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フィレンツェ(メディチ家の興亡)

 

 3階の大きな窓の外にドゥオーモのクーポラが見える。

 その後ろにはジョットの鐘楼(しょうろう)が控えていて、快晴の中にオレンジ色の屋根が映えている。


 フローラはお気に入りのカフェにいた。

 ここは休みの日や仕事帰りに立ち寄る憩いの場なのだが、単なるカフェとは違う。

 元々は修道院として使われていた建物が図書館に生まれ変わって、更にカフェを併設しているのだ。


 7年の歳月をかけた改築によって2007年に開館したフィレンツェ市立オブラーテ図書館は先史時代博物館や地形博物館が併設され、開放的な屋上のテラスには普段図書館を使わない人たちがのんびりと本や雑誌を読んでいたりする。

『読書をしない人のための本を読む場所』というユニークなコンセプトを持つ図書館ならではの雰囲気が多くの人を惹き付けているのだ。

 それに、夜12時まで開いているので、思いついた時にふらりと立ち寄れるのが人気の秘密でもある。

 もちろん、図書館の機能としても優れており、特にフィレンツェに関する書籍は数多い。


 フローラはコーヒーカップを脇に寄せて、さっき図書館で借りた本をテーブルの上に置いた。

 すると、誇らしげなタイトルに見つめられたような気がした。

『メディチ』

 誘われるように表紙を開くと、目次が現れ、ページをめくると、トスカーナ地方の歴史が始まった。

 その瞬間、フローラの耳から周りの話し声が消え、目と脳は文字以外のものを抹殺した。


 今から約3000年前の紀元前10世紀頃、北から南下してきた部族『イタリック』が住み着いた。

 彼らは鉄器を使うほどの優れた文化を持っていたが、紀元前7世紀には忽然(こつぜん)と姿を消した。

 それに代わるように勢力を拡大したのが『エトルリア人』だった。

 彼らは土木や灌漑(かんがい)の優れた技術を持ち、トスカーナを一大農業生産地に変えた。

 その結果、ワインやオリーブオイルなどを広い地域に輸出できるようになった。

 更に、鉱山開発や精錬技術にも()けていたので、戦車などの軍備を整えると共に交易のための商船隊とそれを守る海軍を編成するなど、経済力と軍事力を併せ持つ有力な都市国家を築き上げていった。

 しかし、彼らの権勢も長くは続かなかった。

 紀元前5世紀頃にローマ帝国に制圧されたのだ。

 その後、紀元前50年頃に植民市として建設された時、ローマ人はこの地をラテン語で花を意味する『フロレンティア』と名づけた。

 それが現在のフィレンツェの起源となった。

 彼らはフィレンツェを通ってティレニア海に注ぐアルノ川を利用した交易によって財を成すと共に、3世紀半ばから広がり始めたキリスト教の司教座(しきょうざ)が置かれるようになると、経済的にも政治的にも周辺都市に対して優位に立つこととなった。

 その後、ゲルマン民族大移動によって彼らの支配下に置かれることになるが、それも長くは続かず、8世紀になると神聖ローマ帝国の領土となった。

 そして、その支配は19世紀まで続くこととなる。

 そんな中、フィレンツェはトスカーナの首都の地位を得て、1115年にコムーネ(基礎自治体=自治権を持つ共同体)を宣言した。

 更に、1175年に新市壁が完成して都市の面積が3倍になると、人口25,000人を誇るヨーロッパ有数の大都市となった。

 それによって域内の商工業活動はもとより域外との交易活動は益々盛んになり、その取引はヨーロッパ各地に及んだ。

 特に羊毛を加工した高級品は飛ぶように売れ、莫大な利益を上げるようになった。

 財を蓄えていったフィレンツェは1296年に巨大な大聖堂『サンタ・マリア・デル・フィオーレ』の建設を始め、その2年後の1298年にはヴェッキオ宮殿の建設も始まった。

 そして、1300年頃には人口は10万人近くになり、パリ、ヴェネツィア、ジェノヴァと並んで西ヨーロッパ最大の都市の一つとなった。

 しかし、栄華は長く続かなかった。

 1348年にペスト(黒死病)が襲いかかり、市民の半数近くが死亡するという悲劇に見舞われたのだ。

 その後も59年、63年、74年、83年と繰り返し襲われて社会と経済に深刻な打撃を受けたが、それでも悲劇に屈することはなかった。

 その度に立ち上がり、再建し、勢力を拡大し、一都市国家から領域国家へと飛躍的な成長を果たすこととなった。

 その激動の時期に頭角を現したのがメディチ家だった。

 一族が書き留めた私的な忘備録によると、1260年からフィレンツェ近郊のムジェッロというところで農作地や土地や森を購入し始め、1375年には180か所以上の土地を所有するに至ったという。

