ニューヨーク(ブレッド)
「ところで、ジュリアードに行っているお孫さんはいらっしゃいますか」
すると、そうだった、というふうにルチオは立ち上がり、奥からアントニオを引き戻してきた。
「学校に行ってて、いないんだよ。一日中レッスン室に籠って練習しているからね」
ジュリアードの厳しさは有名で、それは弦も聞いたことがあった。
「いつも帰ってくるのは夜遅くになってからなんだよ」
父親でもなかなか会えないと嘆いた。
「そうですか……」
これ以上長居をするのはどうかと思った弦は立ち上がってトレイとカップを持ったが、ルチオは両手を下に向けて座るように促した。
「ひょこっと帰ってくることもあるから、もう少し待ってみたら」
口調は優しかったが、〈もうしばらくここに居るように〉という強い気持ちを感じたので、頷きを返して、再び腰をかけた。
するとアントニオがエスプレッソを三つ運んできて、「客が一段落したのでちょっとひと休み」と口角を上げた。
弦がカップに口を付けた時、店内に流れる音楽が変わり、幻想的なイントロに導かれて優しい歌声が聞こえてきた。
初めて聴く曲だったので耳を澄ませていると、「『The Guitar Man』だよ」とアントニオが教えてくれた。
「いい曲だろ」
何故か自慢気な口調だった。
「ブレッドは最高だよ」
ブレッド?
思わず呟いて首を傾げると、バンドの名前だとアントニオが笑ってから、言葉を継いだ。
少年時代に夢中になって聴いた大のお気に入りグループで、レコードが発売されるたびにルチオにせがんで買ってもらったらしい。
「私の宝物だね」
目を細めた瞬間、歌が終わって、間奏が始まった。
ワウワウを効かせたギターソロが素晴らしかった。
「ロック史に残るギターソロだと思うよ」
なんとも言えないというような顔をして頷いたあと、ラリー・ネクテルの演奏だと付け加えた。
「もしかして」
その先を言おうとして遮られた。
その通りだというように頷いたアントニオは、「父の跡を継ぐのが決まった時、店名がこのままでいいのか悩んだんだ。というのも、ボッティ・ベーカリーではイタリア色が強すぎると思っていたからなんだ。イタリア人や移民の子孫やイタリアのパンに関心がある人にはなんの問題もないかもしれないけど、普通のアメリカ人にはハードルがあるような気がしてね。だから、もっとポピュラーなものに変えた方がいいのではないかと考えたんだ」
そして、〈ねっ〉というように顔を向けると、ルチオは首をすくめて両手を広げた。
「父には反対されたけど、このベーカリーが末代に渡って繁栄するためには、今、名前を変えなきゃいけないと迫ったんだよ」
「それにしても、ブレッドはないだろうと思ったよ」
間髪容れず口を挟んだルチオは、当時を思い出したのか、ゆらゆらと首を横に振った。
「でも、バンドの名前と掛けていることを説明したら渋々認めてくれたけどね」
但し、軒先テントの色は変えさせてもらえなかったと苦笑いをした。
すると、「緑と白と赤はイタリア国旗の色だからね。これは私のアイデンティティなんだよ。イタリアを愛する私の心の拠り所でもあるんだ。だから、これだけは譲ることはできない」とルチオが断固とした表情になった。
「私としてはアメリカ国旗をあしらったものにしたかったのだけどね」
イタリア系移民としてではなくアメリカ国民としての存在感を打ち出したかったのだと言ったアントニオの顔がちょっと悔しそうに歪んだが、「でもね、先祖から代々受け継いだイタリアの血を否定してはいけないと思い直して、結局は父の言い分に納得したんだけどね」と表情を戻した。
ルチオはイタリア北部の『チンジャ・デ・ボッティ』というコムーネ(基礎自治体)の出身だった。
そこは1,300人ほどの小さな村で、今もルチオの親族が暮らしているという。
「父がパンの製造技術をマスターしたのもその村だし、この店があるのは父の故郷のお陰だと気づいたんだよ」
アントニオがルチオの肩に手を置くと、ルチオが嬉しそうに笑った。
「本音を言うと、店名については完全に納得したわけではないんだが、息子が世界中のパンを研究してこれだけの種類を揃えることができたから、まあ、良しとしなければね」
アントニオは休暇旅行を兼ねて年に2回、世界各地のベーカリーを訪ね歩いているのだという。
「北米やヨーロッパはもちろん、南米やアジアにも行ったよ」
各地で食べて、作り方を教えてもらって、帰国後、何度も試作を繰り返して、ここまでパンの種類を増やしたのだという。
「まだ日本には行ったことがないから行きたいと思っていたんだけど、今は大変なことになっているからね。それに」
言葉を継ごうとした途端、ルチオが右手で制した。
「その話は止めよう。弦の気持ちが暗くなる」
すると、アッというように口に手を当てたアントニオはすぐに話題をパンに戻した。
「日本にはどんなパンがあるんだい?」
弦は、あんパンやジャムパンやカレーパン、メロンパンや総菜パンなどを紹介した。
「ふ~ん、面白そうなパンだね。一度食べてみたいな」
それがとても真剣な感じだったので、弦はイーストヴィレッジにあるベーカリーのことを教えた。
「日本人のパン職人がオーナーなので、日本のパンを色々楽しめますよ」
今度行ってみる、とアントニオが言った時、若いカップルが店に入ってきた。
すると、すぐさま彼は店の主人に変身した。
「そろそろ僕も」
ジュリアードから戻りそうもないのでお暇すると告げると、「孫が家に居る時に連絡したいから、電話番号を教えてくれるかな」と言って、メモとボールペンを持ってきた。
名前とスマホの番号を書いて渡すと、「自分の家だと思って、いつでも遊びにおいで」と店のカードを差し出した。
それが孫にでも言うような優しい口調だったので、素直に頷いてから、ご馳走になった礼を言った。
そして、接客中のアントニオに目礼をして、棚に並ぶパンに微笑みかけてから店をあとにした。
外は薄暗くなって風が冷たくなっていた。
それでも、心は春のように温かかった。
ルチオの顔を思い浮かべると自然に笑みが零れて、足取りが軽くなった。
すると、別の顔が浮かんできた。
おじいちゃん……、
真冬のニューヨークの空に天国で見守ってくれている祖父の顔が浮かんでいた。