113話 異次元の傍観者
※103話 夜なき世界と不在の魔王シン のつづきです
〈クロノス/オルビス・スペクター〉
〜バルドの塔にて〜
「牙王君だったね。聞こえる? 主の声が。
聞こえる? この悲鳴が。僕には聞こえるよ。神の声が聞こえる。
神は確かに存在する。セソは説いた。
ビッグバンを起こした存在が必ず存在すると……。最初は無だった? だと?
面白いねえ。何を言うんだ。
僕にそんなものは関係ない。
何が階級だよ。何が世界皇帝だよ。
シオンの道に到達した僕の前では、無力なんだよ。
いいかい? 君たちは、なにもわかっちゃいないんだ。
どうして繁栄蜂の“蜂”は虫を除いて七画なのに、なぜ八にされているのか。
なぜ、界十戒にのみモーセが登場するのか。
はたして、彼は何者なのか。
伝承も伝説も、所詮は伝聞だ。
誰かが聞いて伝える、その繰り返しさ。……君、勇者より強いの?
世界皇帝を名乗るからには、知ってるんだろ? 儕夛を……」
「……知らぬ」
その人物の肩は上下に揺れていた。
動きを止めると、ゆっくりと見覚えのある顔が牙王を睨みつける。
面影があった。
クロノスことネロに似ていた。
もちろん、息子であるゼクロスにも……
牙王ライオネルの一連の行動がおかしいのか。
それとも、すべてがおかしいのか。
彼は正気ではなかった。
彼の瞳孔は、パズルのピースを組み合わせたようで奇妙だった。
思わず目を背けたくなるような、そんな見た目をしていた。
彼は振り向き、微笑みながら目線を一切逸らさず、牙王ライオネルと見つめ合う。
ライオネルも引けを取らず、視線を外さない。
そして、ライオネルが「インフェリオン……」と口にしたその時だった。
「……兄さん」
パズルの目を持つ男は、鬼の形相でゼクロスに向かっていく。
牙王ライオネルは止めなかった。
「今なんて言った?
僕に家族はいない。
とっくに縁を切っている。
あの黒の崇高な剣士じゃなくて、僕を師匠と呼ぶといいよ」
黒い靄の正体……彼の魔法ではないのか?
黒いウサギの正体……彼ではないのか?
ゼクロスの脳内で、悲鳴が響いた。
耳鳴りのような金切り声は、彼を一層おかしくしていく。
なぜ、ウサギを追ってはならなかったのか――
ゼクロスは気づいていた。
クロノスは何かをひた隠しにしていた。
問い詰めても、都合よく“なかったこと”にされた。
『ギルドを譲る』
『父上、本当ですか?』
『これ以上、俺の過去を調べるな。
ウサギを追うな。
ネカァについて聞くな……』
いくつもの条件を課せられ、ゼクロスは界十戒にして鉄十字騎士団〈ジ・アイアン・クロス〉の団長に成りあがった。
即ち、七光りである。
「もう充分だろ? 僕もナディアお姉ちゃんも、そのムンクの魔法をかけられた」
「君は行儀がよかったんだよ。そうに違いない」
「あの男はどうかしてるよ」
「僕が知りたいのは、時空の砂時計の在処なんだ」
牙王ライオネルの所持する《多次元立方体:インフィリオン》に並ぶ神物。
《時空の砂時計:クロノグラス》
クロノスの名は、そのクロノグラスをもじったものに過ぎない。
我々の世界で言うギリシャ神話のゼウスの父クロノスではない。
変化させる不可逆の時間の象徴であった。
「え、どういうことですか?」
ゼルドが、全く理解できず、問いかける。
「悪魔と契約したんだ」
「え、いや、だから……」
「ゼタ=アクロス・バーサル……彼は、俺の生き別れた兄っす」
「Z」の一族に違いないらしい。
「はい? 今なんて言ったんですか?」
耳を疑うゼルド。
「そうだね。ゼタ=エクロス・バーサル君」
「ということは……」
「君も同じ匂いがするよ。名前は?」
「ゼルドです」
「ということは、ゼタ=エルドか。君はどこかアーサーに似ている」
「何も申すな。それより先は……咎となろうぞ」
「わかった」
「彼に質問してもいいかな?」
牙王ライオネルは首を振ったが、お構いなしのようだった。
「青い髪の女の子を知らないかな?」
「……知りませんよ」
「残念だね。ここまでだよ」
「牙王ライオネル君、僕を連れてくといい」
「承知した」
牙王ライオネルは、一言だけ発した。
「では、来る時代で会おう」
ゼルドは一人、取り残された。
今はもう、ゼルドではなく、ゼタ=エルドかもしれない。
バルドの塔の浮島に、彼はただ佇み、太陽の光を浴びていた。
三年ほどの歳月を、待ち続けた。
その間、様々なことを考えた。
ユニムのことを訊いても、答えは返らない。
ユニムと過ごした歳月を凌ぐ、三年という年月。
彼の精神を蝕んだ。
精神崩壊こそしなかったが、気が狂ったかのように、石で文字を刻み続けた。
感じたこと。
思ったこと。
どうしたいのか。
奴隷ではなかった。
では、なぜ奴隷にされていたのか。
ゼタの一族? 天使?
ゼタが悪なのか? それとも天使か?
僕は誰なんだ?
アーサーとは誰だ?
彼に会えばいいのか?
会って、気が済むだろうか。
――ぼくは、僕じゃないか。
少年は、青年へと成長していた。
ここ三陽世界では、時間の進み方が極端に早い。
――セレスティアル――では十日でも、こちらでは三年だ。
「待ち侘びさせたか……遅うなった」
牙王ライオネルが、空から降りて、器用に着地する。
その後を追うようにして、白い舟が浮島に舞い降りる。
ゼタ=エルド(ゼルド)の瞳は涙で溢れんばかりだった。
浮島はセレスティアル語の文字で埋め尽くされていた。
それはすべて、彼が刻み続けた言葉だった。
いくつもの知識が島を覆っていた。
あのドストエフスキーは記した。
『孤独とは、誰とも語れぬ思想を持つことである』
ショーペンハウアーもこう言っている。
『賢者は、孤独の中に幸福を見出す』
ゼルドもいまや十五歳。青年だ。
しかし、彼が導き出した答えは、名前も知らない青髪の少女の現在を知ることだった。
彼女は確かに、特別な存在だったのだから。
会わなくてはならない。
もう、ぼくではない。
僕が会わなくては――
ゼルドは、牙王に告げる。
「――セレスティアル――に向かってください」
「ああ、道草する。かまわぬか?」
「それから、僕を鍛えてください」
「ほう、心うつくし」
白い舟はバルドの塔を離れ、やがて見えなくなった。