191話 まよわぬ足跡
―― Grasshopper - 飛蝗 ――
「まさか、こんなところで会うとはな」
黒刃の頭巾の奥で、ゾルは笑った。
マスタングは何も変わらない。黄色と黒の外骨格をわずかに露わにし、蜂のような獰猛さを隠しもせず立っている。だが――本気ではない。
ゾルは駆けた。
逆関節へと変じた脚が地を弾く。宙を切り、緑黄の軌跡を描く。二本の爪が空を裂き、茨めいた棘が唸る。
飛蝗。
それが自分の名であり、誇りだった。
マスタングの剛腕が振り下ろされる。受ける。蹴る。弾く。
それでも確信する。
本気ではない。
「ゾル、青髪の少女を見ていないか」
戦いの最中とは思えぬ、平坦な声。
「黄蘗顎が廃れていないか。
確かめさせてくれ」
問いは軽い。だがその背後に、確かな目的がある。
ゾルは距離を取る。
緑の林檎を放り投げた。
くるり、と空中で回転し、手のひらに戻る。
もう一度。
投げる。掴む。
何度も繰り返す。
焦れているのは、どちらだ。
「なあ、マスタング」
「なんだ」
「俺は知っている」
「そうか」
淡泊すぎる。
「娘なのか? 本当に娘なのか?」
「義理だがな」
その瞬間、ゾルはわずかに口角を上げた。
「似ていないと思ったな。どうりで」
視線が、後ろの少女へ向く。
白銀の気配。
凍てつく拳を隠し持つ、新米海内女王。
歳下だ。
自分よりも、ずっと。
だが腰には『Ⅻ』の証。
天地国王が『ⅩⅢ』。
そしてマスタングは『Ⅷ』。
数字がすべてを語る。
理屈ではない。
序列だ。
ゾルは林檎を握り潰しそうになる。
あの女が、女王?
自分より若く、まだ血の匂いも薄い者が?
だが、何も言えない。
君臨しているのは事実だからだ。
「ここ、スーペリアに来た目的があるんだろう?」
「そうだ」
「しかも後ろはセントラルの入り口だ。
何の目的だ」
「言えないな。通さないつもりか」
「まあ、そうなるだろ」
言いながらも、胸の奥がざらつく。
本当に止められるのか。
マスタングが一歩、近づく。
耳元で、低く囁いた。
その内容を聞いた瞬間、ゾルの思考が止まる。
紅。
その名が、脳裏に焼きつく。
あり得ない。
だが、あの男は嘘を言わない。
ゾルは、退いた。
脚が勝手に下がっていた。
三人が歩いていく。
背中は静かだった。
戦歴を誇示するでもなく、ただ進む。
迷いがない。
そのことが、ひどく腹立たしい。
ゾルは電気石を取り出す。
「どうしたんですか? デートですか?」
相棒、ネゼロアの軽い声。
「ちげえよ」
一拍、置く。
視線の先には、遠ざかる背。
「天使がやってくる」
「と言いますと……」
「紅の天使だ」
沈黙。
通信の向こうで、空気が張り詰める。
「……確定ですか?」
「ああ」
足跡を見る。
躊躇がない。
恐れもない。
あの女王も、あの王も、そしてマスタングも。
自分だけだ。
序列に疑問を抱き、肩書きに苛立ち、若さに嫉妬しているのは。
足跡は真っ直ぐだ。
迷いがない。
ゾルは林檎をもう一度、放る。
今度は受け止めず、握り潰した。
滴る緑が、地面に落ちる。
紅の天使。
世界が動くとき、いつも自分は境界線にいる。
主役でもなく、王でもなく、女王でもない。
ただ、目撃者だ。
だが。
飛蝗は跳ぶ。
どれだけ高くとも。
どれだけ遠くとも。
足跡は迷わない。
迷っているのは、自分だけだ。




