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フィレンツェ(レシピの囁き)

 

「ジェラート買ってきたわよ」


 店仕舞いをしているウェスタに向かって紙袋を掲げたフローラがにっこりと笑った。


「どうしたの、ジェラートなんて」


「ちょっと食べたくなったから」


「ふ~ん」


 ウェスタが不思議そうな表情になったので、紙袋に印刷された店名を指差すと、「あっ、ここって」と笑みが浮かんだ。


「そう、最近、話題になってるジェラテリアよ」


「知ってる。若い女の子に大人気だって聞いたことがあるわ。でも、大丈夫? 溶けてない?」


「大丈夫。ドライアイスを入れてくれたから」


「えっ、ドライアイス? それってやばくない? カチンカチンになったらおいしくないわよ」


「うん。だから、冷蔵庫にしばらく入れて温度を上げてから食べてくださいって言われた」


「なるほど」


「じゃあ、ちょっと冷蔵庫借りるわね」


 フローラは勝手知ったるウェスタの店舗兼自宅の2階に上がり込んで、ご両親に挨拶をしたあと、ドライアイスを取り出してから紙袋を冷蔵庫に入れた。

 そして、ウェスタの部屋に入って暖房を入れ、24度に設定した。


        *


「まあ、初夏みたい」


 仕事を終えて部屋に入ってきたウェスタが目を丸くした。

 3月に入って温かくなってきたとはいえ、夜になると10度を切る外気温に比べると異常な温度設定だった。

 それでもフローラはさも当然という口調で返した。


「ジェラートを食べる時はこれくらい温かくしないとね」


「まあね」


 呆れたような表情を浮かべたウェスタだったが、温度の話はそれで終わり、「残り物だけど勘弁してね」と言いながら、手に持った紙袋からサンドウィッチを取り出した。

『サイコロステーキとチェダーチーズのサンド』と『スティルトンチーズとポートワインのサンド』だった。


 イングリッシュ・マフィンに挟まれた特別なサンドウィッチに見つめられたフローラは我慢できなくなって「いただき」と声を出したが、「ます」までは言わせてもらえなかった。

「ちょっと待って」と制したウェスタは部屋を出ていき、戻ってきた時にはスパークリングワインとグラスが乗ったトレイを持っていた。

 もちろん二人が愛飲する『メディチ・エルメーテ』で、ウェスタは音を立てないように栓を抜いて、グラスに注いだ。


「乾杯!」


「お疲れ様!」


 二人の声が弾んだ。


 一口飲んでグラスを置いたフローラは、サンドウィッチを持って、少し首を傾げた。


「これって見たことない」


「そうだった? でも、簡単なのよ。スティルトンチーズにポートワインをかけて粗くほぐしただけなの」


「へ~、そうなんだ」


 感心して口に入れると、そのおいしさに思わず頬が緩んだ。


「熟成タイプのようなコクがあるでしょ」


 フローラは思い切り首を縦に振った。

 そして、青カビタイプ特有のピリッとした刺激をポートワインの上品な甘みが包み込んで、なんとも言えない風味を感じたと告げた。

 すると今度はウェスタが頷いて、「スティルトンとポートって最高のカップルなのよ。それに、マフィンとスティルトンはイギリス同士だから肌が合うのよね」としたり(・・・)顔になった。


「そうか、イギリス同士か。なるほどね」


「それにさ、そもそもサンドウィッチ自体がイギリス発だからね。サンドウィッチ伯爵に乾杯!」


 いきなりがグラスを掲げたので、慌ててグラスを掲げて口に付けると、ウェスタの蘊蓄が始まった。


 イングランドの貴族であるサンドウィッチ伯爵はケント州サンドウィッチのモンタギュー家が1660年に授爵(じゅしゃく)したのが始まりで、その4代目がジョン・モンタギューだった。

