92話 ウサギを追うな
ユニムは、そのような他愛もない記憶を思い返しては、あれはなんだったかと、考えている。
その黒い炭酸飲料は、四王国ではテンブラーと呼ばれている。
〝震えるもの〟の異名を持つ郷土品として有名である。
なかでも、クラ焼きとの相性は最高であり、食べだしたらキリがない。
「あの、ユニム様、先程からなにをぼーっとしているんですか?」
ゼルドが、話を聞いていないことを察したのか、上目遣いでユニムを凝視している。
今しがた気づいたユニムは、ゼクロスがこちらを向く前に、急いで、拳を顎に当てては、「うーん」と言い、まるで話に対して自分の意見を述べようとしているかのように、考えているフリをした。
誰が見ても寸劇だとわかるほど、ユニムは大根役者だった。
「ち、違うのだ。ただ考えごとをしていただけなのだ」
「そうですか。なら、行きましょうよ」
ゼルドは、ゆるくなった口元から、気のない返事をする。
ユニムは、左を見たり、右を見たりしながら、自分の演技はどうだったのだろう。と、心配しているかに思われたが、自身だけは人一倍にあるのも彼女のため、隠れてガッツポーズをしている。
ゼルドは、背を向けていたが、ゼクロスがクスッと笑っている。
それこそ、どうやって、どこから、ここへやってきたのかはわからないが、ゼクロスは、アエリウス橋の、前方に立っている。
ゼルドとユニムに道を譲ろうとしているのか。橋の中央から先端まで歩いていき、橋を降りずに手で案内している。
ゼルドは、さりげなく手でお礼の仕草を作り、感謝の意をゼクロスに伝えた。
そのまま、ゼクロスを横切った。
ゼクロスは、サムズアップ、親指を立てて「大丈夫っすよ」の意を伝えた。
微笑ましい光景だった。
ユニムもニコニコしている。
ユニムも同様に、ゼクロスを横切る。
「あの、ゼルドさん。ユニムさん。お先にどうぞっす」
ゼルドは、不思議に思った。
彼は、来ないのだろうか?
「ちょっと待ってくださいよ。ゼクロスさん? 行かないんですか?」
ゼルドの視線が、ゼクロスから外れる。
彼は、おそらくだが考えごとをしている。
「俺はいいっす。今更、姉弟の親睦を深めようなんて……
考えちゃいないっすよ」
ゼクロスは、どこか照れ臭そうだった。
ゼルドが頷く。
「そんなことよりっすね、なんで、ゼルドさんが、あのケルベロスになれるんすか?」
話題が転換していく。
ゼクロスの黒い髪の下から、左の片眉が上がっているのが伺えた。
彼は、疑わしく思っているに違いない。
少し、前傾姿勢になって、ゼルドに顔を近づける。
彼は、物事の本質を捉えたいようだ。
「……わからないんです」
ゼクロスは、目を細める。
ゼルドは、かぶりを振り、詠唱が突然頭に浮かんだこと。
聞いたことない術者によって、福音されていたが、知らない声だったのにも関わらず、懐かしいと感じられたことを伝えた。
「誰なんすかね。でもっすよ。
魔人の詠唱を知っているなら、その人物も魔人の可能性が高いっすよ。
それにしても、疑問っすよね。
懐かしい……だけど、知らない声。
もしかして、そもそも詠唱の福音って、嘘なんじゃないっすか?」
一度、ゼクロスに対して視線を寄こしたが、これ以上は言っても無駄なのかと感じたのか。
ゼルドは、泳ぐ目を深呼吸をして、落ち着かせると、真顔になった。
ゼクロスは、少し微妙な空気のなか、背を向け、肩の力を抜くと、低い声で喋り始めた。
「俺、これ以上行けないっす」
ゼルドとゼクロスは、背を向け合いながら、背中で語り合っているかのようだった。
無論視線は合わせなった。
「どうしてですか?」
疑問を投げかけた。
だが、ゼルドも、わからずやではなかった。
謂わばそれは、確認。
確かめるために、その理由を聞いたのだ。
ゼクロスは思った、アルジーヌが自分がギルドを立ち上げたと聞いたらどう思うだろうか。
かれこれ、三年は会っていない。
三年前、幼かったこともあり、感謝の一つも伝えられなかった。
