第四回 贖罪の旅へ
ついに凌桃華の裁判が開廷された。神界の裁判所は円形闘技場に似た造りをしていた。裁判所の中には丸い階段状の傍聴席があり、
そこに多くの神々と凌桃華の家族が座っていた。裁判所の左側には検察側である祖星霊官の丹星が着席しており、右側には弁護側の冠永が着席していた。
中央にある玉座のような大きな傍聴席には神界の王である帝一神君が着席している。そして裁判官側から一番手前に被告人である凌桃華が立たされていた。彼女は緊張した表情で
神界裁判へ臨むのであった。
すると裁判長が裁判開始を宣言するために法廷に姿を現した。
「これより、裁判を開廷する」
その声とともに傍聴席に座っていた者たちがどよめく。裁判長を務める晴天法王は立ち上がって開廷を宣言するのだった。
(いよいよか……なんとしても桃華の罪を軽くしてやらねば!)
冠永は決意に満ちた瞳でそう心の中で呟くと、法廷の中心に置かれた被告人席に立っている凌桃華に目をやった。彼女はやや緊張した面持ちで前を見つめていた。
(大丈夫……落ち着いてやればきっと上手くいくはずだ)
傍聴席には凌桃華の両親である凌開雲、殷緋宵夫妻と祖母の玉縁螺が座っている。彼らは固唾を吞みながら裁判の様子を見守っていた。
「それではこれより、神界法第36条に定める衆生界で狼藉を働きし
邪眼の妖狐、凌桃華の裁判を行う!被告人、前へ!!」
裁判長である晴天法王がそう言うと、法廷内に緊張が走った。そんな中、検察側に立った祖星霊官の丹星は落ち着いた様子で口を開いた。
「裁判長、本件の被告である凌桃華は衆生界にて邪眼の妖術を用いて男たちを操り、食事や金品を貢がせました。これは衆生界の秩序を乱し、神界の法に触れる重大な罪です」
すると晴天法王は頷きながら言葉を続ける。
「その通りだ。被告は衆生界の秩序を乱し、有罪に値する罪を犯した。それでは判決を下す前に被告人である凌桃華に陳述の機会を与える」
晴天法王がそう言うと、彼は被告人席で俯いている凌桃華に向かって語りかけた。
「凌桃華よ。そなたは衆生界にて邪眼の力を用いて男たちを操り、贅沢の限りを尽くしたことは承知しておるか?」
「……はい」
凌桃華は不安げな表情を浮かべた。そんな彼女に対して晴天法王は厳かな口調で告げた。
「では、そなたに罪の意識はあるか?そなたに金品を奪われた被害者たちに申し訳ないと思うか?ならば、そのことについてどのように償いたいと思うのかを述べよ」
晴天法王の言葉に法廷内の空気が一気に張り詰める。誰もが固唾を吞んで凌桃華の発言に注目していた。そして彼女はゆっくりと口を開いた。
「はい……私はこれまで多くの人たちに迷惑をかけてしまいました。被害者の皆様の気持ちを考えると、胸が痛みます……」
(桃華……)
冠永は不安げな表情になりながら凌桃華の言葉に耳を傾けていた。すると被告人席の傍聴席にいる彼女の両親も心配そうな様子で凌桃華を見つめている。
「ですが……私はこれからも悔い改め、罪に対して真摯に向き合っていきたいと思っています」
そう言って凌桃華は顔を上げてまっすぐ前を見据えると、落ち着いた口調で話をつづけた。
「これまでの私の行いは決して許されるものではありませんが、今後二度と同じ過ちを繰り返さないよう反省し続けます。どうか温情ある判決をお願い致します」
(桃華……)
娘の成長を感じた凌開雲と殷緋宵は思わず目尻に涙を浮かべていた。そんな二人の様子を傍聴席から見ている玉縁螺もまた、彼女の成長に胸を打たれていた。
「よかろう……それでは判決を言い渡す」
晴天法王がそう言うと、法廷内に緊張が走った。そして彼は厳かな声で告げるのであった。
「被告人である凌桃華は邪な心を持ちて衆生界にて狼藉を働いた罪により、懲役100年とする!」
「なっ……!?」
その判決に法廷内がどよめく。予想外の判決に傍聴席の凌開雲たちも驚きを隠せない様子だ。
「そんな……懲役100年だなんて……!」
凌桃華は判決を聞いて動揺を隠しきれない様子だった。そんな彼女に対して晴天法王が言葉を続ける。
「被告人は自らの罪を悔い改め、真摯な姿勢で罪を償うと言ったが、実際のところそなたはまだ自分の行いを悔い改めてはいないであろう?」
(そ、そんなことない!アタシは本当に後悔しているもの……!)
