第6鉢 「みんな、いなくなっちゃえばいいのに」
─文明崩壊前─
「萩の花を見に行ったのに、まったく咲いてなかったじゃないか! どうしてくれるんだ!」
年老いた男の声が、電話口から怒鳴りつけるように響く。
「それに入り口のスタッフも冷たい人間ばかりで、わしの話をろくに聞こうともしなかった!」
「は、はい……次からは気をつけるよう、伝えておきます」
相手をなだめるように、できるだけ穏やかな声で答えた。
「そう前にも言ったのに改善せんかった。お宅の施設を管理してる市役所に言いつけてやるから、あんたの名前を言いな」
「え……わ、私ですか?」
「そうだ。あんたの名前だ」
「と、豊浦……夏葵です」
「覚えたぞ。必ず言いつけてやるからな!!」
ガチャリ、と荒々しい音を立てて電話が先方から切られる。
理不尽な怒号を浴びせられ、夏葵の心はひどく消耗していた。
「クレーム対応お疲れ様~。次もこういうの来たらよろしくねw」
軽い調子で声をかけてきたのは、先輩の職員だった。その蔑んだような薄い笑みから、労いの気持ちなど欠片もないことは、嫌というほど伝わってきた。
いつからだろう、子どもの頃から夢だったはずの植物園の仕事が、こんなにも逃げ出したいものに変わってしまったのは──。
# # #
休憩時間。
夏葵はクレーム電話のせいで落ち込んだ気持ちを切り替えようと、バックヤードの温室を歩いていた。だが、足を進めるほどに、胸の奥に沈んでいた感情はかえって重くなっていく。
「……ひどい」
温室の至る所にある、ろくに管理もされず放置されて痛んだ植物達。みんな、あの無能で愚鈍な先輩職員たちのせいだ。
正しい管理方法も、品種の価値も理解されないまま、枯らされていく株。自分が手をかけさえすれば、どの植物も、もっと美しく輝けるはずなのに。
けれど、先輩たちから下に見られ、雑用ばかりを押しつけられている夏葵には、それらをすべて救い出す力はなかった。
植物園で働いている人たちは、皆が植物を好きなわけではない。市の他の部署から回されてきた人。なんとなく採用された人。天下りの上司。まともに植物や園芸を学んだこともないまま、世話をしている。こうなるのも当然だ。
一方で、大学まで進んで植物の勉強を続け、趣味でも園芸を突き詰めてきた夏葵は、この植物園に採用された職員の中では“イレギュラー”な存在だった。
そんな若くして知識と情熱にあふれる夏葵は、職員の間では疎ましく思われ、いじめの対象となっていた。
今日も雑用や関係のない事務処理を押し付けられ、陰湿な嫌がらせに、ただ耐えるしかなかった。うわさでは、前任者はもっとまともな扱いを受けていたと聞くのに。
「……ごめんね」
黄色く変色した葉を、そっと指先で撫でながら、夏葵は呟いた。
こんなにも卑劣で歪んだ場所なのに、それに気づく人は誰もいない。温室を訪れるお客さんだって、水を与えられずしわ枯れたビカクシダや、茶膜に覆われた瀕死のサボテンに気づくことなく通り過ぎていく。
夏葵には、愛を与えられずに育てられた植物は、一目でわかる。そして、その植物たちが発している、声にならない悲鳴も。
バックヤード温室の一番奥へ向かう。ここは日当たりも温度も決して良いとは言えない場所だったが、夏葵が密かに救い出してきた植物たちが集められていた。
その大部分を占めるのは、日本に無法者の手によって密輸入されて、空港の税関検査で没収された珍しい植物たち。管理を委託されてやって来たこの植物園では、夏葵以外の職員は誰も栽培方法が分からず、興味も無いため放置され、枯れていく運命にあったものばかりだ。
だが生きているかぎり、植物園に委託料だけは支払われ続ける。だからこそ、半殺しのただ「生きているだけ」の状態にされてきたかわいそうな植物。そんな醜い姿に変わり果ててしまった罪のない子たちを、夏葵は休憩時間を使って植え替え、丁寧に仕立て直し、ここへ集めてきた。
そのことに気づいた他の職員から、わざと過剰に水を与えられるなどの嫌がらせを受けたこともある。それでもこの植物園のどの植物よりも元気に育っていた。
「ふふっ」
生き生きとした植物たちを見て、思わず笑みがこぼれた。もとは瀕死だったとは思えないほど、彼らは輝いている。
できることなら、この植物園のすべての植物たちを救ってあげたい。そのためには──腐った人間たちが邪魔だった。
「みんな、いなくなっちゃえばいいのに……」
いつの間にか、夏葵は人と関わることそのものが嫌になっていた。
人間は、植物に比べて、あまりにも愚かで、醜い存在に思えた。
──そのときだった。
温室の天井ガラス越しに、“何か”が群れをなして空を飛び去っていくのが見えた
ブゥーン、と、生き物ではない、機械のような音を立てながら……。
# # #
「はっ、はっ、はっ……」
呼吸が荒い。
夢、か──。
「夏葵さん!大丈夫ですか!」
視界がはっきりしてきて、布団の隣に座る秋穂の姿が目に入った。
「秋穂ちゃん……」
「温室で作業してたら急に倒れたんですよ。すごい熱で、ほんとにびっくりしました」
「おかしいな、ここ最近、体調を崩すことなんてなかったのに」
秋穂を安心させるため、夏葵は軽く笑って見せた。
「私がご飯の用意したり、植物のお世話もやりますから、夏葵さんはしばらく絶対安静にしててください」
「わかった、ありがとうね──」
その言葉に、ほっとしたように秋穂は微笑み、静かに戸を閉めて部屋を出ていった。
──どうして今になって、世界がこうなる前の夢なんて見たのだろう。
あの頃は人がたくさんいたはずなのに、私は独りぼっちだった。
毎日が苦しくて、どれだけの夜を、ひとりで泣いて過ごしたかわからない。
でも今は独りじゃない。
秋穂ちゃんがそばにいる。
かつて心の奥底に閉じ込めていた、ありのままの自分を、秋穂ちゃんの前でなら無理をせず、自然に出せている。
人がいなくなり、変わり果ててしまったこの世界は、不思議なことに、あの頃よりも、ずっと輝いている──。
つづく
※この小説はフィクションです。実在の人物・団体などとは関係ありません。