 彼は大のトランプ好きで片時もゲームを中断したくなかったことから、片手で持って食べられる食事を考えていたところ、サンドウィッチを発明したのだという。


「よっぽどのギャンブル好きだったのね」


「食べる時間を惜しむくらいにね」


「でもだからこそ、このサンドウィッチがあるのよね」


「そういうこと」


「必要は発明の母って言うけど本当ね」


 ひとしきりサンドウィッチ伯爵を肴にしたあと、フローラがもう一つのサンドウィッチに手を伸ばした。『サイコロステーキとチェダーチーズのサンド』だった。


「チェダーとクレソンとステーキの組み合わせって初めてだわ」


 手に持って、しげしげと見つめていると、「ガブっといってみて」と促されたので、「お言葉に甘えて」とかぶりついた。

 すると、肉汁がジュワ~っと出てきて、そのあとからソースの旨味が覆いかぶさってきた。


「凄~い。おいしすぎる。でも、この味つけは何?」


「赤ワインベースにガーリックパウダーと醤油を混ぜたものよ」


「醤油?」


「そう。ちょっとオリエンタルな感じになっているでしょ」


「うん、絶妙」


「でしょ。正真正銘の日本製の醤油だから味が締まるのよね」


「本当。あ~、日本に行きたくなったな」


 フローラは1万キロ近く離れた日本に思いを馳せるように遠くに視線を投げた。


「あんなことがなかったら行けてたのにね」


「そうなの。地震と津波に加えて原発事故まで起きるなんて信じられない。それもわたしが行こうとしていた矢先に」


 フローラがゆらゆらと首を振ると、「ニュースで見た原発事故の映像はショックだったわ。ガス爆発によって原子炉を覆う建屋の天井と壁が吹き飛ぶなんて信じられないわよね。その上、燃料棒が露出するなんてあり得ないと思ったわ。廃炉には40年以上かかるそうだし」と心情を察するようにウェスタの表情が曇った。


「一生行けないのかな?」


「さあ、どうかしらね」


 二人は歯形がついたサンドウィッチに視線を落として同時にため息をついたが、それを払拭するかのように「んん」とくぐもった声を出して、ウェスタが話題を変えた。


「早く食べて、デザートにしましょう」


「そうね」


 暗くなっているだろう表情を一掃してサンドウィッチの残りを一気に食べたフローラが「食べるのに丁度いい温度になっていると思うから取ってくるわね」と務めて明るい声を出すと、「私はエスプレッソを用意するわ」とウェスタが追随した。


        *


「こっちがピスタチオとチョコレートで、こっちがマロングラッセよ。半分こでいい?」 


 フローラがと訊くと、もちろん、というふうにウェスタが頷いて、至福の時間が始まった。


「う~ん、濃厚。でも、甘すぎないから最高」


 ピスタチオを口に運んだフローラが思わず声を上げた。


「こっちも濃厚だけど滑らか。とっても美味しい」


 マロングラッセを口に運んだウェスタに笑みがこぼれた。

 そして、次にピスタチオとチョコレートを味わうと、ウェスタはそれをエスプレッソの上に乗せて、「これがまたいいのよね」と冷たく甘いジェラートと温かくビターなエスプレッソのコラボレーションを存分に堪能した。


 フローラもそれに続いた。

 マロングラッセを浮かべて口に運ぶと、至福の時間がやってきた。

 そのせいか、「あ~、生きてて良かった」とため息のような声を漏らしてしまった。

 でも、それだけでは物足りないので、『メディチ』で仕入れた情報を披露することにした。


「実はジェラートはメディチ家と深い関係があったのです」


「えっ、そうなの?」


「そうなんです。コジモ1世がある人に命じてできたのがジェラートだったのです」


 それは1500年代中頃のことだった。

 スペインの外交使節団を宮殿に迎えるにあたって、晩餐会を特別なものにすべく、豪華な料理のあとに出すデザートを今までにないようなものにできないかと考えたコジモ1世は、博学な上に美食家で名が通っていたブオンタレンティという人物にそれを託すことにした。

 すると、彼は熟考の末に〈甘くてクリーミーな氷ミックス〉を考案し、それがジェラートの始まりになったのだ。


「へ~、そうなんだ。コジモ1世が命じなかったらジェラートは生まれなかったかもしれないのね」


「そうなの。でも、それだけじゃないのよ。ジェラートをフランスに広めたのもメディチ家なの」


「もしかして」


「そう、カテリーナよ。アンリ2世と結婚した時、ブオンタレンティと助手たちをフランスへ連れて行ったの。フランスの王宮でジェラートを再現するためにね」


「ふ~ん、そんなことがあったんだ」


「で、ね、その時のレシピが残っていて保管されているんだけど、今どこにあると思う」


「えっ? どこって……、そうね~、もしかして、フランスの王宮?」


「ブー。残念でした。ルーブル美術館よ」


「ルーブル?」


「そうなの。金庫の中で厳重に保管されているんだって」


 その時、フローラの自慢気な声に反応するようにエスプレッソの上に乗ったジェラートがわずかに揺れた。

 蘊蓄はそれくらいにして早く食べないと溶けてなくなっちゃうわよ、とでも言っているような気がしたので、慌ててカップを手に取ってスプーンで口に運ぶと、「思い出してくれてありがとう」という声が聞こえたような気がした。

 それは、ルーブルの金庫で眠っているレシピの囁きかもしれなかった。




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