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フィレンツェ(あふれる想い)

 

「イタリア人パン職人から直々に教えてもらっただけのことはあるわね」


 予想外の褒め言葉がウェスタから発せられた。

 それは、中種作り、中種発酵、本捏ね、分割、成型、最終発酵、焼成と、昨夜から今朝にかけて行われた一連の作業に対して贈られたものだった。


「ありがとうございます」


 安堵の息を漏らして今までの緊張を解くと、「フローラが来たらびっくりすると思うわ」と予想外のことを言われた。

 思わずニンマリとしてしまったが、それが続くことはなく、話はすぐにパンのことに戻った。


「それにしてもあなたの師匠はたいしたものね」


 経験が半年弱の弦をここまでにしたルチオとアントニオへの賛辞になった。

 フローラの話が途切れたのは残念だったが、それでも、その言葉は最高に嬉しいことだった。

 師匠が褒められることほど嬉しいことはなかった。


        *


 開店まであと10分という頃にフローラが顔を見せた。


「どうだった?」


 弦にわかるようにと気を使ったのか、英語でウェスタに話しかけた。


「最高よ」


 ウェスタも英語で答えた。そして、「召し上がれ」とウェスタがトレイに乗ったチャバッタを差し出すと、口に入れたフローラから「おいしい」と日本語が出た。


 やったー! 


 二人に見えないように拳を握ると、続いて口にしたウェスタが指先を唇に当ててキスをして、天井に向けて指を開いた。

 おいしさを表すジェスチャーのようだった。

 褒められて天にも昇るような気持ちになったが、それを隠して、貴重な経験ができたことへの感謝を伝えた。

 すると、「こちらこそ。とても楽しかったわ」と英語で応えるウェスタにフローラが何やら耳打ちをした。

 即座にウェスタが頷いたので、なんだろうと思っていると、「ウェスタが夕食にご招待したいと申していますが、いかがですか」とフローラが笑みを浮かべた。

 アルバイト料の代わりだという。


「いえ、こちらこそ御礼をしなければいけないのに……」


 招待なんてとんでもないと手を横に振ると、急にウェスタが鋭い目付きになって、なにやらイタリア語でまくし立て始めた。

 するとフローラもウェスタの真似をして腕を組んで睨みつける目になった。


「年上の女性の誘いを断るものじゃないわよ」


 日本語だったが、美しい顔から発せられた凄みのある声に弦は声をなくした。

 しかし、ウェスタが笑うとフローラも笑い出して元の美しい顔に戻ったので、やっと気持ちがわかった。「ありがとうございます」という言葉を素直に出すことができた。


        *


 ウェスタの店を出てからベーカリーを5軒ほど覗いたあと、遅い昼食を済ませた弦は夜までホテルで横になった。

 結構な時間眠ったが、それでもまだ眠かった。

 もっと横になっていたかった。

 でも、約束の時間が迫っていた。

 大あくびをしながらシャワーを浴びて、念入りに髪を整えた。

 それから、キャリーバッグからジャケットを取り出して、羽織り、その姿を鏡に映した。

 中々サマになっていた。

 自画自賛したが、ルチオへの感謝は忘れなかった。

 彼のアドバイスがなければジャケットを持ってくることはなかったからだ。


        *


 フローラから指定された店に早めに到着した弦は、「お待ちしておりました」と迎えてくれた店の人を見て驚いた。

 日本人だったからだ。

 5年前からこの地で営業しているという。

 しかし、笑みを浮かべていたのはそこまでだった。


「大震災の影響はどうですか?」


 心配が声だけでなく顔にも出ていた。


「家を失った人がたくさんいて、まだまだ大変です」


「そうですよね。こちらでも津波の映像が何度も流されていました。それを見る度に心が痛くなって。それに福島が」


 言いかけて急に口を閉じた。

 福島のことを口にしてはいけないと思ったのだろう。

 でも、その気持ちがわかったので首を振って、大丈夫、ということを伝えたが、それでも、「ごめんなさいね。こんな話をするつもりではなかったのですが、日本人の顔を見るとつい」と目を伏せた。


