65話 悪魔女王蜂メフィストフェレス
「――私を、呼んだのかい?」
そこは、ギルド《メーラ・ジャッロヴェルデ》の地下、さらにその奥深くに存在する最下層。
通称《蜂の巣窟》と呼ばれるその場所にて、黒き面布に口元を隠した女が、緑黄色の林檎に器用に噛みついていた。
その女の姿は、黒と黄をまとった毒蜂の女王のようでもあった。
噛みかけの林檎を片手に、彼女の瞳は壁に飾られた一枚の肖像画に注がれている。
それは、孤高の芸術家 《セレスト》が描いたとも噂される、ギルド創設者ヴェルデの肖像だった。
「……嗚呼、愛しき人よ。いつになれば戻ってくる? そなたと口づけを交わし、契約の印を結びたい」
赤い舌が林檎の蜜を舐めるように舌打ちしながら、女は嘲る。
「顔のない天使……? 誰のことだ? この絶世の美女を前にして、まさか浮気のつもりじゃないだろうね?」
彼女の背からは漆黒の翅が生えており、顔に配された深紅の瞳は、複眼のように煌めいていた。
その頭には、まるで毒針を象ったかのような八本の棘の冠。
――彼女は、果たして人間なのだろうか?
「女王様、ゾルが戻られました」
声の主は、ギルドメンバーの一人。女は笑みを浮かべる。
「ゾルか。あの勇ましい男が、今度は妙なものを連れてきたねえ……ほう? 青い髪の娘……」
女王の視線が、じっと一点に定まる。
彼女の爪が妖しく光る、その不気味な手にあったのは、御影石。
「……美しい。嗚呼、あの子が欲しい。欲しい欲しい、私のものにしたい」
「スズメ、この子を連れておいで。心ゆくまで――もてなしてあげて」
「かしこまりました」
“スズメ”と呼ばれた女が静かに一礼する。彼女はその名とは裏腹に、暴君として恐れられる人物である。
ギルド《メーラ・ジャッロヴェルデ》の中でも、緑黄のゾルや光明のレナと肩を並べる、熟練の使い手の一人だった。
そしてこのギルドの主――それこそが、悪魔女王蜂 (デモニック・クイーンビー)の異名を持つ、翅の生えた女、メフィストフェレスである。
〈昆獣〉について
彼女は、ただの女王ではない。
その正体は、秘密裏に存在が噂される魔人の亜種、〈昆獣〉と呼ばれる存在だ。
〈昆獣〉とは、獣と昆虫の特性を併せ持った生命体である。
種としては亜人に近いが、その本質は異なる。
特に蜂や蟻の種は群体意識を持ち、個ではなく全で動く。
外骨格を持ち、驚異的な跳躍力や耐久性を備える彼らは、もし四王国の軍事に組み込まれたなら、その戦力バランスは一瞬にして崩れるだろう。
人間が一人の子を産む間に、虫は何百という子を孕む。
そして彼らは、距離に関係なく情報を共有し、互いの意識を“感じ取る”ことができるという。
中でもメフィストフェレスの能力は特異で、身体の一部を蜂のように変異させることが可能だ。
ゾルが宙返りしながら抜剣したあの芸当も、昆獣特有の脚力と外骨格の反発力があってこそなせる業。
バネもトランポリンも使わずに空中で反転し、武器を抜くなど、人間にとっては正気の沙汰ではない。
・昆獣と複眼
メフィストフェレスの瞳――それは、複眼そのものだった。
人間の目に比べて解像度こそ低いが、360度の視野を持ち、わずかな動きにも反応できる。
ハエのように俊敏な昆虫が人間に捉えられない理由は、この視野性能にある。
現在確認されている昆獣は、蜂種のみだが……
蟻(支援型)、蠅(祈祷型)、蜻蛉(高速型)、兜虫(戦車型)など、多種多様な複眼の昆獣たちが存在する可能性がある。
ゆえに、メフィストフェレスを単に「女王蜂」と称するのは、いささか短慮にすぎるかもしれない。
ゾルが言っていたように、彼女を指すとき、人々はただこう呼ぶ。
――女王と――
その存在が、人か魔人か、もはや定かではない。




