ニューヨーク(ウォール・ストリート)
11日の昼過ぎに父親はニューヨークを発ったが、弦と一度も食事をすることなく、帰る前の日に電話が一度あっただけだった。
それも「見送りに来なくていい」というそっけないものだった。
その上、「バイトを早く探せ」と言ってガチャンという感じで切られた。
その瞬間、〈取り付く島もない〉という言葉が頭に浮かんだ。
〈けんもほろろ〉という言葉も浮かんだ。
〈にべもない〉という言葉も湧き出てきた。
言われた通り、見送りにはいかなかった。
父親が日本に向けて飛び立った時刻に家を出たが、語学学校には足が向かなかった。
といってアルバイトを探す気にもならず、なんかどうでもよくなっていた。
というか、父親の意思に左右される自分が虚しくなっていた。
勝手にニューヨーク行きを決められ、
語学学校に入学させられ、
アルバイトを強要され、
2月からは仕送りを減らされる、
それってなんなんだ、という疑問が沸々と湧き出ていた。
確かにこの歳でニューヨークを体験できるのは貴重なことだし、刺激を味わっていることも確かだったが、それは自分が選んだ道ではなく、父親が敷いたレールの上を歩いているだけなのだ。
それに、これから先の道も決まっている。
帝王学を学ばされて、跡継ぎとして鍛えられ、ゆくゆくは二代目社長となって会社を経営することになるのだ。
あ~、なんて素晴らしい人生なんだろう、
弦は自嘲気味に呟いた。
世間からは羨ましい限りだと言われるに違いない。
文句を言ったら罰が当たると言われるに違いない。
その通りだった。
それは十分すぎるほどわかっていた。
わかってはいたが、納得するわけにはいかなかった。
そこに自らの意志が入っていないからだ。
操られているだけだからだ。
父親の思い通りに動く人形でしかないからだ。
やってられない!
弦の呟きがブロードウェイの喧噪に吸い込まれて、消えていった。
*
いつの間にかビジネス街に足を踏み入れていた。
誰もが知る金融の中心地『ウォール・ストリート』だった。
目の前で巨大な雄牛像が弦を睨みつけていた。
『チャージング・ブル』だ。
高さが3.4メートル、長さが4.9メートルもある。
ブルは金融用語で上昇相場を意味する縁起のいい言葉で、多くの人が撫でたせいか、像全体が艶々としている。
弦も金運が上昇するようにと頭と角を撫で、「割のいいバイトが見つかりますように」と願いを込めた。
ブルと別れてから当てもなく歩き続けたが、のんびりと歩いているのは自分の他に誰もおらず、皆急ぎ足でどこかへ向かっていた。
暇な人は一人もいないようだ。
忙しいのが当たり前なのだろう。
それを見ていると、〈タイム・イズ・マネー〉という言葉が頭に浮かんできた。
彼らは〈生き馬の目を抜く〉毎日を送っており、それを勝ち抜いた者だけが〈高嶺の花〉という特別なポジションを勝ち取ることができる世界にいるのだ。
そういう目で見てみると、彼らが身に着けているコートもビジネスバッグも靴もみな高そうに見えてきた。
それに、停まっている車は涎が出そうな高級車ばかりだ。
中には写真でしか見たことのないスポーツカーもある。
しかし、それに関心を示す人は誰もいない。
数千万円の車なんてどうってことないのだろう。
「せいぜい頑張ってください」と呟きながら、その場をあとにした。
ウォール・ストリートに背を向けた弦の足は、何故かグラウンド・ゼロに向かっていた。
何かに背中を押されるように勝手に足が動いているようだった。
しばらく歩くと、慰霊碑が見えた。
前回来た時よりもはるかに多くの人が訪れていたし、誰もが真剣に祈りを捧げていたので、アメリカ人にとって特別な日なのかもしれないと思い至った。
日本でいう月命日なのだ。
慌てて手を合わせて頭を垂れたが、本当は911メモリアルミュージアムに入って、中で手を合わせたかった、
でも、入場料の持ち合わせがなかった。
例えあったとしても26ドルを払うことはできない。
来月から仕送りを減らされるのだ。
出費は必要最低限にしなければならない。
仕方なく入口に向かって再度手を合わせて、頭を下げた。