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「嘘が良いな」
彼はそう言いながら足元に転がる男の腹を蹴った。呻き声が男の口から漏れる。
「嘘吐きなよ。こんな男知らないって。急に上がり込んできて襲われたってさ、そう言えば良いよ」
続けながら男の腹を踏み付ける。視線は冷たく表情は無い。暗がりの中、窓から差し込む月明かりが、彼の白い肌を浮き上がらせる。
「でも、そんな嘘、すぐにバレちゃう」
私は、掛け布団を引き寄せて、裸の胸を隠しながら彼を見る。今更隠す事も無いのだが、何となくそうした。
「大丈夫。人は信じたい事を信じる様に出来ている。司はさ、君が浮気したなんて信じたく無いんだから100%信じるよ」
彼は、そう言いながら足元の男の腕を捻る様に持ち上げて立たせて、玄関まで歩かせてドアから外廊下に放り出した。後から男の服と荷物も放り出す。
「で、俺が退治して摘み出した、と。そんなシナリオで良いんじゃない?つーかもう浮気すんなよ?」
埃を払うように手を軽く叩きながら戻って来て私の顔を見る。変わらず無表情だけど、さっきよりは雰囲気が怖くない気がする。気がするだけで気のせいかもしれないけど。
「・・・ゴメンなさい」
私は取り敢えず謝った。そして、彼の顔を伺うように上目遣いで見る。さっきのは気のせいだったのか、無表情のままの彼はやっぱり怖かった。
「いや、俺に謝ってもさ」
私の謝罪に、ため息を吐きながら困った様に頭を掻く彼。怖いけど、ちょっと可愛い。
でも・・・。
じゃあどうすれば良いのよ。そもそもこれって浮気なの?
こんな風に言われるのは納得いかない。そして私の謝罪を受け取ってもくれないという事にムカっとして私は膨れた。
「何ムクれてんだよ。金輪際浮気しなきゃそれで良いんだよ。じゃ、俺帰るぞ。鍵締めとけ」
え?帰っちゃうの?
クルッと回れ右をして出て行こうとする彼。焦って私はベッドから飛び出し、眩暈と吐気を感じ、ふらつきながら彼の背中に抱き付いて言った。
「泊まって行こう?私1人になっちゃう」
せっかく来てくれたのに、1人になるなんて嫌だ。
寂しいのは、嫌。
思いながら彼の背中に顔を擦り付けて引止める。彼の背中は広くてあったかい。大好き。
「・・・あのさ、裸で抱き付かないでくれない?」
ビクッとして立ち止まり、振り返らずにそう言う彼。明らかに動揺している。それはそうだ。裸の女に抱き付かれているんだから。
「しても良いよ?」
彼の匂いを嗅ぎながら、安心する自分を感じる。
「しないし。君、話聞いてた?浮気するなって言った所だよ?」
呆れた様子でそう言われる。でも・・・。
「だって、雨君だもん」
私は駄々を捏ねるようにそう答えた。腕に力を込めて、彼を帰すまいと必死に捕まえる。
「駄目。別な人だから。別人格だから」
振り返らないままでNOと言い続ける彼。
帰っちゃう・・・。
「・・・しないでいいから泊まって行って。パジャマ着るから一緒に寝て」
しがみ付いたまま私はお願いした。広い背中に顔を擦り付ける。油断すると涙が出て来てしまいそうだ。声が上擦ってしまう。
そんな私に、彼は特大の溜息を吐いて頭を掻き、ドアを施錠してソファにドカッと座った。
それを確認すると私は、急いでパジャマを着て彼の腕を引っ張り、ベッドに連れ込んだ。
「酒臭いよ。どんだけ飲まされたの」
狭いシングルベッドの中、近付いた途端に顔を顰めて、彼は背中を向けてしまった。それが本当に匂うからなのか、或いは他の理由があるからなのか分からない。
私は、相変わらず口が悪いなと思いつつ、彼の後頭部を見詰めながら背中にくっ付いて眠った。
雨森司、29歳。私の彼だ。
彼は、少し普通の人とは違う。
解離性同一性障害、いわゆる多重人格という物、なのだと思う。
医者嫌いな彼は病院に行かない。行かないのではっきり診断されたわけでは無い。けれども、ショッキングな事がある度に全然違う性格になり、変化している間の記憶が飛ぶのだから間違いない。
と、私は思っている。彼も思っている。
彼は今、私の浮気現場(?)を目撃してしまい、もう1人の彼になっている。合鍵でドアを開けて中に入り、薄暗闇の中、私と、見た事も無い知らない男との情事を見てしまったから。
一度変わると暫くはそのまま。大体一晩寝ると、翌朝には元に戻っている。
彼がこうなってしまったのは、中学2年の時だという話だ。当時雨君は、雨森という苗字のせいで虐めにあっていた。
