154話 揺蕩浮動
――Wobbling - ゆらゆら――
例えるなら、その場にいくつもの伝説が割拠しているような――そんな感覚がユニムにはあった。
目の前には、紫の炎を纏い、金の輪を頭に戴く灰色の瞳の男。
その姿を前にして、魔王シンもユニムも動くことができずにいた。
この状況はまるで、四権英雄が再び集結したかのように荘厳であり、
天地国王たちが激突を繰り広げる様を思わせた。
あるいは、海内の女王たちが幾千もの軍勢を一瞬で覆すかのような、そんな光景がユニムの脳裏に浮かんでいた。
華奢な女性が拳ひとつで無双する――そんな場面を連想させる。
黒拳のアルジーヌ、すなわち準賢者ナディアが拳を振り抜く“想像”の姿と、
天王子であり魔王でもある日下部シンが拳を天へ掲げる“現実”の姿が、今、重なろうとしていた。
もしかすると、ナディアも「破天衝」を使えるのではないか――。
そう浅はかに思ってしまうほど、彼女の褐色の拳は静かにその強さを語っていた。
だが、それも今では何ヶ月も前の話である。
この場に、もし希望のフェブの階級の者が居合わせたなら、きっと失神していたことだろう。
ユニムが《樹空海》の話を白胡椒〈ホワイトペッパー〉から聞いたのは、誕生のチーマの頃だった。
当時は行きたくてたまらなかったが、今となっては行かなくて正解だったと痛感する。
――なぜなら、誰も踏み入れられない“伝説”の領域に、今まさに足を踏み入れているのだから。
そもそも伝説とは、人々の記憶や信仰、恐れや願いが形を変えて語り継がれた“誰かの想いの断片”である。
歴史や史実とは異なり、真実かどうかは重要ではない。
そこにあるのは、「何を信じたいか」という心の記録だ。
天使や英雄、災厄や奇跡を通じて、人は世界の意味を見出そうとしてきた。
我々の世界では、神すらも伝説として語り継がれている。
ゆえに伝説とは、過去を語る物語でありながら、人間の心を映す鏡でもある。
古来より鏡は神聖なものとして扱われてきた。
なぜなら、それが“魔法”と勘違いされたからだ。
魔法とは、理解できないものを指し示す言葉であり、
偶然とは思えぬ事象を、人は“奇跡”と呼ぶ。
奇跡――そして軌跡。
それは時に人々に喜びと称賛をもたらす。
そして今、ここにまたひとつ、奇跡の軌跡が築かれようとしていた。
魔王の後継者――その意志が、鼓動の高鳴りを助長させていた。
伝説とまではいかないかもしれないが、魔王のたまごであるシン。
彼について、少しばかり触れておこう。
魔王とは、魔術を極めし者の称号である。
“魔物の王”と書く説もあるが、“魔術の王”と表記する方が実情に近い。
彼こそはまさに、魔術を極めし存在だった。
かつて“四権英雄”として名を馳せた氷の皇帝――氷帝セレスト。
彼もまた、“プラネットパズル”に関わる者の一人であり、
今では賢者のひとりとして数えられている。
そして忘れてはならない、“現存する生ける伝説”――リビングレジェンド。
その彼らが、今ここで相対しているのだ。
三明賢者の名を持つ二人が、なぜかこの《蒼海球エウレカ》の御前にて相まみえる。
片方は五つに分身し、もう片方は頭から炎を轟かせ、堂々たる風貌でユニムの前に立ちはだかる。
先程、“炎猿王ロックウ”という名がセレストの口から発せられた。
王という名を冠する以上、炎の王であり、猿の王でもあるのだろう。
皆さんは、焔狼〈イグニスウルフ〉を覚えているだろうか?
実は、赤狼〈ブラッドウルフ〉の希少種こそその一族に違いないが、
炎猿〈フレイムモンキー〉は火山地帯、あるいは蒼海球の隣に位置する紅蓮球に生息していることが、
賢者たちの手記によって明らかになっている。
火山地帯と聞いて、黒曜石山〈オブシディアンマウンテン〉を思い浮かべたかもしれない。
だが、そこにはイグニスウルフしかいない。
私が言いたいのはつまり……
“そこ”――すなわち四王国の外、
スーペリア
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アダマス
そしてユニムの故郷フォーチュリトスのさらに先に、
外海を抜けた高み、澄んだ空気の場所に“浮かぶ山々や島々”が存在するのではないかということだ。
三明賢者たちは語らず、ただユニムを見つめた。
先ほどまで分身していた、蒼海球エウレカの守護を司る五水神将――ゴジョウ。
その姿は水の魔人を思わせ、まるで龍辰〈リュウジン〉のようであった。
龍とも獣とも人ともつかぬその出立ちは、
鋭い牙、大きく弧を描く角、細やかに連なる鱗。
水で形作られた二本の髭が鼻の下から伸び、宙に揺らめいている。
腕を組み、ユニムへと静かに歩み寄る。
ユニムは構えを解かぬまま、電気石を取り出そうとしたが――
反対側から炎猿王ロックウが迫り、動く隙すら与えられなかった。
その時、賢者――いや、仙人たちは同時に同じ言葉を口にした。
ユニムは一瞬戸惑い、聞き返すことをためらい、頭の中でその言葉を反芻した。
――「勇者か?」
魔王シンもそれを聞き逃さなかった。
セレストだけは何かを思い出したように、視線を下へ落とす。
続いてロックウ――いや、ロックウェルが「異世界人とは違う」と口にする。
その視線は明らかに、魔王シンに向けられていた。
彼は気づいていたのだ。
「六度目はない。正しい選択をした」
そう、ゴジョウが静かに言う。
シンは何も言わず、ゴジョウの肩に手を伸ばしかけ――だが、記憶が蘇る。
水の体を持つゴジョウ――その身に触れれば、
物質は瞬時に吸い込まれるか、あるいは激しい水圧により吹き飛ばされる。
そのことを、シンは当然知っていた。
ゆえに、彼はゴジョウの肩に触れず、静かにエウレカへと合掌した。
ユニムはその行動の意味を考えたが、結局、理解することは叶わなかった。




