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圧力鍋の蓋を開けて中身を覗き込むと、良い香りの湯気の中からツヤツヤのお肉や野菜が見える。軽く塩胡椒をして味を見た所で呼び鈴が鳴った。エリが来たみたいだ。
私はインターフォンに出る。小さな画面の中でエリが笑っている。顔が近いのかドアップだ。私は手を振り返して解錠した。
「エリ上がってー・・・って、あれ?」
エリが下がって少し横に動くと、画面の中にはもう1人の影が入り込んできた。同時に申し訳無さそうなえりの声が聞こえて来る。
「ごめんアスカ、ルー君付いて来ちゃった」
よく見ると、その影の正体は確かにルー君。横にズレたエリに変わって画面に大きく映り込んできて笑顔で手を振っている。
「付いて来ちゃったって・・・ええ?!」
「これ本当にアスカさんが作ったの?」
そのまま家に上がって来たルー君がポトフを食べながら聞いてきた。
「そうだよ」
私は返事をしながら、キャベツとアサリで作ったボンゴレパスタを取り分けて行く。急に1人増えたから麺増量で具が少なくなってしまった。
「凄い美味いんでびっくりっすよ」
ジャガイモを頬張りながら嬉しそうにそう言うルー君。
「ありがとう」
単純に喜んで貰えるのは嬉しい。けど、今日はエリと2人で大事な話をする筈だったのに・・・。何で付いて来ちゃったのかなー・・・。
「どうしてもアスカさんの手料理が食べてみたくて、無理言って来ちゃいました。でも来た甲斐あったなぁ、こっちも美味い」
渡したばかりの取り皿から、待ち構えたように麺多めのパスタを、スプーンも使って器用にフォークに巻き付けて口の中に運んでいく。見ていて気持ちが良い。けど、だけども・・・。
「食べたらさっさと帰ってよねー。うちら女子会する予定だったんだから」
エリがビール片手に睨み付けながらブーイング。それに私は苦笑いを浮かべた。
「冷たいですね。恋バナっすか?俺も混ぜて下さいよ」
ルー君が、今度はサラダを食べながら食い下がる。
「やだよ。帰って帰って」
エリはシッシッと追い払う仕草をする。フォークで。お行儀が悪い。
そこで、トースターが鳴った。私は焼き上がったガーリックトーストを取りに行く。その間も2人はずっと言い合いを続けていた。
「はい、どうぞ」
ガーリックトーストをお皿に乗せて戻って来ると、その芳ばしい良い匂いに誘われた2人の手が伸びて来た。同時に空気の流れに乗ってフワッと香るエリの香水。
その香りを嗅いで、私は先程つげくんと話した内容を思い出してしまう。
「後でエリが家にご飯食べに来るの。もし良かったらつげくんも来る?仲良くなれるよ」
私は、エリと2人で話したい事があるにも関わらず、持ってもらっている荷物を示しながらつげ君にそう言った。
ちょっと顔を出すくらいなら良いよね?
そう思いながら。
「あー、有り難い申し出だけど辞めとく。俺、仲良くなりたい訳じゃ無いんだ」
苦笑いをしながらやんわりと断ってくるつげくん。私が首を傾げるのを見ると、正面に向き直って「あのね」と説明してくれた。
「付き合いたいとか、そう言うのじゃ無いんだ。ただこう、見ていたい。遠くからで良いんだ。見守って、必要なら力になりたい。エリちゃんが幸せに、ずっと笑える様に」
少し遠くを見詰めながらそう言うつげくん。
「何だかそれって、芸能人を応援するみたいな感じ?」
「だから言ってるじゃん。ファンだって」
今度は私を見てそう言った。楽しそうに笑って。
私は、つげくんのその気持ちを、上手く理解する事が出来なかった。だってそれでは、エリが誰が他の人と恋をして結ばれてしまっても良いという事なのだろうか。触れたいとも、2人で過ごしたいとも思わなのか。抱き締めたり、キスをしたいとも。自分の手でエリの事を笑顔にしてあげたいとも・・・。
「じゃあさ、私、エリと結構付き合い長いから、エリの色んな事知ってるけど、それを聞きたいとも思わない?」
「あー、そうね・・・楽しい事なら知りたいかな。何かで喜んでたとか?でも踏み込んだプライベートな事は知りたく無い。本当に好きな子とは、近過ぎるとダメなんだよ、俺」
「・・・ふーん」
「ちょっと呆れた?」
「ううん、呆れたりはしないけど」
「こういう変わった奴も世の中にはいるんだよ」
空を見詰めて目を細めるつげくん。
彼のその目の先には、きっとエリの姿が映っているのだろうな、と思った。
つげくんは、こう言うのも酷いかとは思うが、きっと、いわゆる『うわべ』だけのエリを見て恋をし続けて行くのかも知れない。
決して親しくはならず、遠くから見守る恋。
確かに側に居れば、見たく無い事が見えて来てしまうこともある。つまらない事から言い合いになって喧嘩して、相手を嫌いになったり恨んでしまったり、そういうこともあるだろうけど。でも、それよりも遥かに多くの素敵な事や楽しい事があると思う。
私には理解が出来ない。つげくんは、本当に、それで良いのだろうか・・・。
ポエムトレゾアの香り。店長に憧れるエリ・・・。
エリは、店長に恋をしている。
出会った時からずっと、だ。勿論、店長に奥さんがいて、2人の間に子供がいる事も知っている。知った上での恋。
店長は優しい人だ。誰にでも、分け隔て無く優しい。私やエリ、ルー君のように、ある意味で正しい道を踏み外してしまったような人間をも受け入れて、面倒を見てくれる懐の広い人。頼りになる父のような、兄のような、本物の家族以上の人。
エリは家出娘。高2の春に家を出て、以来一度も家に帰っていない。親は、捜索依頼も何も出していないらしい。
どういう過去があるか、詳しくは語らないので知らない。けれど、エリにとって初めてまともに向き合ってくれた人が店長だと言う話を前に聞いた。
出会って、心を許して、恋に落ちた。
以来、5年にも及ぶ長い長い片想い。叶わぬ恋。
そんなエリに、想いを寄せる、つげくん。
「アスカ?どうかした?」
ルー君と「帰れ」「嫌です」と言い合い続けるエリに声を掛けられた。
「え?ううん。別に」
誤魔化すようにそう答えた。
「何か上の空って感じ」
ガーリックトーストで私を指しながらじっとりとした視線を投げて来るエリ。ちょっと酔い始めているみたいだ。
「ちょっと考え事。後で話す」
「悩み事ですか?俺で良ければ・・・」
「アンタは早く食べて帰って帰って」
ルー君の言葉を食い気味で遮ってエリが言った。
「エリさん、さっきからそればっか・・・。いいっすよ、帰りますよ。お邪魔しましたね」
見れば、ルー君のお皿は綺麗に空になっていた。カトラリーは揃えて皿の上に置かれている。
「ご馳走様でした」
しっかり両手を合わせて礼をする。
「アスカさん、本物に美味かったですよ」
ルー君は私を見てそう言ってくれた。
ルー君が食事をする所を見るのは、今日が初めてだった。食べる所をずっと見ていた訳では無いけれども、見た目のイメージとは違って、凄く食べ方が綺麗だという印象を受ける。
何と言うか、正しいマナーで、キチンとしている。その外見とのアンバランスさが、私に大きな違和感を与えてきた。




