第1鉢 「久々のお客さん」
道路の段差を勢いよく越え、自転車の前カゴに入れたスマホが一瞬飛び上がり、ガタッと音を立てる。もうどれくらいの距離を漕いだだろうか? こんな時にスマホで地図を見れたら便利だけど、とっくの昔にバッテリー切れだ。半年以上前に。
そもそも電源が付いたとて、受信できる電波が飛んでいるのかも分からない。こんな何の意味もなさなくなった板切れなど、持ち歩かなければ良いのにと思うが、17歳の女子高生である藤波 秋穂には、今もなおスマホが体の一部であることに変わりはなかった。
5月だというのに陽射しは真夏の如く照りつけてくる。飲み水は残り僅かで、食料ももう無い。走っているのは郊外の道路で、物資を調達できそうな場所も見当たらない。
ふと目の前に、一台の車が目に入った。フロントガラスは砕け散り、時が止まったように道端に取り残されている。「あの日」から動かないままなのだろう。
何かないかと恐る恐る覗き込むと、白い残骸が見えた。かつて人だったもの、白骨化した死体。
「ひっ……」
思わず息を呑み、後ずさる。
こんなものは何度も目にして慣れたはずなのに、今回は違った。孤独が急に精神を蝕んでくる。
──お願い、誰か、誰か居て
# # #
日が少し傾きかけたころ、幾度も挫けそうになったが、何とか市街地まで辿り着くことができた。人の気配がなくなった、荒れた建物の間を自転車で駆ける。
ここまで来れば食べ物や寝る場所を確保できそうだ。
本来なら安心すべきなのだが、秋穂の胸の中は暗い気持ちであふれていた。
今日も誰ひとり、出会えなかった。
涙があふれてきて視界がかすみ、自転車から降りる。
どこまで行けば人に会えるの? とっくに世界は私ひとりになってしまったの……?
しばらく自転車を押しながら歩くうち、気持ちが少し落ち着いてきて、涙をぬぐって顔を上げた。すると、夕陽をキラキラと反射する大きなドームが見えた。ガラス張りの大きな建物。いや違う、温室?
そういえばこのあたりの街に植物園があったような...? 行ったことはないけど、聞いたことがある。
植物園なら、何か食べ物があるかも。こんな世界だから、しばらく新鮮なものは口にしていない。フルーツでも実っている木があったら......。
# # #
寂れた入場ゲートを抜けると、目的の温室の目の前にたどり着いた。近づいてみると、その大きさに改めて息を呑む。入口を探して周囲を見回すと、すぐ近くに「非常口 ここから進入禁止」と張り紙が貼られた扉があった。
秋穂は一瞬ためらったが、構わず取っ手を引いた。
やはり鍵は掛かっていない。
「えっ……」
扉を開けた瞬間、土の匂いとともにムッと高い湿度が体に直撃し、思わず目を見開く。中には、名前も知らない木々や草花が、青々と生い茂っている。
おかしい。誰も管理していないのであれば植物は荒れるか枯れるかしているはずなのに、とても元気に見える。外の荒廃した道路に生える雑草や、廃虚に絡みつく蔦とは違う、植物の輝くみずみずしさ。
誰か、いるの──?