「いえ、ありがとうございます。ご心配頂いていることに感謝します」


 頭を少し下げた時、ドアが開く音が聞こえた。

 顔を向けると、フローラとウェスタが笑みを浮かべて中に入ってきた。

 その瞬間、沈鬱な空気に支配されていた店内が一気に華やかになったような気がした。

 それに、お揃いのワンピースが似合っていて、目が離せなくなった。

 膝からまっすぐに伸びた生足が眩しかった。


「お待ちしておりました」


 笑みが戻ったオーナーが日本語で迎えると、フローラも日本語で返した。


「今日はゲストをご招待していますので、とびきりの料理をお願いします」


 その声と発音に魅入られて見つめてしまったが、それを引きはがすかのようにウェスタがドリンクメニューを弦に向けた。


「乾杯をしましょ。私たちはフランチャコルタにするけど、ユズル君はどうする?」


 まさかアルコールは飲まないわよね、という口調だったので少しムッとして見つめ返すと、「未成年だしね」とフローラも追随したので、ムキになってしまった。


「19歳だからイタリアではお酒を飲めるんですよね」


「でも、日本では20歳未満は飲めないでしょう」


 すぐにフローラに釘を刺された。


「そうですけど」


 頬を膨らませかけたが、ハッと気づいて、すぐに引っ込めた。

 膨れていたら幼く見えてしまうからだ。


「そうですね。ノンアルコールビールにします」


 無理矢理爽やかな声を出して向き合うと、フローラはただ頷いただけだったが、ウェスタは笑いを堪え切れないというように肩を揺らした。


「乾杯!」


 ウェスタの発声でグラスを合わせた。


「貴重な経験をさせていただいてありがとうございました」


 改めてお礼を述べると、どういたしまして、というように笑みを浮かべたウェスタだったが、すぐに真面目な顔になった。


「ところで、明日の朝、店に寄ってくれる? 渡したいものがあるから」


 なんだろう、と思っていると、前菜が運ばれてきた。

 それでその話はおしまいになり、話題は料理に移った。


「トリッパのサラダをお楽しみください」


 牛の胃袋を玉ねぎなどと和えてヴィネガーで味付けしたものだとシェフが説明すると、二人がもう待てないという感じでフォークを手に取った。


「あっさりとした酸味で、とても美味しいわ」


「本当。サラダで食べるトリッパも最高」


 フローラが幸せいっぱいという表情になってグラスを口に運ぶと、その中に無数の泡が消えていった。

 その泡が羨ましかった。

 泡になりたいと思った。

 真剣に思った。

 しかし、次の皿が運ばれてきて、その思いも終止符を打たされた。


「牛の骨髄のオーブン焼きをお楽しみください」


 オーナーの声で弦の視線がフローラの口元から離れたのと同時にウェスタが皿に添えられたブリオッシュ(ふんわりとした触感の甘い発酵パン)を手に取り、それに骨髄を乗せて口に運んだ。


「う~ん、最高」


 これ以上はないというような笑みを浮かべた。


「もう言うことないわ」


 フローラも幸せいっぱいというように頬を緩めて、「甘めのブリオッシュとの組み合わせが最高ね」とウェスタに笑みを投げた。

 自分のことはもう眼中にないかのようだった。

 仕方なく二人の真似をして口に入れたが、その途端、未経験の口福に襲われた。


「なんだこれは!」


 思わず声が出ていた。

 今まで食べたことのない美味しさだった。


 その後も次々に美味しい料理が運ばれてきて、舌鼓を打った。

 アーティチョークを卵で包んで焼いたもの。

 タリアータと呼ばれるグリルした牛ロース肉を薄切りにしてルッコラと合わせたもの。

 シュリンプのカレーリゾット。

 そして、生クリームをモッツァレラチーズで包んだパスタ。


「一つ一つの量が少ないから色々な料理が楽しめるのよね」


「そう、女性に対する気配りが半端なくて最高なの」


 デザートのジェラート風トマトゼリーをスプーンですくいながら、たまらないというような表情で二人が見つめ合った。


 食事が終わると、ウェスタがバッグからカードを差し出した。

 受け取って見てみると、Forno de` Mediciの住所と電話番号とメールアドレスが記載されていた。


「いつでも連絡してね」


 そして、もしアドバイスできることがあればどんなことでも協力するからと支援を口にしてくれた。


「本当にありがとうございました。厨房に入らせていただいた上にこんなにも美味しい料理をご馳走になって」


 そこでグッと来た。

 喉が詰まったようになって、お礼を最後まで言えなかった。

 次いつ会えるかわからない状態で別れるのは辛すぎることだった。

 しかし、いつまでも黙っているわけにはいかなかった。「本当にありがとうございました」と同じ言葉を繰り返して、深く頭を下げた。


        *


 翌日の昼前、弦はクレモナ行きの電車に乗っていた。

 膝の上には大きな紙袋があり、中にはウェスタが作ったパンが入っていた。

 チャバッタ、フォカッチャ、グリッシーニ、そして、パニーノ。

 パニーノは何種類もあった。

 アーティチョークとアンチョビを挟んだもの。

 薄切りの豚肉ソーセージを挟んだもの、

 トリッパとミニトマトと玉ねぎとイタリアンパセリを挟んだもの、

 それに、トリュフクリームとフォアグラを挟んだものやキャビアを挟んだものまであった。

 朝早くから作ってくれた特別なプレゼントだと思うと泣きそうになり、勿体なくて食べられなくなった。ありがたくて、紙袋に向かって何度も頭を下げた。

 それからしばらくの間、紙袋を見つめていたが、溢れる想いを抑えられなくなって名前を呟いた。

 何度も呟いた。

 しかしそれは、パンを作ってくれた人のものではなかった。




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