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ニューヨーク(圧倒されて)

 

 20分もすると席はほとんど埋まった。

 それを合図にするかのように登場したミュージシャンに拍手が送られたが、それは熱狂的なものではなかった。

 ファンが多く詰めかけているわけではなさそうだった。


「まだほとんど無名だからね」


 こんなもんだよ、というような表情でアンドレアが首を縦に振った。


 軽くチューニングをしたあと、いきなり演奏が始まった。

 弦の知っている曲だった。

 しかし、タイトルが思い浮かばなかったのでアンドレアに尋ねると、「『酒とバラの日々』。映画のテーマ曲としてヘンリー・マンシーニが作った曲だよ」とすぐに答えが返ってきた。


「あ、そうか、僕も知っているくらいだから有名な曲だよね。でも……」


「なんでこんな古い曲を()るのかって言いたいんだろ」


 弦は頷いた。


「無名のバンドがオリジナル曲を演奏しても受け入れてもらうのは難しいんだよ。だから、誰でも知っている曲を演奏しながら客の様子を探るしかないんだ」


 なるほど、と弦が頷いた時、次の曲が始まった。

 これも有名な曲だった。


「『A列車で行こう』だよね」


「そう。デューク・エリントン楽団の代表曲で、色んな人がカヴァーしている超有名なスタンダード曲だよ」


 小気味よいリズムに乗ってピアノが気持ち良さそうに歌っているので弦は自然に体を揺らせたが、それは周りの客の多くも同じようだった。

 それを見てイケルと感じたのか、ピアノによるインプロヴィゼーション(即興演奏)が始まった。

 すると、流れるような速弾きに会場が沸いた。

 明らかにレベルの高さを認めているような反応だった。

 ベースのソロも凄かった。

 ウッドベースでこれほどまでに早く弾けるのかという超絶技で会場の度肝を抜いた。

 ドラムのソロも負けていなかった。

 それまでの控え目なリズムキープとは一転して、連打とシンバルロールで沸かせた。


「凄いね~」


 弦が感嘆の声を上げると、アンドレアが嬉しそうに頷いて、得意そうな声を出した。


「ジュリアードだけのことはあるよね」


 しかし、次の曲が始まると、会場の興奮が一気に冷めた。

 誰も知らない曲のようだった。


「彼らのオリジナルだよ。ちょっとChick(チック) Corea(コリア)風だけどね」


 弦が知っているのは『Return to Forever』だけだったが、確かに少し似ていた。

 しかし、最初から最後までインプロヴィゼーションのような演奏なので、客が求めているものとは違っているようだった。

 だからか、演奏が終わった時の拍手は熱のこもったものではなかった。


「受けなかったね」


 残念というようにアンドレアが両手を広げた。

 とその時、ピアニストがこちらに向かって呼ぶような仕草をした。

 すると、アンドレアが楽器のケースを持ってステージに向かった。

 何事かと思って見つめていると、ステージに上がったアンドレアがサックスを構えた。

 そして、キーボードの音をバックにドラムが叩かれると、ベースが入ってきて、アンドレアが吹き始めた。

 その途端、会場のあちこちで声が上がった。

 有名な曲のようだった。


MAPUTO(マプート)だ」


 後ろの席から男性の声がした。


David(デイヴィッド) Sanborn(サンボーン)だったよね」


Bob(ボブ) James(ジェームス)とのコラボだよ」


 エレピのソロが始まった。

 軽やかで親しみやすいメロディが会場をほんわりと包み込み、サックスによるメインメロディが奏でられると、インプロヴィゼーションが始まった。

 徐々に盛り上げていく構成が素晴らしかった。

 サックスの速吹きに会場が沸いて何度も拍手が送られ、エレピとの掛け合いもスリルがあって、何度も歓声が上がった。

 演奏が終わると、さっきまでと同じ観客かと思うほどの拍手と歓声が沸き起こり、中には立ち上がって拍手をする人もいた。

