ニューヨーク(ジュリアード音楽院)
アンドレアの部屋は正に音楽一色という感じだった。
楽器と譜面台とステレオとCDラックが主役を争うように存在を主張していた。
「サックスだけじゃないんだね」
弦の視線の先には、トランペットとフルートとピアノがあった。
「本当はトランペットがやりたかったってルチオさんが言ってたけど」
ソファに座った弦が何気なく言うと、アンドレアは顔をしかめた。
そんなことまで話しているのかというふうに。
弦は余計なことを口走ったことを悔やんだが、アンドレアは何も言わずにラックからCDを取り出して、セットした。
スピーカーから厳かなトランペットの音が聞こえてきた。
とても落ち着いた揺るぎない音だった。
続いてヴァイオリンの優しい響きが聞こえてくると、その揺りかごのような音色に導かれてトランペットがクライマックスを迎え、入れ替わるように控え目なギターの音色が流れ始めた。
それをバックにミュートしたトランペットの囁くような演奏が始まると、包み込むような、慈しむような男性の歌声が聞こえてきた。
イタリア語だった。
そして、オペラ風のバラードだった。
惹き込まれていると、CDとDVDがセットになったジャケットをこちらに向けた。
『ITALIA』と記されていた。
タイトルの上に『CHRIS BOTTI』と書かれてあった。
「何か関係があるの? もしかして親戚とか」
しかし、アンドレアは静かに首を横に振った。
「親戚だったらよかったんだけどね。残念ながらクリス・ボッティは赤の他人だよ」
弦はこのミュージシャンのことを知らなかったが、世界的な人気を博しているトランぺッターというだけでなく、2004 年の『ピープル誌』で『世界で最も美しい50人』に選ばれたそうで、その端正な顔から『トランペットの貴公子』とも呼ばれているのだという。正に実力とルックスを兼ね備えた選ばれたミュージシャンのようだった。
「俺がトランペットを演っても、彼には到底敵わないからね」
その上、ボッティという同じ名字で比べられるのはまっぴらごめんだと言って、苦虫を潰したような表情になった。
「だからサックスを……」
そうだというようにアンドレアが頷いた時、曲が変わった。
『VENIS』
すると彼はソプラノサックスを手に取って、トランペットと掛け合うように吹き始めた。
見事だった。
まったく引けを取っていないように思えた。
演奏が終わったと同時に拍手をすると、それが思いがけなかったのか、照れたように笑ったが、「彼のトランペットと俺のサックスで共演するのが夢なんだ」と表情を引き締め、必ず実現させてみせるというように頷いてから、サックスを置いて、ソファに座った。
すると、それを待っていたかのように次の曲が始まった。
『THE VERY THOUGHT OF YOU』
しっとりと甘いPAULA COLEの声に思わず聴き惚れてしまったが、また曲が変わって、ミュートしたトランペットが流れ出すと、それをバックにアンドレアがぽつんと呟いた。
「本当はバークリーに行きたかったんだけどね」
バークリー音楽大学はジュリアード音楽院と並ぶ若手演奏家垂涎の学びの園であり、クラシック系で名を馳せているジュリアードに対してジャズ系ではナンバーワンと言われている。
数多くの有名ジャズミュージシャンを輩出しているだけでなく、200人を超える卒業生がグラミー賞を獲得しているのだ。
「サダオ・ワタナベも卒業生だよ」
「えっ、そうなの?」
渡辺貞夫の名前を聞いてちょっと驚いたが、それよりも、バークリーを諦めたことに対する関心の方が強かった。
「行きたかったら、行けばよかったのに」
ジュリアードに入れる実力があるのならバークリーでも大丈夫なはずだが、理由は別のところにあった。
「バークリーはボストンにあるから、ここからは通えないんだ」
ニューヨークからアムトラック(長距離旅客列車)で3時間半もかかるボストンに通うことは不可能だと首を振った。
「部屋を借りて一人で生活するとなると、とんでもないお金が要るしね」
少なくとも年間1,000万円はかかるのだという。
「ちっぽけなベーカリーの息子がそんなことできるわけないからね」
アンドレアの顔が一瞬、曇ったが、それはすぐに羨むようなものに変わった。
「ユズルはいいよね。親の金で留学させてもらっているんだろ」
その通りだった。
1,000万円よりは少なかったが、それでも多額な費用を負担してもらっているのは事実だった。弦が望んだことではないにしても。
「あ~ぁ、親がウォール・ストリートの偉いさんだったらな~」
ウォール街で働く人たちの平均年収は5,000万円くらいで、経営者なら何億、何十億というのが当たり前なのだという。
それだけあれば1,000万円は軽く出してもらえるのに、と羨ましそうな口調で嘆いた。
「そんなこと言うもんじゃないよ。ご両親がこんなに立派なベーカリーを経営しているんだし、そのお陰でジュリアードに行かせてもらっているんだから」
「まあ、そうだけどね。でも、俺の友達は金持ちだらけだからさ」
バークリーに行かせてもらっている友人が何人もいるから、ついつい比べてしまうのだという。
「ところで」
弦はいつまでもアンドレアの愚痴に付き合うつもりはなかった。
「ジュリアードってどんなところ?」
すると、アンドレアは首をすくめて、顔を揺らせた。
「練習、練習、練習、練習。ただひたすら練習」
彼はまた、ゆらゆらと顔を揺らせた。
練習以外のことは考えるなと教師から言われていて、それも1日8時間ではまったく足りないと言われるのだそうだ。
「『1日練習しないと1日遅れる。2日練習しないと1週間遅れる。3日練習しないと世界から相手にされなくなる』というのが教師の口癖なんだ。その通りかもしれないけど、ロボットじゃあるまいし、そんなに練習ばかりできるわけないだろう」
抗議をするように頬を少し膨らませた。
「でも、逆らうことはできない。教師は神様みたいなものだからね。嫌われたらお終いなんだ。例え理不尽なことを言われたとしても従うしかないんだよ。彼らには学内コンクールに誰を出場させるかという絶対的な権限があるからね」
「……大変な世界なんだね」
思わず同情の口調になった弦にアンドレアは何度も頷いた。
「尋常でないことは確かだね。とびぬけた才能を持った生徒たちが世界一を目指して鎬を削っているんだから、半端な世界ではないよ」
それだけ頑張っても一流と評価されて飯が食えるようになる音楽家はごく一部でしかないのだそうだ。
「『医師になるよりよっぽど難しい』と言われているくらいなんだ」
それを聞いて、漠然とミュージシャンになりたいと思っていた弦は穴があったら入りたいという気分になって、うつむいた。
「でも、自分が選んだ道だからね。やるしかないんだよ。やるしか」
アンドレアの口調が変わったので顔を上げると、今までとは違う引き締まった表情の彼がいた。
「悪いけど、練習しなきゃいけないから帰ってくれる」
そう言うなりサックスを手に取って、音階練習を始めた。
すると、最初ゆっくりだったものがどんどん早くなっていって、「出て行け! 出て行け! 早く出て行け!」と言っているように聞こえてきた。
「お前の相手をしている暇はない」と言っているようにも聞こえてきた。
急き立てられるように部屋をあとにした弦は、ルチオとアンドレア夫妻に挨拶をして、小さくなっていくサックスの音を聞きながら階段を下りていった。