晴天法王の言葉に凌桃華は内心で反論するが、傍聴席にいる彼女の家族は不安げな表情を浮かべている。
「確かにそなたの邪眼の力に抗えぬ男たちがいたことは事実だ。しかしだからといってそなたがその男たちを誑かし、金品を奪った罪が消えるわけではない!」
「そ、それは……」
晴天法王の指摘に凌桃華は何も言い返せなかった。確かに自分が原因で男たちを操っていたことも事実だったからだ。
凌桃華は思わず言葉を失った。彼女はてっきり罰が軽くなるとばかり思っていたからだ。
そんな戸惑いの様子を見せる彼女に対して晴天法王は言葉を続ける。
「しかし、被告であるそなた自身がこれまでの行いを悔い改めるという意志を持っていたため、そなたのこれまでの罪を償わせるために懲役100年を求刑した。だが、それだけではそなたの罪を完全に贖うことはできぬ」
「そんな……」
晴天法王の言葉に凌桃華はますます困惑した表情を浮かべる。するとそこで凌桃華の弁護人である善地三太子・冠永が法廷内へ姿を現した。そして彼は神妙な面持ちで口を開いた。
「裁判長、発言してもよろしいでしょうか?」
「……構わん」
晴天法王はそう言うと、冠永の方に目を向けた。
「裁判長、どうか私に彼女の罪を背負わせていただくよう、お願い申し上げます」
(……!!)
その言葉に法廷内は一気に静まり返り、皆の視線が冠永に注がれた。彼は真剣な眼差しで晴天法王を見つめている。傍聴席に座る凌桃華の両親や玉縁螺は驚きを隠せない様子だ。
「その理由は?」
晴天法王がそう尋ねると、冠永は落ち着いた口調で答えた。
「はい……私は被告である凌桃華もまた、被害者であると考えているからです。彼女は幼い頃に邪道の長老である邪流尊師の幻陽、邪影魔女の幻月夫妻によって誘拐され、邪道の術や技を教え込まれたことにより邪気をその魂に吹き込まれ、その結果彼女は邪眼の妖狐として覚醒しました。
そして、これまで彼女がしてきたことは全て彼女自身の意志ではなく、彼女を支配していた邪気に突き動かされていたのだと私は考えています」
「……ふむ、では弁護人は被告である凌桃華に対してどのように贖罪をさせるつもりなのか?」
「はい。私が考えている贖罪とは……」
すると冠永は法廷にいる者たちに向かって話し始めた。
「被告にはこれから衆生界にて私と共に魔界の鬼や妖怪、悪人たちによって苦しめられている人々を救済する旅に出発してもらいます。その中で、彼女は邪眼の力ではなく自分自身の意志で人々に救いの手を差し伸べることができれば、被告は自らの行いを悔い改め、今後は二度と悪事を働かないと誓うようになるでしょう」
「なるほど……」
晴天法王はそう言うと、再び凌桃華の方に目を向けた。そして彼は威厳に満ちた声で彼女に告げる。
「被告人よ。そなたは弁護人の言葉を聞いてどう思う?もし異論がなければ執行猶予を認めようと思うが……」
凌桃華はしばらく黙り込んでいたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……わかりました。私はこれから衆生界へ行って人々を助けるために尽力することを誓います」
「よろしい。それではこの裁判はこれで閉廷する」
「お待ちください!検察側は異議申し立てを行います!!」
そう発言したのは祖星霊官の丹星であった。彼は冠永と凌桃華を睨みつけながら言葉を続ける。
「執行猶予などとふざけたことを言わないでください!被告は衆生界での自らの罪を悔い改め、二度と罪を犯さないなどという誓いを立てておりますが、その約束が守られる保証などどこにもありません!」
「しかしながら裁判の結果、彼女は自分自身の意志で人々を救うために魔界の鬼や妖怪と戦う旅に出発し、贖罪を行うと誓っている。これは紛れもなく彼女の本心であり、嘘偽りのない言葉であろう」
晴天法王がそう言うと丹星はなおも反論を続けた。
「そうはおっしゃいますが、被告人の弁護をしている善地三太子は被告を捕らえようとした私の妨害をしたばかりか、神界の秘宝の1つである神宝珠如意を用いて私に暴行を働きました。これは明らかに神界に対する裏切り行為です!」
