追放された俺が、奴隷と結んだ契約で王太子の婚約を無効にした話
1
追放は、剣で行われない。
紙で行われる。
王城の会議室は、今日も清潔で、今日も冷たかった。磨かれた机は、汗も血も吸わない。だから人はここで、人を殺す。穏やかな声と、判を押す音で。
「結論から言おう。君は勇者一行の任を解かれる」
王太子の側近が、あくびを噛み殺すように言った。視線は、俺を通り過ぎて壁の装飾を眺めている。俺の存在は、家具と同格らしい。
「理由は?」
俺が聞くと、側近は笑った。愛想笑いでもなく、嘲笑でもなく、もっと事務的な笑いだ。生理現象みたいな。
「忠誠心の欠如だ。君は王家の威信を軽んじた」
忠誠心。便利な言葉だ。切る理由にもなるし、切られた側が反論しづらい。忠誠は数値化できない。だから誰のものでもないし、誰でも殴れる。
俺は、机の上の書類を見た。もう判が押されている。俺の承認欄は空白のまま。まあ、俺に確認を取る必要はないのだろう。家具だから。
「……俺は、軽んじてない。正しく扱っただけだ」
言葉が勝手に出た。言った瞬間、会議室の空気が「面倒くさい」になったのが分かる。正しいことは、たいてい面倒だ。
側近が指を鳴らす。控えていた衛兵が二人、半歩前に出た。
「君は優秀だ。優秀すぎた。だから困る」
側近は、くるりと紙の束を回して見せた。婚約契約書。王太子の婚約——それが今、国の空気みたいに当然になっている“聖なる約束”の文書だ。
俺は、その文書に目を通した。
通してしまった。
そして、指摘してしまった。
「婚約者本人の同意が成立していません。署名の日時が——」
そこまで言ったときの、王太子の顔を思い出す。怒りじゃない。怯えだ。自分の足元に、穴が開いていると気づいた顔。
彼らは、穴を塞ぐ。
穴を指さした人間を埋めて。
「今後、君が持つ記録は国の機密だ。提出してもらう」
側近が、さらりと言う。奪う、じゃない。提出。優しい言葉に包むと、人は窒息に気づきにくい。
俺は鞄を握り直した。中にあるのは、写し。原本ではない。原本は、俺が預かったままだ。
「提出は拒否します」
会議室が静かになった。衛兵の靴音が、世界の終わりみたいに近づく。
「……忠誠心がない」
側近が、もう一度、同じ言葉を使う。便利な言葉の二発目は、たいてい本気の殴打だ。
俺は立ち上がった。逃げる準備は、昨日からしていた。俺が優秀すぎるなら、彼らも俺が逃げる程度の想定はしているだろう。だからこそ、逃げ道は一つしかない。
紙の端が、指に刺さった。
痛い。現実だ。
俺は、衛兵に笑ってみせた。
「——書類を読める人間は、嫌われる」
その瞬間、会議室は、俺を“追放”という名の箱に入れて閉じた。
⸻
2
裏街の空気は、正直だ。
王城みたいに香を焚かない。人の臭い、酒の臭い、金の臭い。生き物が生きている臭いがする。
闇市は、その真ん中にある。
俺がここへ来たのは、趣味じゃない。救済でもない。
味方が欲しい? 違う。味方は裏切る。
組織が欲しい? もっと違う。組織は証拠ごと燃やす。
俺に必要なのは——当事者だ。
婚約契約書の穴は、俺だけが知っているわけじゃない。
穴を開けられた本人がいる。
そして、その本人は、今、表に出られない形で消されているはずだ。
「ほらよ。元貴族。値は張るぞ」
奴隷商が、檻を杖で叩いた。金属音が、骨に響く。檻の中の女は顔を上げない。髪は銀。光を反射して、汚れすら綺麗に見えてしまうのが厄介だった。
俺は近づいた。
檻の中の女が、ゆっくり顔を上げた。
目が、氷みたいだった。
冷たい。透明。触れたら指が折れそうな色。
だけど、その目は死んでいない。死んでいないというのは、希望があるということじゃない。憎しみが残っているということだ。
「……買いに来たの?」
声は掠れていた。水も食も足りてない喉の声だ。それでも、言葉の端が鋭い。刃物が錆びても、刃物であることは変わらない。
俺は正直に言った。嘘をつくには、こいつの目が冷たすぎる。
「買う。……という形で、話をしに来た」
奴隷商が口角を上げた。金が動く笑い。
女——レイナは、俺を上下に見た。衣服は旅装。顔は疲れている。腕は細い。剣も持っていない。