 スタンディングオベーションだ。

 負けじと弦も立ち上がって拍手を送ると、アンドレアははにかんだような笑みを浮かべたが、満更でもなさそうな感じで手を上げた。


 その後もカルテットでの演奏が3曲続き、アンコールを1曲やって終わりを迎えた。

 ステージから消える時、アンドレアから合図が送られてきた。

 バックステージに来いという意味だと理解した弦は、席を立ってその方へ向かった。


 店の人に案内されてバックステージに入ると、ハイタッチをしているアンドレアの姿が見えた。

 満足げな表情を浮かべていた。

 メンバーを紹介されたので一人ずつ握手をして、素晴らしい演奏だったと伝えると、これから軽く飲みに行こうと誘われた。


「でも、まだお酒を飲める年齢ではないから……」


 ニューヨークでは21歳以上でないと酒は飲めなかった。

 そういう場所では写真付き身分証明書が求められるのだ。


「もちろん俺たちはノンアルコールに決まっているだろ」


 アンドレアが当然というような顔で弦の腕を取った。


        *


「最後は盛り上がって凄かったね」


 ノンアルコールビールを片手に弦が称賛の言葉を送ると、「まあね。でも、誰もが知っている曲ばかりだから受けて当然なんだけどね」とアンドレアが柄にもなく謙遜した。


 カルテットで演奏した曲は『DOUBLE VISION』というグラミー賞受賞アルバムからのもので、当時のジャズ・チャートで1年余りもナンバーワンを独走したのだとアンドレアが説明すると、すかさずピアニストが補足した。

 キーボード奏者のボブ・ジェームスとサックス奏者のデイヴィッド・サンボーンの共演アルバムというだけでなく、ベースがマーカス・ミラーで、ドラムがスティーヴ・ガッド、ギターがエリック・ゲイルという途轍もないメンバーが揃った凄いアルバムなのだという。


「ところで、ユズルはギターを弾けるんだよね。今度一緒に演ってみないか?」


 演奏を一度も聞いたことがないのに勝手なことを口にしたので、「いや、ちょっと……」と及び腰になった。

 それでも、「遠慮するなよ」となおもアンドレアが食い下がったので、「そうじゃなくて」とこの話を打ち切ろうとした。

 一流のプロを目指している彼らと一緒に演るなんてあり得なかった。

 しかし、アンドレアはその話を手放そうとしなかった。「せっかく誘っているのに」とムキになった。

 でも、ピアニストが間に入って取りなそうとしたので渋々諦めたのか、「別にいいけど」と視線を外して、ノンアルビールを一気に流し込んだ。


        *


 アンドレアたちと別れて部屋に戻った弦はギターをボーっと見つめていた。

 いつもなら寝る前に必ず1曲は弾くのだが、ギターを手にする気がまったくしなかった。

 アンドレアたちの演奏に完全に圧倒されていた。

 だから、ため息しか出なかった。

 その後もギターを手にすることなく、ただボーっと見つめ続けた。


        *


 翌朝、弦はベーカリーの厨房でアントニオの手伝いをしていた。

 睡眠不足だったが、指示に従っててきぱきと動き続けた。

 それは何かを忘れるためであり、何かを吹っ切るためでもあった。


 一段落して小休憩をしている時、弦がアントニオに声をかけた。


「あのう~」


「何?」


「え~っと~」


「なんだよ」


「その~」


「え?」


「頑張ります」


 アントニオはキョトンとしたような目で弦を見た。

 理解不能というような感じだった。

 なので、話を終わらせて、「なんでもないです」と笑って立ち上がり、うん、と頷いてエプロンをピシッと伸ばした。


「変な奴だな」


 アントニオは首を傾げながら立ち上がって弦の肩に手を置いたが、視線は強力粉や砂糖、塩、ドライイースト、水、卵が入ったボウルに向いていた。


「さあ、次はメロンパンの試作だ。よろしく頼むよ」



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