ニューヨーク(父とギターとImprovisation)
夜のロックフェラーセンター前広場は大勢の人で賑わっていて、世界は二人だけのものというような顔をした恋人たちが手を繋いで楽しそうに滑っている。
このスケートリンクで滑るだけで32ドルもするというのに、そんなことはまったく気にならないというように次から次へと人が増えている。
いつか見た映画のシーンを思い出しながら滑っているのだろうか?
目の前を通り過ぎる幸せそうな人たちをリンクサイドで眺めていると、去年のクリスマスを一緒に過ごした友人たちの顔が次々に浮かんできて、みんなどうしているかな~、とため息のような呟きが氷の上に落ちた。
弦がニューヨークへ来たのは自らの意志ではなかった。
父親から半ば強制的に送り込まれたのだ。
高校3年生になった時、「高校を卒業したら、ニューヨークの語学学校で英語を勉強して、しっかり身に着けたら、ハーバードを受験しなさい」と言われたのだ。
弦は面食らった。
留学することなんて露ほども頭になかった。
受験するのは上智大学と東京外国語大学の2校と決めていた。
しかし、父親の考えは違っていた。
将来の跡継ぎとして早くから海外経験を積ませようとしていたのだ。
頼る人がいない異国の地で誰の力も借りずに自活できる力を付けさせることが最優先だった。
『若い時の苦労は買ってでもせよ』という諺があるが、自ら買わなくてもさせるべきだというのが父親の信念だった。
弦の父親、奏音は、自然派化粧品を製造販売する『メロディコスメティクス』を経営している。
ハーブを原料とするスキンケア製品が主で、若い女性から高い支持を集めており、毎年二桁の成長を続けている。
流通は直営店と通信販売に絞っており、ブランド価値を棄損させかねない卸流通やOEM(相手先ブランド製造)は絶対にしないと決めている。
更に海外展開にも乗り出し、会社設立15周年を迎えた2010年には、アメリカの新興ナチュラルコスメ会社を買収した。
本社・本店がニューヨークにあり、ボストンやフィラデルフィアなど10店舗を東海岸中心に展開している会社だった。
経営権を手中に収めた奏音は弦のニューヨーク留学を即決した。
帝王学を授ける良いチャンスだと考えたのだ。
そんな敏腕経営者として忙しく働く奏音だったが、オンとオフの区別はしっかりつけており、どんなに忙しくても趣味の時間は削らなかった。
だから、音楽を聴くこととギターを弾くことを欠かすことはなかった。
音楽に没頭している間は何もかも忘れられるからだ。
それは弦に大きな影響を与えた。
幼い頃から父親が演奏するクラシックの名曲を間近で聞いていたため、幼稚園の頃からギター演奏に興味を持ち、「弾かせて、弾かせて」と駄々をこねて困らせるほどだった。
それもあってか、小学生になった時、念願のギターを買ってもらうことができた。
それは安物だったが、弦にとっては最高の宝物となった。
そして、大切な友人となった。
だから一時も離れずギターを弾き続けた。
すると、メキメキと上達して色々な曲が弾けるようになり、それが転機をもたらした。
小学4年生の時に両親の前で『禁じられた遊び』を披露すると、父親の表情が変わった。
すぐに楽器店に連れていかれて、高価なギターを買い与えられた。
その日からヤマハのギターが新たな友達になり、個人レッスンというおまけまで付いてきた。
その後もメキメキと腕を上げ、中学2年生で『アルハンブラ宮殿の思い出』を弾きこなすようになると、父親は大喜びし、スペイン製の30万円のギターを買ってくれた。
更に、志望校に合格すると、アルハンブラへ連れて行ってくれた。
それは単なる観光旅行ではなく、弦が持つギターを作った工房への表敬を兼ねていた。
その工房の名は『Alhambra』
1965年創業の老舗メーカーで、そのオーナーの前で『アルハンブラ宮殿の思い出』を演奏したことは、弦にとって一番の思い出になった。
しかし、クラシックギターへの熱い想いは高校1年生の冬に一気に萎んでしまった。
友人の家でジム・ホールの『アランフェス協奏曲』を聴いてしまったからだ。
弦は一瞬にしてノックアウトされ、アルハンブラは宇宙の彼方へ飛んで行ってしまった。
それでも父親の手前、クラシックギターの練習は続けていたが、心はジャズに占領されていた。