 そんな中で現れたのがジョバンニだった。

 彼は当時カトリック世界で禁じられていた利息を取る融資を合法的に行う方法を編み出して莫大な利益を上げただけでなく、教皇庁の資金運用まで任されることになって、その蓄財は天文学的なものになった。

 更に、その跡を継いだコジモは勢力を拡大し、のちにメディチ王朝とも言われるようになる基盤を作り上げた。

 また、彼は独裁者として君臨する半面、文化芸術への理解が深く、学芸パトロンとしての活動を本格化した結果、ルネサンス興隆の立役者の一人となった。

 支援した芸術家の一人が大彫刻家ドナテッロで、傑作ダヴィデ像は守護神としてメディチ邸の中庭に置かれた。

 経済と芸術の両面から大きな役割を果たしたコジモは『祖国の父』と呼ばれるようになるが、その孫のロレンツォも幼い頃から完璧な君主教育を受け、哲学、文学、建築、美術、音楽まであらゆる学芸に通じる多芸多才な知識人となり、『偉大なる人』という尊称を与えられるほどの名声を得るようになる。

 更に、フィレンツェの支配者として君臨しただけでなく、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなど数多くの芸術家のパトロンとして芸術振興に力を注いだため、大パトロン、文化的カリスマとして異彩を放つのである。

 隆盛を誇るメディチ家から初の教皇が生まれたのが1513年だった。

 レオ10世である。

 37才という史上最年少での選出だった。

 これによってメディチ家はフィレンツェと教皇国の両方を支配するイタリア最大の門閥(もんばつ)(由緒のある家柄)となり、ヨーロッパの王侯貴族に肩を並べる存在となった。

 そして、その力と財を先祖に倣って芸術への支援に向けた。

 特にラファエッロを寵愛(ちょうあい)し、システィーナ礼拝堂の絵画を任せるのである。

 その後、メディチ家から二人目の教皇としてクレメンス7世が選出されることになるが、フランスとの戦いが激化する中での就任ということもあって、在任中は戦争に明け暮れることになる。

 それを終わらせるために仕組んだのがフランス王家との縁組だった。

 当時14歳だったカテリーナ・デ・メディチを、のちのフランス国王アンリ2世になる皇太子に嫁がせたのだ。

 その後もメディチ家の栄華は続き、1569年にトスカーナ大公国に昇格してフェルディナンド1世の時代になると、自由と活気に溢れ、ヨーロッパ列強の一つに数えられるようになった。

 その息子であるコジモ2世は教養豊かな人物で、文化・学術への支援を惜しまず、ガリレオ・ガリレイの最初のパトロンとなる。

 それに応えたガリレオは自ら発明した望遠鏡で木星の四つの衛星を発見した時、『メディチ星』と命名してコジモ2世に献じた。

 このように長きに渡ってフィレンツェに君臨したメディチ家だったが、君主ジャン・ガストーネ・デ・メディチが1737年に亡くなって、終止符を打つことになる。

 それでも、メディチ家の正統な血を引く者が一人残っていた。

 ジャンの姉のアンナ・マリア・ルイーザだ。

 しかし、君主として認められることはなく、子供もいなかったことから、1743年に75歳で息を引き取ると、その血も途絶えることになった。

 それでも彼女は彼女にしかできない最後の大仕事を忘れることはなかった。

 素晴らしい遺言を書いたのだ。

 メディチ家が300年に渡って蓄積した膨大な財産である宮殿、別荘、絵画、彫刻、家具調度、宝石、高価な工芸品、写本などを次期大公ロートリンゲン家に委譲するにあたり、一つの明確な条件を付けたのだ。

 それは、「これらのものは国家の美飾であり、市民の財産であり、外国人の好奇心を引き付けるものであるゆえ、何一つとして譲渡したり、首都及び大公国の領地から持ち出してはならない」というものだった。

 これによってフィレンツェの歴史と不可分に結びついたメディチ家の財宝は今日までフィレンツェの町に残されることになった。


 ふ~~、


 フローラは長い息を吐いてから、首をグルグルと回した。

 飛ばし飛ばしではあったが一気に読み進めたせいか、目の奥がチカチカしていた。

 それに、肩も凝っていたので、これ以上、読み続けるのは難しかった。

 本を閉じて、「また明日ね」と呟いてからバッグに仕舞い、席を立った。



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