2
朝起きると、雨君はこっちを向いて眠っていた。
モジャモジャの天然パーマに腫れぼったい一重瞼。低い鼻にちっちゃい口。控え目な顔立ちなのに、眉毛の主張が激しい。
繋がっちゃってるなー。
私は、眉間の毛を指で摘んで引っ張った。
「イテッ!」
声と共に顔が真ん中に集まるようにシワシワになる。可愛い。
その時、パチッと音がしそうな程勢い良く雨君の目が開いた。私を見てビックリする雨君は、紛れもなくいつもの雨君。
「あれ?アスカちゃん?パジャマ・・・俺スーツで寝てるし。え?何で・・・記憶飛んでる・・・」
上半身を起こして混乱する雨君。戸惑っている姿はとっても可愛いけども、大きな声が私の頭に酷く響いた。
「昨日、助けてくれたんだよ。覚えてる?私、知らない男の人に襲われてたの」
寝起きの微睡の中、重たい頭と気持ちの悪さを我慢しながら、昨夜の『中の雨』君との打ち合わせ通りに私は嘘を吐いた。
こんなの本当に信じるのだろうか。絶対に襲われているようには見えなかった自信があるのだけれど。
「えっ!そう言えば・・・アスカちゃん襲われてたんだ!だっ大丈夫だった?今一緒って事は大丈夫だったんだよね。良かった!」
大きな声でそう言って、私を抱き起こしてぎゅっとした。
ああ、全然大丈夫だった。
安堵するものの重い頭が痛い。起こされて目が回る。サーッと血の気の引く感覚と共に頭と手足の先が冷えていく。そして、込み上げる吐き気。
「雨君、気持ち悪い。吐いちゃう。どうしよう目が回るよー」
私はそう言って雨君に縋りついた。
「わっ、大変。トイレ行こう」
慌てて雨君は私をトイレまで連れて行ってくれた。そして、便器に寄りかかって止めどなく吐き続ける私の背中を摩ってくれる。
「大丈夫?珍しいね、アスカちゃんが二日酔いなんて。こんなに吐いてるの見るの初めてだよ。体調が悪かった?」
私はお酒に強い方だと思う。それなりの量を飲んでも次の日に残る事は殆ど無い。昨日は体調が悪かった記憶も無いし、アルコールは飲んだがそこ迄の量でも無かった筈。
という事は、何か盛られていたのかも知れない。雨君が来なかったら、私危なかったのかも・・・。
吐きながら私は昨夜の事を思い出していった。
昨日仕事上がりにエリと2人で飲みに行って、知らない男の人2人組にナンパされて、ちょっとカッコいいねとか言いながら一緒に飲んで、そこから段々と記憶が朧げになって行く。2-2に分かれて、私は家に送って貰い、ああなって雨君に見つかって。
そしてエリは・・・。
「エリ大丈夫かな・・・」
ひと通り吐いて落ち着くと、ペーパーで口元を拭きながら私は呟いた。
「昨日はエリちゃんと一緒だったの?気になるけど、正直エリちゃんよりアスカちゃんが心配だよ」
雨君はいつでも私に優しい。優し過ぎるくらい。
背中を優しく摩ってもらうのを感じながら、私は、心配掛け過ぎる訳にはいかないな、と思った。
しっかりと吐き尽くしたのか吐き気は殆ど無くなった。ふらつきはするものの、動けない訳では無い。
「雨君ありがとう。私はもう大丈夫だよ、吐いたら凄く楽になった」
「本当?良かった」
顔を見てお礼を言うと、雨君はそう言って優しく笑ってくれた。
落ち着いてくると現実が降りかかってくる。今日は平日。雨君は休みじゃ無いから仕事に行かなくてはならない筈だ。
「雨君仕事行かないとだよね?シャワー浴びる?多分クローゼットに予備のスーツがあったと思うから、着替えて?」
クローゼットの中を頭に思い浮かべながらそう言った。確か、冬服だけど、2セット程あった筈だ。
手足の痺れと眩暈はまだ少しあったが、私は雨君を立たせてバスルームへと押し込んだ。
時計は7:15を示している。まだ余裕がある。
「アスカちゃんは?今日休み?」
「うん。休みだからゆっくりしてる」
お風呂のドア越しに話す。私は歯を磨いて、雨君の服と自分の洗濯物を洗濯機に放り込み、洗剤と柔軟剤を入れてスタートボタンを押した。
雨君の為に新しいバスタオルを出して、着替えも一通り用意した所で私のスマホが鳴った。バイト先の店長からのLINEだった。
『アスカちゃん今日ヒマ?エリちゃんダウンしてるから代わりに出れる人募集中』
「エリ潰れてるじゃん・・・」
『アスカちゃんもダウンしてるみたいですよ?』
と、返信してみた。すぐ通話が来る。
「ハイハイ」
「アスカちゃん元気そうじゃない。エリちゃんヤバそうだから代わってあげてよ。死んでるみたい」
「えーっと、私も辛いんですけど」
「まだアスカちゃんの方がマシだよ。遅番で宜しく」
