193話 まだ、揺れている
―― Still ln Motion - 未だ形を終えず ――
音がない。
目を開けたはずなのに、まぶたの重みが残っている。光はある。だが眩しさがない。白でも黒でもない、名づける前の色が世界を満たしている。
足元に水面があった。
凪いでいる。波紋もなく、深さも分からない。ユニムはそこに立っている。沈まない。けれど、立っているという確信も薄い。
息を吸う。
冷たくない。
――冷たい、とは何だっただろう。
思考がゆっくりと形を持つ。だが、言葉になる前にほどけていく。
「……わたしは」
名を呼ぼうとして、止まる。
名前は、輪郭だ。輪郭は、他者との境界だ。
ここには、他者がいない。
ならば、わたしは、どこで区切られるのだろう。
水面を覗き込む。
顔が映っている。青い髪。見慣れたはずの瞳。
けれど影がない。
光があるのに、影がない。
影とは、世界に触れている証だ。触れたときに生まれる、わずかな拒絶だ。拒絶があるから、存在は浮かび上がる。
拒絶がない。
ならば、ここでのわたしは、何にも触れていない。
遠くに、氷の塊がある。
山のようで、塔のようで、まだ形を決めていない塊。その頂に、椅子があると分かる。王座、と呼ぶにはあまりに静かだ。ただ、そこに在る。
足を一歩、踏み出す。
水面が薄く凍る。
凍る、というより、止まる。
流れがない。揺れがない。
時間が、呼吸をやめる。
理解が遅れて訪れる。
凍らせるとは、冷やすことではない。
変化を止めることだ。
変化を止めるとは、完成させることだ。
完成とは、もう揺れないことだ。
揺れない存在は、美しい。
傷がない。迷いがない。欠けがない。
だけど――
それは、生きているのだろうか。
氷塊の奥、水面のさらに下。
巨大な影が沈んでいる。
それは、わたしに似ている。
目を閉じ、瞬きもせず、完璧な形でそこにある。
乱れない。震えない。
折れない。
未完成ではない。
完成している。
だからこそ、動かない。
胸の奥がわずかに軋む。
あれになれば、強くなれる。
あれになれば、もう届かないものはない。
だが――
あれになれば、揺れない。
揺れないということは、迷わないということだ。
迷わないということは、選ばないということだ。
選ばないということは、生きないということだ。
水面の奥から、声がする。
――「未完成でいい」
それは他人の声ではない。
かといって、自分の声とも言い切れない。
氷のように澄んで、かすかに柔らかい。
――「折れないなら、それでいい」
王座が、わずかに近づく。
あるいは、わたしが近づいたのか。
手を伸ばせば届く距離。
触れれば、すべてが定まる。
定まれば、揺れない。
揺れなければ、壊れない。
壊れなければ、失わない。
けれど。
失わないということは、得ることもないのではないか。
指先が、王座の冷たい縁に触れる。
一瞬だけ。
世界が透明になる。
わたしという境界が薄くなる。
名前が消えかける。
――ユニム。
その音だけが、遠くから落ちてくる。
わたしは、その名を握る。
強く。
痛みが走る。
痛みは、変化だ。
変化は、未完成の証だ。
指を引く。
王座は遠ざかる。
水面が再びわずかに揺れる。
影が戻る。
不完全な輪郭が、わたしを形作る。
水面下の巨大な氷塊が、静かに沈む。
まだ、浮上しない。
氷山は、すべてを見せない。
見えているのは、ほんの一部だ。
わたしは、まだ完成していない。
だから、まだ、生きている――。




