ニューヨーク(もし僕がパン職人だったら)
「David Gatesの声って素敵だな……」
透き通るような高音に甘く包まれた弦は目を瞑って歌声に耳を傾けていた。
手元にはCDのケースがあり、『Best of Bread』と記されていた。
アントニオが大好きと言っていたバンド『Bread』のベストアルバムで、全米第4位まで上り詰めた大ヒット曲『If』に魅了された弦は、リピートボタンを押して何度も聴き続けていた。彼が歌う素敵な愛の歌から離れられなくなってしまっていた。
もし僕がこのラヴソングを捧げるとしたら……、
うっとりと呟いたが、瞼の裏には誰の顔も浮かんでこなかった。
心を寄せる愛しい人は誰もいないのだ。
青春真只中なのに……、
ただ英会話学校に通うだけの毎日にカラフルな色彩が訪れることはなかった。
もちろん学校には女性の生徒はいたが、ステディな彼がいたり、既婚者だったりして、友達以上の関係に発展するような気配はまったくなかった。
ため息をついて首を振ると、さっきまでのロマンティックな気分が跡形もなく消えていった。
すぐに曲を変えると、『ザ・ギター・マン』の幻想的なイントロが流れてきた。
この曲も気に入っていた。
各地をさすらいながら歌って弾き続けるギタリストの栄光と哀愁が語られていて、その様子がまざまざと目に浮かんでくるからだ。
もし僕がギターマンだったら……、
ステージに立ってカッコよくギターを弾く自らの姿を、そして、大歓声を浴びる姿を思い浮かべると、興奮して拳を突き上げている観客の叫ぶような声が聞こえてきた。
「アンコール! アンコール!」
それがうねるようにステージに押し寄せると、会場は最高潮に達して、興奮のルツボと化した。
僕はスターだ!
叫んだ瞬間、現実に戻された。
そんなことはあるはずがなかった。
アンドレアが言っていたように一流の演奏家になるのは医師になるよりよっぽど難しいのだ。
ハ~、
大きなため息が出ると、一人で酔って一人で冷ましている自分が惨めになった。
すると何故か、ルチオの言葉が蘇ってきた。
「パンを作るのは面白いよ。教えてあげるから一度やってみないか?」
パン作りね~、
呟いたあと、口をすぼめた。
興味はないけど、でも……、
また呟いて口をすぼめた。
それでも「もし僕がパン職人だったら」と呟いてみたが、なんのイメージも沸いてこなかった。
大きな息を吐いて、もう一度首を振って、『もし』の世界を終わらせた。
*
『もし』の世界を終わらせたはずの弦だったが、何故かパン作りのことだけが頭に残った。
やろうと思えばすぐにできる唯一のことだからかもしれなかったが、とにかく頭から離れないのだ。
興味はまったくないと思っていたのに、1日に何度も頭に過るのが不思議で仕方がなかった。
そんな状態が続いたまま1週間が過ぎたが、多分これはこれからも続くと思った。
でも、それは受け入れがたいことだった。
生活に少なからず影響が出ていたからだ。
勉強をしていてもパン作りのことがふっと思い浮かぶので、集中が途切れてしまうのだ。
しかも、授業中にも同じようなことが起こるので、先生の話が頭に入らないだけでなく、当てられた時にトンチンカンなことを言ってしまうという失態を二度犯していた。
だから、はっきり断ろうと思った。
特に返事を求められているわけではないが、このままの状態を続けるわけにはいかなかった。
*
決心した翌日、授業が終わってからベーカリーに向かうと、閉店間際で客が多いせいか、ルチオが店に出ていた。
店の外からしばらく様子を見ていたが、てきぱきと接客をするだけでなく、パンが好きで好きでたまらないといった感じで愛嬌を振りまいていた。
大好きなことを仕事にしているからこそ出る笑顔だと思うと、ちょっと感動したし、羨ましくなった。
最後の客が店から出たのを確認して中に入ると、ルチオとアントニオが同時にこちらを見た。
「おっ、いらっしゃい」
アントニオが陽気な声を出したので弦はちょっと頭を下げてから、ルチオの方へ視線を向けた。
「実は」
そのあと断りの言葉を口にするつもりだったが、口籠ってしまった。
ルチオの優しそうな笑顔を見ていると、言い出すのがはばかられたからだ。
「どうした?」
実のおじいちゃんのような温かな口調だった。
「パンの」
言いかけて止めた。
というより言葉が出て行かなかった。
「どうしたんだよ」
アントニオが顔を覗き込むようにした。
その表情は優しさに満ち溢れていて、実の父親よりよっぽど愛情のこもった眼差しだと思った。
それに影響されたのかどうかわからないが、「パンの、作り方を教えてください」と思いがけない言葉が飛び出した。
自分でも驚いて、思わず右手で口を押えて止めたが、「本当かい?」とルチオが飛び上がるようにして喜んだので後戻りできなくなった。
すると「お~い」とアントニオが厨房にいる奥さんを呼んだ。
何事かというように顔を出した奥さんは説明を聞くなり、「ま~」と反応して奥に引き返し、帽子と胸当てエプロンを持って戻ってきた。
今すぐ身に着けろという。
予想もしなかった展開についていけなかったのでなんの反応もできなかったが、奥さんがさっと後ろに回って紐を結び、前に廻って帽子を被せた。
「いいじゃない」
頭からつま先まで視線を這わせた奥さんは、素敵よ、というふうに笑みを浮かべた。
「いいね。似合うね」
アントニオも笑みを浮かべて頷いた。
「やっぱりね」
ルチオは、想像した通りだというように満足げな表情を浮かべた。