当然ながらジャズギターが欲しくてたまらなくなったが、親にねだることはできなかった。なけなしの貯金を下ろして中古のフルアコ(ボディー内部が完全に空洞になっているエレキギター)を買った。ジム・ホールが使っているギブソンもどきだったが、そのギターに『アラン』と名づけて、練習に明け暮れた。
もちろん家ではできない。
ギターを預けている友人宅へ学校帰りに寄って、アンプを借りて練習した。
最初はとても苦労した。
ピックを持つのが初めてだったからだ。
指と爪で弾くクラシックギターに対してジャズギターにピックは必須だったので、右手の親指と人差し指でつまんで練習を繰り返した。
しかし、正確に弦を弾くのは思いのほか難しかった。
それに弦自体が違っていた。
クラシックギターがナイロン弦なのに対してジャズギターはスチール弦なのだ。
この違いに慣れるのにも時間がかかった。
更に、持ち方も違っていた。
クラシックギターは抱きかかえるようにして持つのだが、ジャズギターはストラップで吊るした状態で演奏することが多いのだ。
これにも戸惑った。
両手の指の位置がまったく違うので、慣れるのに苦労した。
それでも、クラシックに戻ろうという考えは頭に浮かばなかった。
正確さが要求されるクラシックに対してジャズには自由があるからだ。
友人が教えてくれたImprovisation(即興演奏)という言葉に強く共感する自分に驚いたほどだ。
決められた通りに弾くのではなく、フィーリングで演奏できる開放感は何物にも代えがたかった。
幼い頃からただひたすら正確さを追求してきた弦にとって、鳥籠から解き放たれたような喜びは無上のものだった。
もちろん、最初から即興演奏などできるはずはない。
基本をみっちり修得しなければ挑戦することすらできない。
それでも、その先にあるImprovisationという甘美な世界への通過点だと思えば、弦にとってなんの苦労でもなかった。
*
『アランフェス協奏曲』に魅せられてジム・ホールを生涯の師にしようと決めた弦だったが、それは1年と持たず、呆気なく崩れ去った。
未知の刺激を求め続けるハートに火を点けるアルバムに出会ってしまったからだ。
それは、ラリー・カールトンというギタリストの同名アルバム『Larry Carlton』で、『夜の彷徨』という邦題がつけられていた。
1曲目を聴いた瞬間、ぶちのめされてしまった。
その衝撃は半端なかった。
完全にノックアウトされた。
『Room335』の虜になり、彼が弾くギブソンのES-335というギターが欲しくなった。
しかし、楽器店で値札を見て愕然とした。
30万円という数字が弦を睨みつけていた。
まるで〈お呼びでない!〉とでも言うように。
すごすごと帰るしかなかった。
貯金を全部下ろしても28,000円しかないのだ。
これではどうしようもなかった。
持って行き場のない思いで一晩過ごした弦だったが、〈どうにもならないことはどうしようもない〉と気持ちを切り替えて、フルアコでラリーの曲をコピーすることにした。
でも、簡単ではなかった。
尋常ではない速弾きをものにできるほどのテクニックはまだ身に着いていなかった。
左手の指はなんとかそれらしく動くのだが、右手のピックがまったくついていけないのだ。
友人から「彼のコピーは無理だよ」と笑われるほど酷かった。
それでも、弦の根性はそんなことでめげるほど柔ではなかった。
血豆ができるほど練習して遂にものにしたのだ。
「お前は半端じゃねえな」と呆れ顔で言った友人の言葉が弦には勲章のように聞こえた。
そうなのだ。
成功とは半端じゃない努力をする者だけに贈られる勲章なのだ。
「為せば成る!」
友人の肩に手を置いた弦は、自らに言い聞かせるようにもう一度同じ言葉を呟いた。
*
「キャー」
目の前で転んだ女性の大きな声で今に戻った。
ここはニューヨーク。
知り合いのいない異国の地。
そして、自分は語学学校に通う日本人。
そしてアルバイトを探している。
出国する前に父親から言われた言葉が重くのしかかっていた。
「今年は英語の勉強に集中しなさい。しかし、年が明けたらアルバイトを探して働きなさい」と強く言われていたのだ。
何をしたらいいのか……、
呟きが氷の上に落ちた。
それをスケート靴が轢くと、バラバラになって氷の中に吸い込まれていった。
そして、何事もなかったかのように跡形もなく消えた。
そろそろ真剣に探さなければ……、
力なく首を横に振りながら、重く感じる足で帰り道を辿った。