67話 郁郁たる世界を
あるとき、芸術家にして氷帝と謳われるセレストは、《メーラ・ジャッロヴェルデ》を訪れていた。
その赤紫の液体は、彼の舌を唸らせる。
彼は、グラスの縁を唇に当てると、ぐいっとその液体を流し込んだ。喉仏が、脈打つ。
鼻から息を出し、空になったグラスを見つめる。グラスの底に少しだけ赤みがかった、酔うには足りない、残すにはもったいない気がしないでもない、その赤紫の液体を見つめていた。
紫……直属の弟子ではないが、パープレットが天地国王だった頃、共に盃を交わした。
彼が、四権英雄
になったとき、それはめでたいもので、心から祝った。
赤紫の液体、通称カステッロワインを飲み終えると、ほろ酔いのまま出入り口へと向かった。
その時、彼は思いもしなかった邂逅へと足を踏み入れる。
キールトレインを召喚し、弟子と共にオルダインへ帰還しようとした矢先だった。
何かが背後で蠢く。
気のせいと思いたかったが、セレストは確信した――それは、ただならぬ気配であると。
かつて東の海を旅した際、偶然辿り着いた『無境国』
そこで彼が出会ったのは、伝説の守護神・白帝の同胞であり、異世界から来たという男・我王だった。
我王は、芥川獅志丸に酷似した男であり、広大な島を旅し、四帝を従え、世界を統べる存在とならんとした。
だが、セレストの住む――セレスティアル――と『無境国』は、思わぬかたちで繋がってしまう。
実は、もともとは、この世界に無境国はなかった。幾年か前は、ノーバウダリーズという名前の国であった。
本来は、『Love knows no boundaries』――『愛は国境を知らない』という名前であったが、訳あって、『愛』が奪われてしまう。
その後、国境が無いことから、『無境国』と、ある男によって、変えられてしまう。
その起因となったのが、空から落ちてきた神物――多次元立方体。
余剰次元、(三次元よりも上の次元)の力を宿し、あらゆる世界を繋げることを可能とする、黒き六面体。
我王は、それを「インフィニティキューブ」と名付け、異界へと扉を開いた。
日本という国に渡った後、芥川獅志丸と入れ替わり、芥川が、『ノーバウンダリーズ』の二代目世界皇帝となる。
世界皇帝が入れ替わった後も、その世界では平和が築かれていた。
人々は、皆、幸福であり、自由であり、裕福であり、何かに縛られるということもなかった。
この安寧が永遠に続くと、誰もが思っていた。
ある男が現れるまでは……
我王がいなくなってからというもの、芥川が、手記を書いていた。
彼は、尿意を催したので、王室の扉を開けて、廊下に出ようとした。
すると、そこは鏡のようになっていた。
えらく不思議な鏡であり、自分の姿を映すのだが、自分よりも少し若く、髪の色から、眉の色、瞳の色に至るまで、細部が違っていた。
一番驚いたのは、鏡のように、左右反対の動きはせず、写真のように姿を留めていた。
どうもおかしいと思い、その鏡に触れてみた。
その行為が、彼を導いてしまった。
鏡の中の彼は、ニヤリと笑うと芥川から見て、相手の右側にある腕で、素早い動きで、芥川の伸ばした腕を掴んだ。
そう。彼こそが、牙王ライオネル。
彼もまた、異世界より来訪し――多次元立方体――を所有していた。
三人の世界皇帝――我王、芥川、牙王は、異なる次元に生きながら、瓜二つの顔を持っていた。
そして牙王ライオネルはその地で、三代目世界皇帝となり、無境国を掌握するに至る。
芥川は名を「龍之介」と改め、自身の記憶を物語として記す。
彼こそが後の芥川龍之介。過去より来たりし時の旅人であった。
話を現在に戻そう。
セレストが酒場を後にしたその時、出会ってしまったのだ。
黄金の髪、白と金の鎧。堂々たる姿で現れた牙王ライオネル。
その言葉に、セレストは息を呑んだ。
「話は聞いている。セレストよ、我は問いたい事がある」
問い返したいのは、むしろセレストの側だった。
「何者なのじゃ」
「我は、牙王なり。この界を統べし者」
だが、どこかが違う。
我王ならば「我は王なり」と告げたはず。
その微かな違和感が、セレストの警鐘を鳴らす。
「セレストよ、ファングはどこにいる」
その問いに、答えてはならないはずだった。
だが、まるで操り人形のように、セレストは口を開いた。
「ガオウ……案内する」
抗えぬ力が、言葉を引き出す。
猫、二人の卿、そして世界皇帝を連れ、セレストは静かに、歩みを進めた――




