
彼が首を振る。
「私は、知ろうとしなかった」
クラリベルは黙っていた。
肯定も否定もできなかった。
アルリクスは、初めて少年のように見えた。王太子の衣をまとい、華やかな名を背負い、それでも中身はまだ、自分が何に支えられて立っていたか知らない青年だった。
「私は、君を冷たいと思っていた。私を縛る人だと思っていた。だが、違ったのだな」
クラリベルは微笑もうとした。
うまくいかなかった。
「殿下にとって、そう感じられたのであれば、それも事実です」
「クラリベル」
「私は、あなたをお支えしておりました」
声が、少しだけ震えた。
ようやく、それだけ言えた。
「けれど、あなたは愛されているとは、感じていただけなかったのでしょう」
アルリクスは何も言えなかった。
その沈黙が答えだった。
クラリベルは静かに続けた。
「ならば、私たちは、互いに違うものを求めていたのだと思います」
アルリクスの顔が歪んだ。
後悔しているのだろう。
だが、後悔は過去を変えない。
「精算が済みましたら、私は失礼いたします」
クラリベルは立ち上がった。
礼をして、退室する。
扉を出た瞬間、廊下の空気が冷たく感じた。
王宮の廊下は長い。窓の外には冬の近い庭園が見える。噴水は止められ、薔薇の枝は短く整えられていた。
そこで初めて、クラリベルは足を止めた。
誰もいないと思った。
だが、背後から声がした。
「泣くなら、その角を曲がった先の小部屋がいい」
振り向くと、ラザールがいた。
いつの間に追ってきたのか、足音もしなかった。
「泣きません」
「そうか」
彼はあっさり頷いた。
「では、帳簿を広げるなら、その小部屋がいい。机が広い」
クラリベルは、思わず彼を見た。
慰めない。
哀れまない。
ただ、逃げ場の種類を二つ提示した。
泣く場所と、帳簿を見る場所。
その妙な気遣いに、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「王弟殿下は、変わった方ですね」
「君ほどではない」
「失礼ではありませんか」
「失礼だろうな。だが、君も相当失礼だ。婚約破棄の場で貸付金の精算を申し出る令嬢は、そう多くない」
クラリベルは返す言葉を探した。
見つからなかった。
ラザールは、彼女の隣に並ぶでもなく、少し距離を置いて立った。
「君は金を返してほしいのか」
「当然です。侯爵家の資産ですので」
「それだけか」
クラリベルは黙った。
ラザールは急かさなかった。
窓の外で、風が枝を揺らした。
「分かりません」
ようやく、クラリベルは答えた。
「返してほしいのは事実です。けれど、それだけなら、もっと早く請求できました。利息も付けられました。担保も取れました。書面も、もっと強くできました」
「しなかった」
「はい」
「なぜ」
クラリベルは目を伏せた。
「殿下の負担になると思いました」
「アルリクスの?」
「はい」
「だが、君の負担にはなった」
それは、誰にも言われたことのない言葉だった。
クラリベルは唇を結んだ。
目の奥が熱くなる。
泣きたくない。
泣く理由が分からない。
婚約は終わった。
精算は始まった。
必要な処理は進んでいる。
なのに、どうしてこんなに苦しいのか。
「君は、ずいぶん不器用に人を愛する」
その言葉で、限界が来た。
涙が一粒だけ落ちた。
クラリベルは慌てて顔を背けた。
「これは、会計処理です」
「そうだな」
ラザールは笑わなかった。
「だが、会計処理にしては、相手の痛みを避けすぎている」
クラリベルは何も言えなかった。
「君は金額を残した。だが、利息を付けなかった。返済期限を厳しくしなかった。公に請求しなかった。相手が破綻しない道まで用意した」
「それが、合理的でした」
「合理的に愛したのだろう」
クラリベルは、とうとう手で目元を押さえた。
声は出さなかった。
ただ、涙だけが少しこぼれた。
ラザールは何も言わず、窓の外を見ていた。
その沈黙がありがたかった。
泣き止むまで待たれたのではない。
泣いていることを、見ないでいてくれた。
「王弟殿下」
「ラザールでいい。少なくとも、今は王弟として話していない」
「では、ラザール様」
「様も要らないが、今はそれで妥協しよう」
クラリベルは、少しだけ息を吐いた。
「私は、間違っていたのでしょうか」
ラザールはすぐには答えなかった。
その沈黙が、またありがたかった。
「間違ってはいない」
やがて彼は言った。
「だが、伝わらなかった」
胸が痛んだ。
否定されるより、ずっと痛かった。