「助けに来たの?」
質問は、淡い期待じゃない。罠だ。
“助ける”と言えば、次に“何が欲しいの?”が来る。
彼女は、そこまで見ている。
俺は息を吸った。
「いいや」
空気が少しだけ、冷えた。
「一緒に“間違い”を証明しに来た」
レイナは瞬きを一度した。感情が動くのを隠すとき、人は瞬きをする。
「間違い?」
「婚約契約。あれは成立してない」
俺が言うと、奴隷商が「は?」という顔をした。関係ない話だ。彼にとっては、女は商品で、契約は“ここ”の契約だけでいい。
レイナの目が、ほんの少し細くなった。
「あなた……書類の匂いがする」
褒め言葉じゃない。
でも、悪口でもない。
“匂い”は、逃げられない分類だ。
俺は檻の前で、鞄から小さな金属の輪を出した。指輪。宝飾ではない。儀礼用の、簡素な誓約具。
「条件付きで契約する」
奴隷商が笑い、レイナが笑わなかった。
「……条件?」
俺は指を折る。
「一つ。身体的危害は禁止。俺も、お前も、第三者もだ」
「二つ。発言権を保証する。黙らせない。嘘も強要しない」
「三つ。目的達成後、お前を解放する。ここから出す」
レイナは、俺の手の中の指輪を見た。
見てから、俺の目を見た。
「逃げ道を用意してるのね」
「俺が欲しいのは、従属じゃない。“証言”だ」
その言葉は、俺の喉に刺さって出てきた。証言。証拠。そこまでしか、俺は信じない。信じたせいで、追放された。
レイナは黙った。黙って、息をする。考える。
そして——
「条文、見せて」
俺は紙を出した。誓約具に付属する簡易条文。短い。だからこそ、誤魔化せない。
レイナは、指先で紙をなぞる。読んでいるというより、確認している。自分がまた“同意のない人生”に引きずり込まれないかを。
読み終えた瞬間、彼女は小さく笑った。
「……あなた、嘘をつくなら、もっと上手くやる」
それは、信頼じゃない。
判断だ。
「同意する?」
俺が聞くと、レイナは目を閉じた。ほんの一秒。
その一秒の間に、彼女は今までの人生を数えて、ここで折り合いをつけた。
「……同意する。条件付きで」
奴隷商が「よし」と言い、俺が金を払う。金は痛い。だが、死ぬよりは安い。死んだら、証拠が喋れない。
俺は檻を開け、レイナの指に指輪を通した。
誓約具が、微かに温かくなる。
それは魔法というより、手続きの完了通知に近い。
レイナが指輪を見つめ、低く呟いた。
「……ねえ。これ、効くの?」
俺は苦笑した。
「効かなかったら、俺たちはただの馬鹿だ」
レイナは、小さく鼻で笑った。
毒舌の代わりに、初めて人間の笑いが出た。
⸻
3
役所の門は高い。
ただ高いだけで、強くはない。高い門が守っているのは、民ではなく面子だ。
俺たちは正面から入った。逃げるように裏口を叩けば、相手の土俵になる。書類の戦いでは、入口から決める。
窓口の役人は、俺とレイナを見て眉をひそめた。
「奴隷」を視界に入れると、人は目を細める。眩しいものを見るみたいに。
「用件は?」
俺は礼儀正しく言った。礼儀は武器だ。相手が礼儀を欠く瞬間、こちらの正当性が増える。
「婚約契約に関する照会です」
役人が鼻で笑う。「またか」という顔だ。王太子の婚約は、民にとっての祝祭であり、役所にとっての厄介だ。問い合わせも、嫉妬も、嫌がらせも来る。
「一般人に回答義務はありません」
「一般人ではありません」
俺はレイナの方を見た。
レイナは、僅かに顎を上げた。言葉がなくても“私は当事者だ”と伝える仕草。
役人の顔色が変わる。
変わったが、すぐに戻そうとする。戻せない。
一度動いた人間の顔色は、嘘をつくのが下手だ。
「……証明は?」
俺は、指輪と条文を提示した。
誓約具の印。合意の証。
役人は渋い顔をしながら条文に目を落とし、ふっと鼻で笑った。
「こんなもの……」
「法的効力があります。誓約具は王法の管理下です」
俺が言うと、役人は口をつぐんだ。
彼は書類を読める人間だ。読めるから、効くことが分かる。読める人間は嫌われる。だが、同族には嘘をつけない。
「……何が知りたい」
レイナが、初めて口を開いた。
声はまだ弱い。だが、言葉は真っ直ぐだった。
「この婚約が、成立しているかどうか」
役人が眉を寄せた。
