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ニューヨーク(ルチオの叱咤)

 

 その翌日、忙しい時間が過ぎて客がほとんどいなくなった時、ルチオが手招きをした。


「ユズル、話がある」


 何かと思って近づくと、厳しい目で見つめられた。


「日本に帰りなさい」


 いきなりの直球だった。


「帰れって……」


 弦は目を丸くしたまま固まった。


「うちのことは心配しなくていい」


 昨日とは打って変わって厳しい表情になっていた。

 アンドレアがルチオに昨夜のことを話したのだろう。

 しかし、それに従うつもりはなかった。


「心配するなって言われても、僕が帰ったら店がまわりませんよ」


「大丈夫。できる範囲内で続けるから」


 弦は首を強く横に振った。


「大丈夫じゃありません。無理をしてルチオさんが倒れたりしたらどうするんですか。大変なことになりますよ」


 頑として制すると、それに押されたのか視線を落としたので同意と受け取ったが、そうではなかった。


「ダンテのようになりたいのか」


 戻ってきた視線は更に厳しいものになっていた。


「一生、片思いで終わりたいのか。死んでから巡り会っても遅いんだぞ」


 鬼気迫る表情で睨みつけられたが、なんの話かよくわからなかった。

 突然の話題転換についていけなかったし、ダンテという言葉に馴染みはなかった。

 するとそれに気づいたのか、表情を戻して、順を追って、かみ砕くようにして話し出した。


 ルチオが言っていたのは、中世イタリアの詩人であるダンテのことだった。

 彼は最愛の人であるベアトリーチェと一緒になれなかったばかりか、若くして死別するという悲劇に見舞われ、狂乱状態になったのだという。


「ユズル、よく聞きなさい。そして心に刻みなさい。最愛の人に巡り合うのは人生でただ一度しかないことを」


 腹の底に響くような声だった。


「そして、時間が無限にあるという考えを捨てなさい。命がいつまでも続くという思いを捨てなさい。ベアトリーチェは24歳の若さで死んだんだ。フローラは何歳だ? 同じくらいの年ではないのか」


 頷かざるを得なかった。


「みんな長生きするわけではない」


 そこで表情が一気に曇ると、「私の孫も……」と唇が震え出した。

 それでもなんとか堪えたようで、気丈に声を絞り出した。


「いつ突然、何が起こるかわからない。あとになって悔やんでもどうしようもないんだ」


 そして、天井を見上げた。

 涙を堪えているようだったが、視線が弦に戻ってきた時、表情は一変していた。


「ダンテは地獄に落ちた。最愛の人がいない現世で生きていても仕方がないからだ」


 ルチオは目を瞑って『神曲』の地獄編第一歌を口にした。


「人生の道半ばで正道を踏み外した私が目を覚ました時は暗い森の中にいた。その苛烈で荒涼とした峻厳(しゅんげん)な森がいかなるものであったか、口にするのも辛い。思い返しただけでもぞっとする。その苦しさにもう死なんばかりであった」*


 そして目を開けた途端、「ダンテのようになりたいのか」と射るように見つめられた。

 更に、「フローラが突然の病気に倒れたらどうする。不慮の事故に遭ったらどうする。誰かに誘惑されたらどうする」と両肩を掴まれて揺さぶられた。


 弦はハッとした。

 そんなことになったら生きてなんていられるはずがない。

 フローラのいない人生なんてなんの意味もないのだ。

 そう思い至った時、ルチオが行動を促すような声を発した。


「チャンスは二度と訪れない。幸運の女神に後ろ髪はないんだ。通り過ぎてしまう前に前髪を掴みなさい」




*「神曲 完全版」ダンテ著、平川すけ弘訳(河出書房新社)より引用




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