気づけば、姉は天王子。
今や、海内女王。
少し前までは、同じ界十戒だったというのに……
ゼルドもユニムも、そのばつ印を見て、鉄十字騎士団〈ジ・アイアン・クロス〉だとは、わからない。
そもそも、存在を知らないのだから、ただの模様だと思っていただろう。
勲章の下に剣の模様があるとしか思わないだろう。
意を決して、ゼクロスは理由を告げる。
「アル姉……黒拳のアルジーヌが、いるんすよ」
アル姉とは、フォーチュリトスの海内女王にして、黒拳のアルジーヌの事である。
彼女が身に纏うものは黒が多く、拳一つで戦うことから、黒い拳、黒拳の異名がついたとされている。
「ええ、もちろんです。ぼくもわかっていますよ。
ゼクロスさんの心境もお察しします。
ですが……
ゼクロスさん、今更なにをためらうっていうんですか?」
「確かに、姉ちゃんは俺の誇りっす。
立派な姉を持ったと思ってるすけど……
今更何しに来たってなるんじゃないかとか。
まだ、界十戒なのとか」
七光りでギルド立ち上げたの? と、言われてしまえば、合わせる顔がなかった。
「姉ちゃんは、自他共に厳しくて、自分に一番厳しんすよ。
その優しさに付け込んでいいわけないっすよね。
俺……」
ゼルドが、息を吸う音が微量ながら聞こえてくる。
「何度も聞きますし、知っていますけど、姉弟なんですよね?」
ゼルドが声を張り上げる。
彼の、眼差しは真剣そのものだった。
ゼクロスの俯いた顔面から、美しい碧眼が、こちらをぐるりと向いた。
「そうっすけど、実は……」
「なんですか?」
「俺と姉ちゃんは――血が繋がっていないんすよ」
「え?」
背中を向けていたゼルドが、思わず振り向く。
「どういうことなのだ」
ユニムも、ゼクロスに近づいていた。
「それが、わかんないんすよ」
「俺、ネロ、えっとクロノスの血を引いてる息子なんすけど……でも、それでも……」
「どういうわけか。ネカァさんとは……」
聞き捨てならなかった。
彼は、母親をネカァさんとさん付けにしてみせた。
貴族であったり、天民だとしても、母親をさんづけするだろうか?
「あの御方とは、血が繋がっていないんすよ」
――アルジーヌさんの部屋で見たあれが、ゼクロスさんが塗りつぶしたものなら納得がいく。この姉弟……なにかある
「で、どういうわけか、姉ちゃんも父上と血が繋がっていないっす」
「はい? でも、ネロ様は、確かに娘と言っていましたが……」
「よくわかんないんすよ。
四人家族として過ごした記憶もあるんすけど、思い出せない黒い記憶ってのがあるっす」
「なんですかそれ、もしかして、足ない人います?」
ゼルドは、オルダインの主を浮かべていた。
ユニムが、耳を塞ぐ準備をして、ゼクロスが答えないので、手を元に戻した。
「それは、影みたいなものか?」
ユニムもオルダインを思い浮かべていたが、ゼルドの主ではなく、案内してくれた謎の影を思い返していた。
「わかんないっすね」
「ただ、自分を思い浮かべると黒い靄がかかるっす」
――間違いない。あの絵と同じだ。ということは、アルジーヌさんが? それとも、ネロ様はなにか隠しているんだろうか?
「怖い話はやめるのだ」
「怖くはないっすけど、父上からは、記憶のウサギを追うなとは、よく言われたっすね」
――記憶のウサギ? 聞いたことがない。なんだろうか?
「夢によく出てくるんすよ。
いつも同じ夢を見るっす。
ネカァさんがまたねって言って、手を振ってるっす。
で、俺は喋れないんすよ。
アル姉ちゃんが、ママって言ってるんすけど、どう考えても若すぎるっす。
ネカァさんは、その夢の中で、口元しか見えないんすよ。
母親ってよりは、少女みたいで、今のアル姉ちゃんとは、確かに似ているっすけど、俺らは、誰が母親なのか。
誰が父親なのか。未だにわかんないんすよ。
すると、一匹のウサギがいるっす。
黒いウサギっす。目が青いんすよね。
たぶん、それっすよね。父上に話したら、絶対追うなって言われたっす。なんでなんすかね」