「正しいことと、伝わることは違う。君はアルリクスを支えた。だが、あの子には支えられている感覚より、測られている感覚の方が強かったのだろう」
「はい」
「それは君だけの責任ではない。あの子の未熟さでもある」
ラザールは、そこで初めてクラリベルを見た。
「だが、君が苦しかったことまで、なかったことにはならない」
クラリベルは頷けなかった。
頷けば、もっと泣いてしまいそうだった。
だから代わりに、帳簿を抱え直した。
「精算案の修正をしなければなりません」
「そうか」
「小部屋を、お借りできますか」
「ああ。机が広い方だな」
ラザールは歩き出した。
クラリベルも、その後に続いた。
失恋の直後に帳簿を開くなど、我ながらどうかしている。
けれど不思議と、ひとりで泣くより、その方が息がしやすかった。
それから数週間、クラリベルは王宮財務室に通った。
婚約者としてではない。
王家への債権者であり、精算協議の当事者として。
アルリクスとは、必要最低限しか話さなかった。
彼は日に日に静かになっていった。フィリアとも距離を置き始めたと聞いた。彼女を責めたわけではない。ただ、自分が彼女に求めていたものが、王太子として必要なものとは違ったのだと気づき始めたらしい。
フィリアもまた、聖女庁で実務を学び始めた。
優しさだけでは支援は続かない。
祈りだけでは冬の薪は買えない。
それを知った彼女は、何度か泣いたという。
クラリベルは、その報告を聞いても何も言わなかった。
ただ、聖女庁の予算書に目を通し、支出項目の分け方だけを簡単に書き添えた。
名前は書かなかった。
ラザールは、それを見て言った。
「君は本当に懲りないな」
「必要なことです」
「そうか」
彼は笑う。
「では、必要経費として茶を出そう」
ラザールの部屋には、いつも帳簿を広げられる机があった。
王弟の執務室というより、古い商会の応接室に近い。飾り気は少なく、資料棚が多く、暖炉の上には小さな時計が置かれている。
クラリベルはそこで何度も数字を確認した。
ラザールは、彼女の作業を邪魔しなかった。
ただ、時々、的確に訊く。
「この返済額では王家の冬季備蓄に響くのではないか」
「はい。ですので、二年目だけ額を下げています」
「こちらの奨学金積立は残すのか」
「残します。廃止すれば、殿下の過去の約束が嘘になります」
「君はやはり甘い」
「合理的判断です」
「そういうことにしておこう」
そのやり取りが、少しずつ日常になった。
ある日、ラザールはクラリベルの帳簿を見ながら、ふと尋ねた。
「君は今後、どうするつもりだ」
「侯爵家に戻ります。父と相談し、領地会計の見直しを進める予定です」
「王宮には残らないのか」
「婚約者ではありませんので」
「婚約者でなければ、王宮にいてはいけないわけでもない」
クラリベルは顔を上げた。
ラザールは、いつも通り静かな顔をしていた。
「私の補佐として、王家財政の整理に関わる気はないか」
「それは、仕事の依頼でしょうか」
「半分は」
「残り半分は?」
ラザールは少し黙った。
珍しい沈黙だった。
「君の帳簿を、これからも読ませてほしい」
クラリベルは瞬きをした。
「求婚の言葉としては、かなり問題があります」
「やはりそうか」
「はい。問題があります」
「では、言い直そう」
ラザールは、真っ直ぐに彼女を見た。
「君が数字の奥に隠してしまうものを、私に読ませてほしい」
今度は、クラリベルが黙る番だった。
胸の奥が、痛いのに温かかった。
アルリクスに愛してほしかった。
それは嘘ではない。
彼を支えたかった。
彼が王になる未来を、隣で整えたかった。
その願いは確かにあった。
けれど、彼には届かなかった。
そして今、目の前の人は、クラリベルが隠していたものを、隠したまま読もうとしてくれている。
帳簿を捨てろとは言わない。
もっと可愛くなれとも言わない。
数字ではなく愛を語れとも言わない。
ただ、数字の奥にあるものを読ませてほしいと言う。
「私は、可愛げがありません」
「知っている」
「すぐに支出計画を立てます」
「助かる」
「贈り物より、維持費を気にします」
「私も維持費は気になる」
「甘い言葉は、あまり得意ではありません」
「その分、帳簿に書くのだろう」
クラリベルは、堪えきれずに小さく笑った。
ラザールの目が少し柔らかくなる。
「その笑顔だけでも、十分な利益だ」
「利益で換算しないでください」
「君ならするかと思った」
「しません」
「では、私だけがする」
クラリベルは帳簿を閉じた。
表紙に手を置いたまま、ゆっくりと息を吸う。
「お返事は、すぐにはできません」
「ああ」