一方的に切られた。溜息が出る。エリにLINEを入れた。
『大丈夫?』
既読スルー。死んでる・・・。でもスマホを見れる状態であると言う事に私は安心した。店長とは話せたみたいだし、それなりに大丈夫かな。
仕方ない、代わりに出てあげよう。
出掛ける準備をノロノロとしていると、バスルームから雨君が出て来た。下着姿で首から下げたタオルで頭を拭いている。
「あれ?出掛けるの?大丈夫?」
「エリの代わりに仕事出る事になった」
「ええ!?」
雨君は慌てて私に駆け寄ると、顔を覗き込んできた。目線を合わせると、不安そうに揺れる目が私を見詰める。
「休みなよ、顔色悪い」
シャワー上がりの雨君からは、温かさと共に私のシャンプーの香りが漂って来た。髪の毛から落ちた雫が、私の腕に落ちて熱を奪って蒸発していく。
「平日だし何とかなるよー」
私はそう言いながら雨君の頭を拭いた。そして、毛抜きを持って来て雨君の眉間の眉毛を抜く。
ほんと私ファースト。雨君の優しさで胸がいっはになる。いっぱいになってきゅんとなって、少し苦しい。それを誤魔化す意味も込めて、雨君の身嗜みを整えてしまう。
「イテテ、痛いよアスカちゃん」
逃げようとする顔を捕まえる。
「キチンと手入れすれば素敵なんだから、もうちょっと頑張ろうよー」
嫌がりながらも観念して大人しく痛みに耐える雨君は、とっても可愛い。
ギュッと抱き締めたくなる気持ちを抑えながら、ついでにハサミで眉毛を整えた。ドライヤーで髪も乾かしてあげる。野放しの天然パーマも、ブローして整髪料で整えてあげればカッコ良く仕上がる。
「・・・アスカちゃんの香り・・・」
雨君はそう呟いて指で髪をいじり、少し赤くなった。やっぱり可愛い。
「いつも使ってるじゃない。うちのシャンプーも整髪料も」
私は、言いながらクローゼットからスーツを取り出してソファに置いた。
「そうなんだけどさ」
ぼそりと呟く雨君を横目に冷蔵庫を開ける。1番上から林檎を一つ取り出すと、もぞもぞと着替える雨君を見ながら皮を剥いていく。塩水にさっと浸けてガラスの器に乗せてフォークを刺してテーブルに置く。隣に麦茶も出した。
「遅番?」
シャツのボタンを止めてスーツのパンツを履きながら、雨君が聞いた。
「うん。遅番」
私は自分用のマグカップに注いだ麦茶を飲みながら答える。
「21時上がり?迎えに行く」
そう聞きながら座り、頂きますと手を合わせて、雨君は林檎を齧った。
「うん。ありがとう」
私はお礼を言いながら正面に座って、林檎を食べる雨君を眺めた。
雨君はいつも食べる時に慌てがちだ。だから大抵口の端から食べている物がはみ出てしまう。
「本当はお店まで送りたいんだけど。昨日襲った奴来たら危ないじゃん」
まだ心配してくれてる。私はティッシュで雨君の口元を拭きながら笑い、ありがとうと言った。
「あれだけボコボコにしたら、普通もう来ないよ」
昨夜の様子を思い出して私は言った。
「そんなに凄かったの?『中の雨』」
「うん。殺しちゃうかと思った」
「ええ・・・、凄いな・・・」
自分の事なのに引きながら「殺さなくて良かった」と小声で呟く。そんな雨君が、私は本当に可愛くて仕方が無い。
仕事に向かう雨君を、ベランダから手を振って見送りながら洗濯完了の合図を聞いた。
雨君が前を向く。顔が見えなくなっても、雨君の背中を見続けた。
私は雨君の事が嫌いでは無い。とても可愛いし、世話を焼きたい気分になる。私の事が大好きで、私を求めてくれるのも嬉しい。
けれども、雨君の事が『好きなのか』と聞かれると、私は答えられなくなってしまう。
私は今年で22歳になる。まだ『恋』をした事が無い。それがどういうものなのかが分からない。
雨君とは付き合っている。でもそれは、雨君が私の事を好きだから。雨君が告白してくれて、私と一緒に居てくれるから。私は、それが嫌では無い。でも・・・。
私は、雨君を好きではない。
雨君の背中が見えなくなると、私は洗濯物を干した。雨君が着たままベッドに入ってシワシワになったスーツを、ショップバッグに入れてクリーニングに出す準備をする。
雨君が食べた林檎のお皿と麦茶のグラスを片付ける。そして、メイクをしてテレビを付けた。
ボンヤリと見詰める画面では、他国の戦争の様子を報道している。世界に広がる感染症の状況を伝えている。詐欺があり、事故があり、事件が発生して解決されて行く。
部屋の中にポツンと1人で居ると、世の中は、私が居なくても動いていくのだな、という事を強く実感する。
私は、雨君を好きではない。でも、1人は嫌だ。
私は、きっと1人では生きられない。