通路らしき小道に出て植栽を眺めると、名札が目に入る。
「コモチクジャクヤシ」「キフゲットウ」……聞き慣れない名前ばかり。食べられそうにはない。
そう思って歩いていると、ふと目の前の高いところに、見覚えのある黄色い房が見えた。
「…バナナだっ!」
間違いない。かつて見たバナナはもっと小さな房だったが、それがいくつも連なった大きな形をして、木からぶら下がっている。その下には、赤紫の大きな蕾みたいなものが付いていた。
バナナなんてものを口にするのはいつぶりだろうか。しばらく食べていない空腹もあり、秋穂の頭の中はそれを食べることでいっぱいになった。
しかし、その房は3~4メートルの高さにあり、とても手が届きそうにない。何か使えそうな道具はないかと辺りを見渡す。
ふと近くに、長い柄のついた箒が立てかけてあるのが目に入る。
「これだ!」
秋穂は箒を掴み、必死にバナナの房へと伸ばす。
柄の先端が房に触れた。
「あと、ちょっと……」
がんばって箒を使って揺さぶる。ほんの少しでも良い、落ちてきてくれれば──。
「そのバナナは、もう少し熟してからのほうが良いよ」
不意に背後から声がして、秋穂は驚いて箒を落とした。
「ひっ!?」
慌てて声がした方向に振り返ると、腰に手を当てた若い女性が立っていた。
ショートヘアで作業着のような服を着ていて、自分より少し年上に見える。
「ひ、人! だ、誰ですか!?」
久しく他人と会話していなかったせいで、秋穂の声は裏返り、言葉も途切れがちになる。
女性は優しい笑みを浮かべて言った。
「私はこの植物園の職員だよ。まあ、世の中がこうなる前の『元』だけどね。名前は豊浦 夏葵。あなたは……」
「わっ、私は……藤波 秋穂です」
ずっと願ってきた他人との出会い。もうこの世界からは自分以外の人は消えてしまったと思っていたのに──。
けれど喜びよりも驚きの方が勝って、胸が高鳴り、うまく言葉が出てこなかった。どうやら悪い人には見えないけど。
「ここにはいろいろな種類のバナナがあるけど、この“ムサ・アエアエ”を選ぶなんて、なかなかお目が高いね」
「えっ、何か……」
「見てみて、このアエアエには、ほかのバナナと違って斑が入っているでしょう?」
「ふ?」
「この白い模様のことだよ。葉緑体が欠損してできてるの。綺麗でしょ?」
急な会話に驚きながらも、意識して見上げてみる。すると、確かに実や葉っぱに白いラインがスジのように入っていて、ほかのバナナにはない特別な雰囲気を放っていた。さっきは食べたい一心で全然気づかなかった。
「アエアエはハワイで栽培されていた品種でね、昔は王族しか口にできなかった特別なバナナだったの。もしも普通の人が実を食べたり、木を見ただけで処刑された、なんて話もある」
「しょ、処刑!? ご、ごめんなさい!」
処刑と聞いて咄嗟に頭を下げてしまう。そんなに大切なものとは思っても見なかった。
「ははっ、別に大丈夫だって。ただの伝説の話だよ。バナナなら他に食べごろのがある。秋穂ちゃん、だっけ? 案内するからついて来て。食べさしてあげる」
「良いんですか!」
嬉しい気持ちと同時に、少し緊張がゆるみ、秋穂は夏葵に聞く。
「……あの、その前に、水ってありませんか? 実はさっきから、のどが……渇いてて」
長く水を口にしていないうえ、温室の蒸し暑さが追い打ちをかけ、秋穂ののどはカラカラだった。
夏葵は一瞬考えてから、軽くうなずいた。
「水かぁ、じゃあこっちについて来て」
夏葵の後ろについて通路を歩いていく。植えられた植物はどれも艶やかで、知識のない秋穂にも、とても生き生きしているのが分かる。
「ここへは一人で来たの? 仲間は……?」
歩きながら、夏葵が優しい声で尋ねる。
「ひとりだけです……」
「そっか、私と同じだね」
夏葵は少し暗い顔をして言った。
「なんだか嫌なこと聞いちゃったかな」
「いえ……大丈夫です」
言葉ではそう答えたものの、思い出したくない過去に胸の奥が少し疼いた。きっと同じように生き残った夏葵さんも、つらい思いを抱えているに違いない。
「ほらこの木、『タビビトノキ』っていうの」
立ち止まり、夏葵が指差したのは、扇のように葉を広げた背の高い木だった。葉の付け根が放射状に並び、まるで大きな扇子のようだ。
「旅人、の、木……?」
「そう。マダガスカル原産の植物なんだけど、葉っぱの根元にたまった水を旅人が飲んで、のどの渇きを癒したことから、この名前が付いたと言われているの」
「えっ! じゃあ、この木から水を飲むんですか?」
「いや、飲めない」
「は!?」
てっきり、この木から水を採って飲むのかと思っていた秋穂は、裏切られたように声を上げる。
「タビビトノキは確かに水はたまるのだけど……ほとんどが雨水がたまった停滞水で、虫の死骸なんかも混じって腐敗してる。だから飲むとほぼ必ずお腹を壊すの」
「それじゃ全然旅人に優しくない木じゃないですか」
「ふふ。そう思うでしょ? でもね、この木にはもうひとつ名前の由来があるの。葉っぱがこんな感じに扇形に展開しているけど、だいたい東西の方向に広がるから、旅人が方位を知るのに利用したとも言われているの」
「なるほど……」
秋穂は感心したものの、すぐに大事なことを思い出した。
「で、結局、水はどこなんですか!?」
「ごめんごめん、久々のお客さんだから、ちょっとからかいたくなっちゃった。水はこっちにあるから、ついてきて──」




