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ニューヨーク(頼もしい息子)

 

 次の日からルチオの特訓が始まった。


「目指すなら一流を目指さなければならない」


 それは鬼師匠になるという宣言であり、中種つくり、発酵、こね、分割、型入れ、焼き、というすべての工程に渡って妥協なき指導が続いた。


「アントニオを超えろ」


 それは心のどこかにある〈アシスタントという甘えを払拭しろ〉ということを意味していた。


「ダメだ、ダメだ!」


 作っても作ってもダメ出しをされた。

 完璧でないものは認めないと言われ続けた。

 ルチオの顔にはアメリカの祖父という優しい面影はなく、鬼そのものだった。

 でも、それが嬉しかった。

 期待をひしひしと感じられたからだ。

 それに、充実していた。

 決められたレールの上を走らされるのではなく、自らの意志で選択した道を歩んでいるという確かな手応えを感じていたからだ。

 ギターに夢中になった時以来の高揚感が心と体を揺さぶっていた。


        *


 時はあっという間に過ぎ、アントニオが戻って来る日がやってきた。


「お帰り」


 ルチオが満面に笑みを浮かべて迎えた。

 また元のような生活が始まることにワクワクしているようだった。

 しかし、アントニオの右半身には麻痺が残っていて、一人で階段を上ることができなかった。

 弦はアンドレアと共に肩を貸して、2階まで連れて行った。


「迷惑かけて申し訳ない」


 アントニオが頭を下げたが、少し舌の回りがおかしかった。


「帰って来られて、なによりです」


 弦は務めて明るい声で右手を出したが、アントニオの右手は動かなかった。

 弦の右掌に左手の甲を当てた彼の口から出たのは辛そうな声だった。


「この手がなんとかならないと、どうしようもない」


 左手で右手を撫でた。

 右手はアントニオの利き腕だった。


「リハビリを頑張れば動くようになるわよ」


 すかさず奥さんが右腕を優しく擦ったが、返ってきたのは力のない声だけだった。


「そうなればいいんだけど……」


 病前の頼もしいアントニオの姿はそこにはなかった。

 だから彼が顔を伏せた途端、重苦しい空気に包まれたが、それを払拭するようにルチオが明るい声を発した。


「明日から店を開けるよ」


「でも、これじゃあ……」


 アントニオが自由に動かない右手を見つめると、「大丈夫だ。ユズルが立派に代役を務めてくれる」と、この1か月でかなり腕を上げたことを3人に説明した。すると、「でも、受験があるんじゃないの?」とアンドレアが甲高い声を出した。


「受験は止めた。ここでフルタイムで働くことにした」


 宣言するように告げると、奥さんがすぐに頭を振った。


「それはダメ。自分の人生を無駄にしてはいけないわ」


「無駄にはしていません」


「でも、ハーバードへ行って、将来は社長になるんじゃないの」


 しかし、弦は譲らなかった。


「それは父が決めた道であり、僕が選んだことではありません」


「でも、」


 奥さんがアントニオに視線を向けると、「とてもありがたいけど、ユズルを巻き込むことはできない。これは私たち家族の問題であって、君に迷惑をかけるわけにはいかない」と穏やかな口調ながらもきっぱりと断ち切られた。

 それでも、弦は引くつもりがなかった。


「僕は皆さんの家族だと思っています。ニューヨークの両親と祖父と兄弟なんです」


 強く首を振って、声を強めた。

 すると、突然、奥さんが感極まったような声を出した。


「ユズル……」


 目の中が潤んで今にも零れそうだった。

 アントニオも必死に堪えているように見えた。


「家族が困っている時に助け合うのは当然のことです」


 そうだよな、というようにアンドレアを見つめると、彼は僅かに頷いたが、その瞳は泳ぐように揺れていた。


「私も何度もユズルに翻意を促した。自分の人生を大切にしなさいと何度も言った。それでもユズルの気持ちは変わらなかった。だから、これ以上、翻意を促すのは却って失礼に当たると思う。ありがたく彼の好意にすがろうじゃないか」


 もうアントニオ夫妻は何も言わなくなった。

 それだけでなく、決断に心から感謝するような穏やかな表情に変わっていた。

 それはまるで頼もしい息子が一人増えたことを喜ぶかのようだった。



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