86話 美青年と野獣
湖の水面に小さい何かが映っていることに、ベルは気づきました。
なんだろうと、目を凝らして、じっと見ていました。
その何かは、どんどん大きくなっていき、人間の背中であることに、ベルは気づきました。
湖から、浮かんできているのか?
それにしては、はっきりと姿が見えました、姿はどんどん大きくなっていき、バシャリと音がしたかと思えば、水しぶきが高くまで、飛びました。
ベルは、急いでその人間を助けようと、湖に飛び込みます。
口で、衣服を噛み、泳いで、陸地まで連れていきました。
「わん、わん」
仰向けになった人間に、何度も声を発しますが、何も言いません。
ベルが、首を捻って、考えあぐねていると、人間の手がベルの頭に触れました。
その朗らかな小さな手は、少女のもので、少女はは優しく、ベルの頭を撫でて、首元をわさわさしました。
ベルは、喜び「はぁはぁ」と息遣いをしました。
少女は、体を宙に浮かせ、立ち上がりました。
『ここは、どこ? あなたは? ことばわかる? おいぬさん?』
少女の目が黄色く光ると、ベルは言葉の意味がわかりました。
その言葉は、頭の中に流れ込んできました。
喋らなくても伝わってきたのです。
『僕は、ベルです。あなたは?』
『ヒマリちゃんだよ?』
ベルの脳内に、ヒマリの記憶が流れ込んできました。
十一の側面像が、その記憶の中ではヒマリを取り囲んでいました。
その記憶には、人間の思考力を高めるための、教養や、語彙が豊富に備わっていました。
考えるだけで、検索エンジンのように、言葉を調べたり、学んだりすることができました。
まるで、生きている知識のようでした。
ベルは、知りたかったこと、学びたかったことを調べ終えました。
ベルは、一寸先を見つめて、そうかぼくではない。やつがれなのだと、一人称を改めました。
『ヒマリ様、僕は、ベルであります』
ヒマリは、にっこりと微笑みました。
『ようやく会えたね。ベルちゃん。もう、大丈夫だよ』
ベルは、いままでの事が、差別を孕んでいたり、ドレイジョウは、奴隷場であったことに、気がつきました。
赤い涙を流しては、自分の姿を鏡のような水面でもう一度見ると、自分は人間ではなく、凶暴な狼にしか見えませんでした。
その姿は、まさしく野獣。
スーペリア語で、野獣は〈ベット〉です。
与えられた知識のひとつに、「velvet」という言葉がありました。
ちなみに「ベルベット」と読みます。
これは、ラテン語の「velvetum」が語源で、「毛むくじゃら」という意味があります。
ベルは、名を改めます。
『ヒマリ様、僕は、醜いベルベットです。毛むくじゃらです』
『ベルちゃんは、ベルちゃんだよ? 毛むくじゃらなんかじゃないよ?』
『どうしてですか?』
ベルは、考えますが意味がわかりませんでした。
『ベルは、鐘って意味があるの。私や、みんなに時間を知らせてくれるの』
『それにね』
『なんですか?』
『ベルベットは、確かに毛むくじゃらだけど、スーペリア語でね、ベルは、美しいって意味なんだよ?』
ベルは、心打たれました。
ベルはまだ、知識を使いこなせていませんでした。
『ヒマリ様、僕は学びたいです。ヒマリ様はもう喋らなくていいんですよ。だって、僕がいますから』
ベルは、「はぁはぁ」と息遣いをしながら、尻尾を振ります。
ベルは、ヒマリから思考電波〈テレパシーの科学的な呼称〉を受けとり、通訳になることにしました。
最初は、難しかったそうですよ。
ベルとヒマリは、いつしか、見事に連携し、ヒマリの伝えたいことを十二分に伝えられるようになりました。
ヒマリは、軈て「天王子」となり、アルキメデス魔法学校に通うことになりました。
ベルはそこで、かのマダム・ウィッチ校長と出会います。
「あら、赤狼? では、なさそうね。この子は? ヒマリさん」
『おいぬさんのベルちゃん。と、ヒマリ様が申している』
「まあ、喋るのね。ちょっと、二人? 一匹とひとり? まあ、いいわ。きなさい」
ベルとヒマリは、マダム・ウィッチの後を追います。
「ハーヴァード先生、こんばんは」
マダム・ウィッチ校長は、上品に時間をかけて、こんばんは。と、言いました。
「ごきげんよう校長。これは、これは、狼ですな。やあ、ヒマリ君。君の使い魔かね?」
『僕は、魔法を学びたいのである』
ベルは、その穢れたような、忌まわしき過去を葬りたかったのです。
ベルは、階級試験をこなし、大急ぎで、ヒマリに追いつきました。
そうです。今では、ベルは「天王子」です。
『僕の生まれた意味……ヒマリ様を守るためである』
このようにして
魔法教団クリムゾン・ベルベットは生まれました。
ギルドマスターのベルは、自分の生まれた理由を探るため、今日もアルキメデス魔法学校に足しげく通うのでした……
この話は、後に童話となり『美青年と野獣』として、語り継がれます。
スーペリア語では、『ベルベット』とも呼ばれるそうです。
ベルとヒマリ、そして、クリムゾン・ベルベットの今後のご活躍にご期待ください。
『ベルベット〜美青年と野獣〜』これにて閉幕




