第7鉢 「雨の女王」
「ええっと、ここのバルブを開けてっと」
秋穂は夏葵の作った管理マニュアルを見ながら、散水栓を開いた。スプリンクラーから水が勢いよく噴き上がり、それを浴びた植物たちが、朝日を反射してきらきらと輝く。
人の生きた痕跡が少しづつ朽ちていく世界だからだろうか。秋穂には生命の息吹を感じさせるものが、いとおしく感じた。
夏葵が熱で倒れてから、はや数日。体調は快方に向かっているものの、まだ植物の世話をするほどの元気はなく、今も秋穂が代わりを務めている。
しかし、世話を一人でするのは想像以上に大変だった。水やりだけでも、散水栓を開けて一斉に行うものから、乾き具合を見て、一鉢づつ与えるものまで様々である。
ここ数日の管理を任されて、秋穂ははっきりと理解した。夏葵の異常性を。
これほどの数の植物すべての状態を把握し、それぞれに最適な世話を続けてきたのだ。秋穂には到底まねできない。任されたのは植物を維持できる最低限の管理だけだが、それでも手いっぱいだった。
もっとも、終末世界となった今でも、この植物園では電気や水に不自由はない。建物の屋根に設置された太陽光パネルが電気をまかない、水も井戸水と雑排水を浄化した中水が利用できる。
「あれ?」
突然、シューと空気の抜けるような音がし、スプリンクラーの水の勢いが急激に落ち始める。やがて流れが途絶え、完全に水が止まってしまった。
あたりに、しんとした静けさが落ちる。
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「夏葵さん夏葵さん!」
秋穂は寝室のドアを勢いよく開け、部屋へ飛び込んだ。
「あ、秋穂ちゃん、今朝もごめんね」
夏葵は目をこすりながら、ゆっくりと身を起こす。まだ顔色は優れない。
「全然大丈夫ですよ。それより、水が出なくなっちゃったんです! 急に止まって、故障ですかね?」
「水が出ないって……」
夏葵は考え込むように視線を落とした。
「ここ一か月くらい、まともに雨が降ってなかったからそのせいかな」
「確かに言われてみれば、ずっと晴れ続きですね」
「うーん……いろいろまずいけど、こればっかりはどうしようもないなあ」
夏葵は小さくため息をつく。
「ですね……」
「まあ、2、3日くらいは大丈夫だろうし、わたしは明日くらいには動けそうだから。本当にありがとうね」
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秋穂は温室を見回りながら歩いていた。ここ数日、自分が世話をしているあいだに、植物に何か異常が発生していないか確認をするためだ。どれも夏葵さんが愛情をこめて育ててきた植物なんだから、何かあったら大変だ。
ふと、乾燥地の植物が植えてあるゾーンで、一株の植物が目に入った。これは……名前はわからないが、小学生のころ校門近くに植えてあった植物に似ている。トゲトゲした幹にギザギザの葉っぱ。確かソテツ──だっただろうか。
その株の上に、隣の木から折れて落ちた、大きな枯れ枝が覆い被さっている。葉も押しつぶされ、ところどころ傷んでしまっている。
このままではよくない。
秋穂は枯れ枝を取り除こうと、植え込みの中に分け入った。
「痛っ!」
ふと、突き出た木の枝に腕を引っかけ、鋭い痛みが走る。それでも構わず手を伸ばし、どうにか枯れ枝を取り除いた。
血のにじむ腕をおさえながら、その株の横に立てられた名札を確認する。
「エンセファラルトス・トランスベノーサス……?」
説明には「オニソテツ属」とある。どうやらソテツの仲間という認識は間違っていなかったようだ。
枯れ枝の重みでしなっていた葉が次第に立ち上がり、心なしかそのソテツが喜んでいるように秋穂には見えた。
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昼どき。二人で朝食をとっていた。
夏葵の体調はだいぶ回復し、ようやく普通の食事が口にできるようになってきた。近くのスーパーから調達してきた缶詰と白米だけの簡素な食事だが、温かい時間だった。
「あれ、秋穂ちゃん、その腕の絆創膏どうしたの?」
「さっき、温室にあるエンセ……なんとかっていうソテツの上に落ちた大きな枝を取ろうとしたら、木の枝で切っちゃって……」
「ごめんね、なんか無理させちゃって」
「このくらい大丈夫ですよ」
秋穂は安心させるように、少し大げさに笑ってみせた。
「もしかしてそのソテツって、エンセファラルトス・トランスベノーサス?」
「たしかそんな名前だった気がします」
夏葵がにこにこと嬉しそうに微笑む。
「それなら秋穂ちゃん、すごく良いことをしたかもしれないよ」
そのとき、二人の隣の窓へ水滴がぽつりと落ちた。続けて、ぽたぽたと音を立てて水滴が増えていく。
「雨ですよ、夏葵さん!」
秋穂は喜びながら窓の外を見た。
「秋穂ちゃんがトランスベノーサスを助けてくれたおかげかな?」
「……どうしてですか?」
秋穂は不思議そうに首をかしげる。
「トランスベノーサスは、別名『モジャジのソテツ』って呼ばれてるの」
「モジャジ……って誰ですか?」
「昔、南アフリカにいた、部族の女王だよ。人々から『雨の女王』って呼ばれていてね。名前の通り、雨を操る力を持っていたという伝説があるんだ」
「そんなおとぎ話みたいな……」
「女王はね、その神秘の力を使って敵には干ばつを、味方には恵みの雨を与えて、部族に平和をもたらしたといわれていて……彼女が特に大切にしていた植物が、トランスベノーサスなんだ」
「鉢植えにして可愛がってたんですか?」
「そんなもんじゃないよ。何十万株ある森を、まるごと神聖なものとして守ってたんだ」
「そんなに!?」
「その森は九百年たった今でも、女王の教えを重んじて大切にされてる。そのおかげでトランスベノーサスは、環境破壊や盗掘といった絶滅の危機を避けることができたんだ」
「じゃあ、この植物園にいる子も、女王が守っていた株の子孫なんですか?」
「うーん、それはわからない。でも──女王の不思議な力の秘密は、もしかしたらこのトランスベノーサスにあったのかもしれないね」
「まさか」
秋穂は思わず笑い出す。
「ふふっ」
つられるように夏葵も笑い、二人の笑い声が雨音と共に部屋にやわらかく響いた。