「侯爵家との相談も必要です」
「当然だ」
「王家への精算も、まだ終わっていません」
「終わらせよう」
その言い方が自然で、クラリベルはまた胸が痛くなった。
終わらせよう。
ひとりで背負えではなく。
君がやるべきだでもなく。
一緒に終わらせよう。
「ラザール様」
「何だ」
「私は、たぶん、とても面倒な女です」
「知っている」
「そこは否定するところでは」
「嘘はつけない」
クラリベルは呆れて、けれど少しだけ笑った。
「ですが、考えます」
「ああ」
「前向きに」
ラザールは、そこで初めてはっきり微笑んだ。
「それは、かなり良い数字だ」
季節がひとつ進む頃、王家への精算計画は正式にまとまった。
王はレインフォード侯爵家に謝意を示し、アルリクスは王太子教育を一部やり直すことになった。フィリアは聖女として、祈りだけでなく支援の実務を学び始めた。
誰も完全には救われていない。
けれど、誰も何も知らないままではなくなった。
クラリベルは、王宮の小礼拝堂でアルリクスと最後に向き合った。
「クラリベル」
「はい、殿下」
「君を愛していなかったわけではない」
その言葉は、少し遅かった。
けれど、嘘ではないと分かった。
「はい」
「ただ、私は君の愛し方を受け取れなかった」
クラリベルは静かに頷いた。
「私も、あなたに伝わる形で愛せませんでした」
アルリクスは目を伏せた。
「叔父上なら、受け取れるのだろうな」
クラリベルは答えなかった。
だが、沈黙が答えだった。
「幸せに」
アルリクスは、ようやく王太子らしく微笑んだ。
痛みを含んだ、けれど相手を手放すための微笑みだった。
クラリベルは深く礼をした。
「殿下も、どうか良き王に」
その言葉に、今度のアルリクスは傷つかなかった。
ただ、静かに頷いた。
半年後。
クラリベル・レインフォードとラザール・オルヴァレンの婚約が発表された。
王弟と侯爵令嬢の婚約は、王宮に大きな波紋を呼んだ。だが、王家への精算を終え、財務再編を支えたクラリベルの評価は以前とは違っていた。
冷たい令嬢。
そう呼ぶ者はまだいた。
ただし、その後にこう続くことが増えた。
冷たいのではなく、正確なのだと。
婚約発表の翌日、クラリベルはラザールの執務室で新しい帳簿を広げていた。
「これは何だ」
ラザールが背後から覗き込む。
「新居に関する支出予定です」
「もう作ったのか」
「当然です」
帳簿には、家具、使用人の給与、厨房設備、冬の備蓄、馬車の維持費、領地視察費、警備費、茶葉代、暖炉の修繕費が並んでいた。
ラザールは、ある項目で目を止めた。
「暖炉の修繕費が多いな」
「ラザール様は寒がりですので」
「私は寒がりだと言った覚えはない」
「冬場、執務室の暖炉から離れないことが多いです」
「観察されていたのか」
「必要な確認です」
ラザールは黙って帳簿を見ていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「なるほど」
「何でしょう」
「私は今、かなり愛されているらしい」
クラリベルは耳まで熱くなった。
「ただの必要経費です」
「そうか」
ラザールは楽しげに頷いた。
「では、私はその必要経費に、一生感謝することにしよう」
クラリベルは帳簿を閉じた。
けれど、もう隠しきれなかった。
閉じた帳簿の上に、ラザールの手がそっと重なる。
数字の奥に隠したものを、この人はきっとまた読んでしまう。
それが少し恥ずかしくて、少し悔しくて、けれど今は、どうしようもなく嬉しかった。
今回は、久しぶりに普通……かどうかは少し怪しいですが、恋愛寄りのお話になりました。
婚約破棄、王家への貸付金、前世税理士、帳簿。
並べるとだいぶ硬い要素ばかりなのですが、今回は「制度で殴る」よりも、「帳簿に残っていた不器用な愛情」を中心に書いています。
クラリベルは、甘い言葉で愛を伝えるのが苦手な人です。
その代わり、相手が困らないように整える。恥をかかないように穴を埋める。約束が嘘にならないように裏で支える。
ただ、それは受け取る側に伝わらなければ、時に「管理されている」「冷たい」と見えてしまう。
アルリクスも、完全な悪人ではありません。
ただ、支えられていることに気づくには未熟で、気づいた時には遅かった人です。
一方でラザールは、クラリベルの帳簿を「金の記録」ではなく「感情の記録」として読める人でした。
愛し方を変えろと言うのではなく、そのまま読んでくれる相手に出会えたことが、今回の救いかなと思います。
帳簿がラブレターになる恋愛物も、たまにはいいかなと。




