ニューヨーク(アンドレアの気持ち)
アントニオが退院してから1か月が過ぎた。
それは弦にとって目の回るような日々であると共に挑戦の日々でもあった。
アントニオが作るパンと遜色のないものを焼かなければならないからだ。
それができなければ店の評判を落としてしまう。
そんなことになったら大変だし、偉そうなことを言った自分の面目も立たない。
だから正に〈背水の陣〉という言葉そのものの毎日を送りながら、パン作りだけに集中していた。
それでも、疲れ果ててベッドに入ると、フローラのことが思い出された。
それは礼を失していることを呼び覚ますものでもあった。
イタリアから帰って2か月が経つというのにお礼の手紙を書いていないのだ。
なんとかしなくてはいけないことはわかっていたが、いつもあくびがそれを吹き飛ばした。
一日中立ち仕事をしている弦に手紙を書く余力は残っていなかった。
しかも、定休日には寝だめをしていたので、結局、書くようにはならなかった。
それは言い訳に過ぎないとわかっていたが、睡魔には勝てなかった。
*
次の定休日の翌日、店仕舞いをしていた弦は店の隅に立っているアンドレアに気がついた。
練習を早く切り上げたのだろうか、こんな時間に帰ってくるのは珍しいことだった。
「どうしたの? 今日はやけに早いね」
「ん、ちょっとね」
いつものアンドレアらしくない歯切れの悪い口調だった。
「あのさ」
「何?」
「あの~」
ぐずぐずとしたような煮え切らない口調に苛立った。
「なんだよ」
ムッとした声になると、「怒るなよ」となだめるような声が返ってきた。
それでも話を切り出そうとしないので、「だから、なんだよ」と詰め寄ると、「うん」と踏ん切りをつけたかのようにアンドレアの顔が引き締まった。
「ちょっと用事があってサンドロさんに電話した時に聞いたんだけどさ、薬局の女の人に一目ぼれしたんだって?」
いきなりのジャブに面食らった。
「今頃なんだよ」
戸惑いを隠すために背を向けると、「いや~、スマホで撮った写真を整理していたらこれが出てきてさ」とにやけた声が返ってきた。
それで振り返って画面を覗き込むと、サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局の店内の写真が見えた。
スクロールすると、弦と女の人が写っているものが現れた。
あの美しい人、フローラだった。
「この人のこと?」
顔を覗き込まれて一瞬、固まった。
それでも否定するわけにもいかず、仕方なく頷いた。
「これっきり?」
答えようかどうしようか迷ったが、話さないわけにもいかなかった。
ベーカリーでパン焼きを体験させてもらったことやディナーに招かれたことを話した。
「凄いじゃん」
アンドレアの目は興味津々というような光を放っていた。
「で?」
「で、って……」
ちょっと口ごもったが、礼状も書いていないことを正直に話すと、「ダメだよ、それ」と大きな声が返ってきた。
「せっかくのチャンスなのに、何やってんだよ」
叱るような声になったので思わず言い訳を口にしそうになったが、毎日疲れ果てて手紙を書く余裕がないとは言えなかった。
そんなことを言えば恩着せがましくなるからだ。
弦はぐっと堪えて、うつむいた。
しかし、そんな心の内を知る由もないアンドレアは「メールでもいいから送らなきゃ」と苛立ったような声を出した。
彼の言う通りだったが、メールアドレスを訊いていないことを正直に告げると、「なんでそんなことも訊いてないんだよ」と更に苛立つような声が返ってきた。
しかし、そのあとは腕組みをして考え込むような表情になった。
沈黙が続く中、様子を見ていたが、いつまで経っても口を開こうとしないので、「掃除しなきゃいけないから」と告げてモップを手にした。
「わかった」
彼は店の中を見回してから、小さな声で何かを言って、背を向けた。
*
「これ」
翌日の夜、店仕舞いをしていると、アンドレアが封筒とUSBメモリーを差し出した。
「何?」
「手紙」
「手紙?」
「俺が代筆した」
「代筆?」
「いいから読んで」
受け取った弦が取り出すと、用紙が2 枚出てきた。
一つはフローラ宛で、一つはウェスタ宛だった。
どちらも英語で印刷されていたが、フローラへの手紙は日本語にしろと言う。
「それから、これ」
渡されたのは写真で、弦の働く姿が写っていた。
「今日、ママにこっそり撮ってもらったんだ。これも同封すればいいよ」
弦は手に持った手紙とUSBメモリーと写真をしばらく見つめたあと、アンドレアに視線を戻した。
「どうして?」
「別に……」
表情を隠すようにうつむいた。
「これくらいしないと俺の気が済まないから」
言い終わると、自宅への階段を上がっていったが、途中で立ち止まった。
「ありがとう。感謝してる」
背を向けたまま言って、振り向かずに階段を上っていった。