雨が降ると、未だに思い出すのだと言う。
「梅雨入りするとね、雨が増えるだろう?もうボロボロだよ。ボロボロ。持ち物は全部消えるし、教室の机や椅子もどっか行っちゃうし。先生には不審がられるし。『虐められてるのか?』って聞かれて『はい』って答えてもさ、プリント配られてアンケート取られて『虐めは良く無いので辞めましょう』って指導して終わっちゃうんだよ。特定の人からの虐めならまた違ったのかもだけど、クラス全員からだったから、先生もやりようが無かったのかな」
学校を休んだりして逃げれば良かったのに、雨君は逃げなかった。
逃げたら負けだと思っていたらしい。
だからやられてやられて、やられっぱなし。
そんなある日、トイレで傷だらけの顔を見ていた時に、急に鏡の中の自分が笑ったのだと言う。
そのまま意識を失って、気付いたらクラスの面子がボロボロになって倒れていたのだそうだ。それが最初。
以来、酷い虐めに遭う度に意識を失い、虐めた側が怪我をして倒れているのを発見する、という事が続き、流石に雨君も気が付いたようだ。
自分じゃない奴が自分の体を使い、イジメっ子に仕返しをしているのではないか?と。
鏡を見た時に笑い掛けてきた自分の別人格の事を、雨君は、鏡の中からやって来た『中の雨』と呼んだ。
「『中の雨』が俺を助けてくれるんだ。もしかしたらアスカちゃんもそのうち、『中の雨』に会えるかもしれないよ?」
私は、付き合い始めたその日にその話を聞いた。最初は信じられなかったが、『中の雨』君に会う機会が割と早くに訪れたので、信じざるを得ない状況になった。
「彼女、1人?待ち合わせ?」
渋谷の街はナンパが多い。普通のナンパや風俗の勧誘や客引。女の子が1人で立っていたり歩いていたりすると、普通に声を掛けられる。2人でも声を掛けられる。
その時私は、雨君と待ち合わせをしていて、1人で待っていた。モヤイ像からちょっと離れた所。結構待っている女の子は居たのに、そのナンパの人は私に声を掛けてきた。他の子もみんな可愛かったから、たまたま私だったんだと思う。
めんどくさいなぁ。
そう思って無視してた。そのうち他の子の所に行くかな?って思って。でもその人はしつこくて、ずーっと私に声を掛け続けて、そのうちに私の腕を掴んで私を何処かへ連れて行こうとした。
腕時計を見ると、約束の時間を10分程過ぎていて、私はちょっと悲しい気分になった。
雨君、どうしちゃったんだろう?遅刻する感じの人じゃ無いのにな・・・。
「離して下さい。私約束があって」
「えー、でも来ないじゃん?俺と行こうよ」
振り解こうとしても手は離れない。抵抗していると段々と掴む力が強くなってきて、痛くなってくる。グッと引き寄せられて無理やり肩を組まれた時、背後から声を掛けられた。
雨君の声で。
「おい」
振り向く前に、男の人の腕が離れた。風通しが良くなって、気付くと男の人が倒れてた。
ビックリして固まると、そこそこ強い力で背後からウエストを引き寄せられた。肩や背中に感じる体温。振り向くと、私の顔の斜め上に雨君の顔があった。
「人の女に手出してるんじゃねーよ」
低くて太い声でそう言う雨君。普段の雨君からは想像出来ないその口調と声色に、私はビックリしてしまった。
「雨・・君・・・?」
一瞬別の人かと思った。でもその顔も声も確かに雨君で、戸惑ったけどもすぐに、ああ、こういう事か、と納得した。
「・・・んだよてめー、急に殴ってっ」
立ち上がりながらそう大きな声を出し、雨君に殴られた男の人はやり返そうと雨君に向かって手を伸ばした。
でも、雨君が男の人の足先に自分の靴を引っ掛けて転ばせた。そしてそのまま出した足で男の人を踏み付ける。
「しつこいな、どっか行けや」
そう言って男の人のお腹を蹴り上げた。ドスッという音がして男の人が呻く。
周囲がザワザワとし始めて、キャッという小さな悲鳴も聞こえて来た。スマホで電話をしたり、録画しようとしている人も見える。
それに気付いた雨君は、私を連れてその場から離れた。
「ナンパされてるのが見えたら入れ替わった。暫くしたら戻るからそれまで俺で我慢しろ」
雨君は、歩きながら命令口調で私にそう言った。
優しい雨君が、怖い雨君になってしまった。
『中の雨』君は、自分が出て来ていない時の事を全て知っていた。雨君本人は何も覚えていないのに。
そして、誰よりも(私よりも)雨君の事を愛していた。
雨君が傷つかない様に、ただその為だけに存在していた。