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ニューヨーク(オーパス・ワン)

 

 翌週の定休日に父親から電話があった。

 夕食に付き合えという。

 父親は月に1回、ニューヨークに来て買収先の企業の幹部と会議を重ねており、そのため弦に会わないまま日本に帰ってしまうことが多かったが、今回は時間ができたようで、会社の近くのレストランに来いというのだ。


 指定された時間に店に行くと、既に父親は席に着いて待っていた。

 弦が座ると、「元気にやってるか?」と珍しく普通に呼びかけられた。

 どう反応しようかと少し躊躇ったが、口から出てきたのは「まあ、なんとかやっているよ」というぶっきらぼうな声だった。

 父親はちょっと顔をしかめたように見えたが、それでも不機嫌な表情にはならなかったので、なんとか会話を続けようとしているようだった。


「バイトはどうだ?」


「うん。まあまあ」


「まあまあって、なんだ」


「まあまあだから、まあまあ」


 反抗的な口調に一瞬、威嚇するような視線になったが、会話にならないことに嫌気がさしたのか、口を真一文字に結んで、運ばれてきたばかりのTボーンステーキにナイフを入れた。

 日本のステーキよりはるかに分厚い肉だったが、ナイフはスムーズに肉を切っていて、最高級品質のプライムグレードだけあって、柔らかさは半端ないようだった。


「まさかパン屋でバイトをするとはな」


 うまそうに肉を頬張っていたが、口調は嫌みそのものだった。

 弦は反論することなくステーキにかぶりついたが、余りのうまさに声が出そうになった。

 表面はカリッとして香ばしいのに中は柔らかくジューシーで肉汁が溢れるのだ。

 それに、塩と胡椒だけのシンプルな味付けなので飽きることもなさそうだった。

 しかし、その余韻に浸ることを許さないかのように父親の嫌味が襲い掛かってきた。


「もっとましなバイトはなかったのか」


 カチンときたので、「パン職人だって立派な職業だよ」とムキになると、「それはそうだが」と何故か穏やかな口調になった。

 しかしそれは一瞬のことで、跡を継ぐ息子がするような仕事ではないとでも言いたげな表情で言葉を継いだ。


「お前は将来社長になるんだから、それにふさわしい経験を積まなければならない」


「じゃあ、何をすればいいんだよ」


 ふくれた声になったが、父親はまったく意に介していないかのように、「例えばコンサルティング会社とか、広告代理店とか、公認会計士事務所とか、色々あるだろ」と言って、ワイングラスに手を伸ばして、口に運んだ。

 すると、それまでの表情が一変して、ワインを堪能しているような感じになった。

 その変化が余りにも劇的だったので興味を惹かれてボトルのラベルに目をやると、ブルー単色で男の横顔が描かれていた。

 それも二人。

 左向きと右向きになって、後頭部が交差しているようだった。

 それが何を意味しているのか知りたくなった弦は、ボトルを手に取って父親に向けた。


「面白いイラストだね」


 すると父親はグラスを置いて指差し、「左を向いているのがロバート・モンダヴィ、右を向いているのがフィリップ・ド・ロートシルト男爵。この偉大なワインを造り上げた立役者だ」と蘊蓄を傾けた。


「どこのワイン?」


「アメリカだ。カリフォルニアのナパヴァレー」


「へ~、フランスじゃないんだ」


「ああ。でもまあ、ボルドーの資本と技術が入っているから米仏合作と言った方がいいかもしれないけどな」


 アルコールが回ってきたのか、(けん)のない口調になっていた。


「これはなんて読むの?」


「オーパス・ワン」


「どういう意味?」


「オーパスは音楽用語で『作曲者の偉大な作品』という意味だ。ワンは文字通り『イチ』を意味している。つまり、作品番号1番という意味が込められている」


 そこでもう一口飲むと、蘊蓄が止まらなくなった。


「これはロートシルト男爵が名づけたものだ。彼は言った。『一本のワインは交響曲、一杯のグラスはメロディのようなものだ』と。言い得て妙とはこのことだ」


 そしてまたグラスを口に運んで、噛むようにして味わうと、「絶妙なバランスだ。カベルネ・ソーヴィニヨンをメインとしながら、カベルネ・フランとメルローとマルベックとプティ・ヴェルドをブレンドすることによって複雑でありながら華やかな風味を醸し出している。クリーミーで滑らかで、しかもジューシーで、正に口の中で交響曲が奏でられているみたいだ。これを神業と言わずしてなんと言えよう」と没我(ぼつが)の境地に入っていった。


 しかし、それに付き合うつもりはなかった。


「これって高いの?」


 退屈な蘊蓄を終わらせるために俗な質問をぶつけると、父親の表情が変わって、きつく睨まれた。そんなことは訊くもんじゃないというように。

 それでも、思い直したかのように口を開いたが、その声は(さげす)みに満ちたものだった。


「そうだな、パン屋じゃ飲めないことは確かだ」


 また嫌みが戻ってきたので顔をしかめると、それが気に食わなかったのか、話を戻されてしまった。


「とにかく、将来の社長に相応しいバイトを早く探しなさい」


 弦は頷くことなく、ラベルに印刷されたOpus Oneのロゴを見続けた。

 いや、自らの立場を暗示しているブランド名から目が離せなかった。


 作品番号1番か……、


 父親が敷いたレールの上を走らされている弦の呟きが、半分以上残っているステーキの塊に落ちて消えた。



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