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ニューヨーク(その通りなんだけど……)

 

 少し歩くと、大きな池が見えた。


「タイダルベイスンだよ」


 元々ポトマック川の一部だったものを埋め立てて造ったものだという。

 池の周りに桜並木ができて、とても綺麗だったので眺めていると、耳に軽快な音が飛び込んできた。


「あっ、マーチングバンドだ。チアリーダーもいる」


 視線の先で鼓笛隊と吹奏楽団が華やかな演奏を繰り広げていた。

 それを食い入るように見ていると、さっきまでの落ち込んだ気持ちはどこかに消えていった。


「凄いな~。歩きながら演奏するのって大変なのに」


 感心しながらも、弦の視線は楽団ではなく、チアリーダーに向かっていた。

 白と濃紺で統一されたビキニスタイルの若い女性たちが金と銀のポンポンを音楽に合わせて振り動かしていて、目が離せなくなった。

 その時、一斉に大きく足が上がった。

 ヒールの先が頭より上まで上がっていて、その柔軟さとセクシーさに目を奪われ続けた。

 すると、「彼女にしたいと思う人はいるかい?」と突然アントニオが肘で突いてきた。


「みんな。えっ?」


 からかわれている事に気づかずに本音が出た弦はハッとしてバツの悪い思いに捕らわれたが、「あなた!」と奥さんが諫めたので、アントニオは気まずそうに両手を広げて、シュンとした顔になった。

 それを見てルチオが笑い出したが、話題を変えるように、「さあ、何か食べに行こう」と背中を押した。

 弦はまだチアリーダーに未練たっぷりだったが、仕方なく歩き始めた。


 日本食のブースの前は人だかりができていた。

 特にヤキソバの前は長い行列になっていて、時間がかかりそうだった。

 早く並ばなくては、と思った時、「何が食べたい?」とアントニオが奥さんに訊いた。

 すると、「タコヤキ」とすぐに返事が返ってきたので、「僕が並びます」とすぐさま列の最後尾に並んだ。


 10分ほど並んで4箱買って戻ると、ルチオが50ドル札を差し出したので、弦はいらないと手を振った。電車代をルチオに出してもらっていたからだ。

 しかし、「子供が遠慮するもんじゃないよ」とジーンズのポケットに札をねじ入れたので、仕方なく抵抗するのを止めて、お釣りを差し出した。

 でも、受け取ってくれなかった。

 困った弦はアントニオに助けを求める視線を送ったが、返ってきたのは頷きだけだった。

 貰っておけよ、というふうに。


「さあ、熱いうちに食べましょう」


 その話はおしまい、というように奥さんが芝生を指差すと、そうだそうだというように頷いたルチオが座って、皆も座るようにと手で促した。3人は円を描くように腰を下ろした。


「こんなおいしいものを考える日本人って素晴らしいわ」


 たこ焼きを頬張った奥さんが至福の表情を浮かべると、「甘辛いタレが最高だしね」とアントニオがハフハフしながら目を細め、「サクラも綺麗だし」とルチオが花を愛でた。


 本当にいい人たちだな~、


 思わず呟いたその声が聞こえたのか、奥さんが柔らかな笑みを投げかけてきた。

 その目は実の母親のように優しく穏やかで、ここが異国の地だということを忘れさせるものだった。


        *


「本気でパンに向き合ってみないか?」


「えっ?」


「センスがあるから向いていると思うんだけどね」


「私もそう思うよ。物覚えが早いし、器用だし、リズム感もいいし、美的センスもあるし」


 タコ焼きを食べ終えたアントニオがルチオに続いてすかさず畳みかけてきた。

 弦はどう反応していいかわからず口をすぼめるしかなかったが、「二人ともそれくらいにしたら。ユズルはハーバードへ行って、卒業したらお父さんの会社に入って、将来は社長になるんだから誘惑したって無駄よ」と奥さんが話を切ってくれた。

 それでルチオとアントニオは母親に叱られた子供のように首をすくめて情けない顔になったが、それでも「アンドレアは継ぐ気がないから、ユズルが継いでくれたらな~と思ってさ」と諦め切れない様子のアントニオはルチオと顔を見合わせて、ため息をついた。

 弦は何の反応も返せなかったが、それでその話は終わりになったので、ホッとして、ひらひらと桜の花が舞い降りるポトマック川の水面に再び視線を向けた。

 それでも、耳の奥にはルチオとアントニオの声が残り続けていた。


 本気なんだろうか……、


 水面(みなも)に浮かぶ花びらを見つめながら弦は、自らの行く末に思いを馳せた。 


        *


 弦がニューヨークの自宅に戻ったのは夜の10時を過ぎていた。

 電車の中ではパン職人の話は出なかったが、頭の中にはその言葉がグルグルと回っていた。

 それはルチオたちと別れたあとも同じで、部屋に戻ってからも彼らの声がエンドレスで続いていた。


 パン職人か~、

 今までそんなこと考えたこともなかったな~、


 呟くような声がギターのホールに吸い込まれていった。


 そういう道もあるということか、


 ゆらゆらと首を横に振った。


 ハーバード大学への願書提出まであと8か月ほどとなっていた。

 この1年で英語力はかなり上達しており、文法だけでなく、アルバイトを始めてから英会話力がぐんと上がっていた。

 だから、6月に受ける予定のSATとTOEFLの試験で高得点を取る可能性は高かった。

 それに、内申書、つまり、高校3年間の成績にはなんの問題もなく、提出が義務付けられているエッセイの準備も着々と進んでいる。

 だから受験に関してはなんの不安も持っていなかったが、それでも奥さんの言葉がいつまでも耳に残って離れなかった。


「ユズルはハーバードへ行って、卒業したらお父さんの会社に入って、将来は社長になるんだから誘惑したって無駄よ」


 その通りなんだけど……、


 弦の呟きが力なく床に落ちた。



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