日本(想像をはるかに超える惨事と衝撃)
桜が満開だった。
フローラは東北の地に立っていた。
宮城県だった。
海岸が見える場所だった。
復旧のための工事が進んでいるようだったが、もう2年が経つというのに、まだあちこちに瓦礫が放置されていた。
それを見ていると、テレビで見た津波のシーンが蘇ってきた。
それはあらゆるものを飲み込んでいく恐ろしい光景だった。
「そこの田んぼには飛行機が突き刺さっていました」
フローラをここまで運んできたタクシー運転手の声だった。
飛行場から流されてきて、機体の頭部分が田んぼにのめり込んでいたという。
「あそこには大型の漁船が打ち上げられていました」
半壊した住宅の横にある空き地を指差していた。
「海から何キロも離れているのに……」
運転手の瞳が揺れていた。
「思い出すと眠れなくなるんですよ」
家族は無事だったが、親戚や友人が何人も亡くなったという。
「津波は恐ろしい……」
耐えられなくなったように首を振って車に戻り、ドアを開けて運転席に座った。
続いてフローラも車内に戻ったが、そこはここへ来るまでとはまったく違う空気に占領されていた。
それは車が走り出しても変わらなかった。
凍り付くような冷たい空気のまま運転手は無言でタクシーを走らせ、フローラも無言で窓の外を見つめ続けた。
仙台市の街中に入ると、海岸付近とは様子が違っていて、損傷は限定的なようだった。
そのことを口にすると、即座に否定された。
「あのホテルはもう使えないんですよ」
運転手が指差した先には大きな建物があり、外見に異常はないように見えたが、そうではないという。内部に亀裂が入って危険なので、室内へ入ることは禁止されているというのだ。
それを聞いて、見た目では判断できないことを知らされた。
「そんなホテルがあちこちにあります。もちろん、ホテルだけではありません。一般の住宅も大きな被害を受けています」
宮城県だけで全壊が8万戸以上、半壊が15万戸以上あるのだという。
フローラは津波被害にばかり気を取られていたが、地震による被害も甚大だということをまたもや思い知らされた。マグニチュード9、震度7というのはフローラの想像をはるかに超えるものだった。
言葉を失っていると、運転手が震災当日のことを話し始めた。
「あの日、私は非番で、家族を乗せて東北自動車道を北へ向かって走っていました。すると、いきなり大きな揺れが来ました。車が飛び上がるくらいの揺れで、一瞬、何が起こったのかわかりませんでした。それほど大きな揺れでした。今考えると、無事だったのが信じられないくらいです」
そして、地震発生時の生々しい話が続いた。
「なんとか家に戻ることができましたが、電気も、水も、ガスも使えず、電波も通じず、周りで何が起こっているのかの情報も入らず、その上、明かりも、暖房もない不便な生活に直面しました」
そこで声のトーンが一気に落ちた。
「その後、しばらくして電気が通ったので、やっとテレビを見ることができました。しかし、付けた途端、信じられない光景が目に飛び込んできました。その時初めて知ったのです。地震と津波の被害の大きさを。家族全員、愕然としました」
すると、あの日テレビで見た地獄のような光景が蘇ってきて、心臓に痛みのようなものが走った。それでも運転手の話は続いていた。
「昔、大きな地震を経験しています。昭和53年に起きた宮城県沖地震です。当時、私は小学生でした。その時も大きな揺れと何日も続いた停電による暗い中での生活の記憶が残っています。でも、今回は地震だけでなく、津波の被害が重なりました。それも信じられないほどの津波がすべてのものを飲み込んでいきました」
すると、フローラの脳裏にまたあの映像が蘇ってきた。
人も車も家もあらゆるものが飲み込まれていく凄まじい光景だった。
またもや心臓に痛みのようなものが走って耳を塞ぎたくなったが、運転手は原発事故による恐怖を語り始めた。