「成立しているに決まっている。王太子殿下の——」
「“決まっている”じゃなくて、条件を見て」
レイナが言う。毒ではない。刃だ。
そして刃は、手が震えていても刺さる。
俺は、鞄から写しを出した。婚約契約書の写し。
役人が目を落とし、目を細めた。
「……署名の日時が……二つ?」
レイナが淡々と言った。
「片方は、私が拘束されていた日」
役人の顔から、血が引いた。
拘束されていた日。
つまり、自由意思で署名できない日。
同意が成立しない日。
婚約が“成立していることにされている”ための偽装が入った日。
役人は唇を噛んだ。噛んだのは、怒りじゃない。恐怖だ。
書類の恐怖は、刃物より現実的だ。消せない。言い訳がきかない。時間を巻き戻せない。
「……これを、どこで」
「答える義務はありません」
俺が、役人の言葉を返した。礼儀正しく。
役人は、自分が投げた武器が戻ってきたことに気づき、黙った。
沈黙の中で、レイナが小さく息を吸う。
その息の音が、俺には“生きている”に聞こえた。
役人は、書類を机に置いた。置き方が丁寧だ。丁寧な置き方は、敗北の兆候だ。荒く置くのは強がりだが、丁寧に置くのは「これ以上壊れないように」という配慮だ。
「……照会ではなく、正式な申立てになります」
「構いません」
「……証言が必要です」
レイナが、俺の方を見た。
迷いではない。確認だ。
“ここで本当にやるの?”という確認。
俺は頷いた。
「契約したからな。発言権はある」
レイナは、わずかに笑った。
毒舌ではない。小さな皮肉。生きている人間の皮肉。
「じゃあ、言うわ」
レイナは、役人の前に一歩出た。足が少しふらつく。それでも前に出る。前に出るという行為が、尊厳だ。
「私は、その日、署名できる状態じゃなかった。
同意していない。
……つまり、この婚約は“成立していない”」
役人のペンが止まる。
止まったペンは、世界を止める。
⸻
4
書類が積まれた机の上で、戦争は静かに終わった。
役人は何度も確認した。
条文、日時、証言、誓約具の印。
確認するほど、逃げ道がなくなる。だから役人は確認する。逃げ道を消すために。
最後に、役人が言った。
「……無効ですね」
声は小さい。
だが、世界が変わる音は、いつも小さい。
俺は、その言葉を聞いても、すぐには喜べなかった。
喜べない。喜ぶと、また足元が揺らぐ気がする。
俺は、追放されて学んだ。感情は、相手に渡すな。
レイナは、指輪に触れた。
まるで確認するみたいに。
自分が今、誰にも無断で呼吸していることを。
役人が、最終書類を作成する。
紙に、王太子の名が印字されている。
その横にある婚約者欄に、レイナの名はもう——ない。
削除ではない。訂正でもない。
“無効”という処理。
最初から無かったことにする、最も残酷で、最も正しい処理。
俺は、役人の手元を見ていた。
ペン先が、婚約者欄をなぞり、空白にする。
そして——
王太子の名前は、婚約者欄から静かに消された。
レイナが、息を吐いた。
泣かない。叫ばない。
ただ、生き物みたいに息を吐く。
「……終わったの?」
俺は答えた。
「短期的にはな」
レイナが目を細める。
「長期的には?」
俺は、役人の背後にある書類棚を見た。
棚の奥には、もっと大きな契約がある。王の命令。神殿の誓約。戦争の条項。
人間は、紙で人間を縛る。
縛り方を知っている人間は、嫌われる。
俺は笑った。今度は、少しだけ人間の笑いだ。
「次は、どの“当然”を消す?」
レイナは、指輪を見つめた。
その目は、相変わらず氷みたいに冷たい。
でも、その冷たさの奥に、火種がある。
「……あなた、最低ね」
「褒め言葉?」
「褒めてない。……でも」
レイナは言葉を飲み込んだ。
飲み込んだ言葉の重さが、短編の終わりにちょうどいい。
役所を出ると、空がやけに明るかった。
世界は何も変わっていない顔をしている。
変わったのは、書類の一行だけ。
でも、一行で、人は救われる。
俺は歩き出した。
レイナが、半歩遅れてついてくる。
指輪はまだ、彼女の指にある。
契約はまだ、生きている。
そして多分——
これが終わりじゃないことだけが、確かだった。