「原発事故から3日目に雨が降りました。すると、『今晩の雨には福島の原発事故によって放出された放射性物質や被害を受けたコンビナートの有害物質が含まれている可能性があります。絶対に浴びないように!』という通達が回ってきました。それを見て、恐怖に震えました。それだけでなく、朝から晩まで上空を自衛隊機が飛び回っていて、まるで戦場のようでした」
しかも、それに加えて、深夜や早朝に強い余震があり、それも毎日何十回もあって、怯えながら暮らしていたという。
「そんな中、水や食料をかき集めるのにとても苦労しました。それだけでなく、地震から1週間後に季節外れの大雪が降るという弱い者虐めのようなことが起こりました。寒くて寒くて震えあがったので暖房用の灯油を買いに行ったのですが、近くのガソリンスタンドにはポリタンクを持った人が何百人も並んでいました。それでもわずかな期待を持って並び続けたのですが、残念ながら灯油を買うことはできませんでした。仕方がないので、服を何枚も重ね着して、毛布を巻き付けて過ごすしかありませんでした」
フローラはフィレンツェの冬を思い出した。
氷点下になることもある寒さの中で、暖房のない生活は想像できなかった。
思わず体に震えが走ったが、その時、運転手の声の調子が変わった。
「長々と当時のことを話して、ごめんなさいね」
フローラの表情が曇っていることに気がついたのか、前を見ながら運転手が頭を下げた。
「いいえ、貴重なお話をありがとうございました」
頭を下げた時、赤信号で車が止まった。
それを待っていたかのように運転手が振り向くと、穏やかな顔に変わっていた。
「大変だったですけど、本当に大変だったですけど、でもね、世界中の多くの国から心温まる支援を頂いて感謝しているんですよ」
イタリアからオペラ歌手が来日して被災地を巡回慰問したこと、東京などでチャリティーコンサートを開いて集まった募金を寄付してくれたこと、などを笑みを浮かべながらありがたいという口調で伝えてくれた。
「こちらこそ、ありがとうございます。そう言っていただいて、とても嬉しいです」
フローラは仙台に来て初めて笑みを浮かべた。
少し走ると、仙台駅が見えてきた。
「もうすぐ着きますから」と言ったあと、運転手の声が明るくなった。
「ま、これからも大変ですけど頑張りますよ」
無理に元気な声を出しているようにも感じたが、心の痛みが少し軽くなったような気がした。
「今日は本当にありがとうございました」
頭を下げて、車を降りた。
運転手の最後の言葉に救われたフローラだったが、沈鬱な思いが消えたわけではなかった。
仙台から東京に向かう新幹線の指定席に座ると、実際に見た凄まじい光景と運転手の話が蘇ってきた。
想像をはるかに超える惨事を目と耳にした衝撃は余りにも大きかったし、イタリアで見聞きしていたことがいかに表面的なものだったかということを思い知らされた。
現地に行かなければ本当のことはわからないと知ってはいたが、これほどの乖離があるとは思っていなかった。
重いため息をつくと、前の座席の背面から引き出したテーブルの上にある弁当とお茶が目に入った。
買ったままの状態で鎮座していた。
『牛たん弁当』という大きな文字が開封を促していたが、フローラの手が伸びることはなかった。食欲はゼロというよりマイナスになっていた。
どれくらいかかるのかしら……、
復興への長い道のりに思いを馳せたが、想像の遥か先にしか出口が見えないような気がして、気持ちが更に重くなった。
被害は余りにも大きく、その範囲は広かった。
それだけでなく、原発事故のことがある。
廃炉作業には何十年もかかるだろうし、想定外のことが起これば更に長引く可能性だってある。
そうなれは、復興が遅れるだけでなく、風評被害も続くことになる。
被災地の人たちの有形無形の負担はこの先もずっと続いていくのだ。
願うことしかできない、
自らの非力に歯がゆさを覚えながらも、背面テーブルの上に両肘を乗せて、両手の指を組み合わせて額を付け、東京駅に着くまで祈り続けた。