「ふむ……だが、それについては神々の王である帝一神君がお許しになられたと聞いた。さらにそなたは被告人を捕らえようとしたのではなく、討滅しようとしていたであろう?そなたの行いは量刑を無視した神権の濫用であり、過剰な暴力の行使である。私は神界の法に則り、被告人の更生と贖罪のためにその身柄を善地三太子に預けようと思う。それが神界の王である帝一神君のご意志であり、私の判断でもある」
晴天法王がそう言うと、法廷内に再びどよめきが起こった。
「裁判長、恐れ入りました……」
丹星は諦めがついたように頭を垂れた。
「それでは閉廷!」
晴天法王がそう宣言すると、法廷内にいた者たちは一斉に立ち上がり、拍手を送った。そしてその中には玉縁螺や凌桃華の両親の顔も見える。
(桃華……)
冠永は嬉しそうな表情を浮かべながら心の中で呟いた。そして彼は晴れやかな気持ちで法廷から出て行くのであった。
それから数日後、衆生界へと旅立つことになった凌桃華は囚人服から旅装束へ着替えて準備を済ませると迎えに来ていた冠永に声をかけた。
「お待たせしてごめんなさい」
「いや、大丈夫だよ」
冠永は笑顔で答えながら彼女に手を差し伸べた。凌桃華はその手を取ると、神界の宮殿から衆生界へと繋がる門がある場所へと向かうのであった。
やがて2人が辿り着くとそこには晴天法王が待っていた。彼は凌桃華に向かって語りかける。
「それではこれよりそなたらに試練を与える」
そう言うと晴天法王は持っていた杖を地面に突いた。するとその瞬間、眩い光が2人を包み込んだ。
「きゃっ!?」
凌桃華は思わず悲鳴を上げた。だが、やがて光は収まると衆生界への門が開かれた。
「そなたたちには今後、神記官より依頼を受けながら衆生界の者たちを魔界の鬼や妖怪たちから守る仕事に従事してもらうこととなる。それはそなたが犯した罪の償いでもあるのだ」
「はい、わかりました!」
晴天法王の言葉に凌桃華は元気よく答えた。そんな彼女の様子を見て冠永も嬉しそうに微笑む。
「凌桃華よ。旅立つ前にそなたの家族に挨拶をしていくがいい。そなたは10年前に邪道の者たちに連れ去られて以来、家族と共に過ごすことができなかったであろう?これから自分の犯した罪を悔い改めるために、頑張るのだぞ」
「晴天法王様、ありがとうございます!必ず罪を償います!!」
晴天法王がそう言うと凌桃華は嬉しそうな表情を浮かべた。そして彼女は冠永と共に衆生界への門へと入っていった。
「桃華、気を付けて行ってこい」
優しく声をかける晴天法王に凌桃華は微笑みながら手を振った。すると晴天法王も嬉しそうな表情を浮かべると手を振り返すのであった。
激しい光の噴流の中を飛び越えて行くと、凌桃華と冠永は凌桃華の家の前に立っていた。家の前では彼女の両親である凌開雲、殷緋宵夫妻と祖母の玉縁螺が待っていた。
「桃華、よく帰って来たな。ずっと会いたかったぞ」
凌開雲は娘に力強く声をかけた。
「あなたが連れ去れてから10年間、どんなに心配したことか……でも、もうそんな心配をする必要も無いわね。旅に出発する前にゆっくり疲れを癒していくのよ」
殷緋宵も微笑みながら凌桃華を抱きしめる。
「ありがとう。父様、母様!」
凌桃華は嬉しそうに笑った。そんな彼女の両親もまた10年ぶりの再会に喜んでいるようだった。しかしそんな中、祖母の玉縁螺だけは涙を必死に堪えていた。
「桃華、本当に無事でよかった。お前を連れ去った邪道の者どもは私が直々にぶちのめしてやりたいが、今はそんなことはどうでもいい。お、お帰り……桃華……う、ううっ、うわあぁぁぁぁぁぁん!」
玉縁螺はついに堪えきれなくなり号泣してしまう。そんな祖母の姿を見て凌桃華も涙を流した。
「ごめんね、ババ様……心配かけて本当にごめんなさい……!」
凌桃華はそう言いながら祖母を抱きしめた。すると玉縁螺も泣きながら大人の女性として成長した孫の体を強く抱きしめる。その様子を見守っていた冠永もまた静かに涙を流すのであった。
こうして10年ぶりに帰宅を果たした凌桃華は冠永と共に生家で一週間滞在することとなった。10年間離れていた我が家である。冠永を交えて家族と共に食事をしたり、布団を並べて寝たり、祖母と一緒に風呂に入ったりして楽しい時間を過ごしていた。
だがその間も凌桃華は忘れることなく罪の意識を感じ続けていた。そして彼女は自分の罪を償うために、悪しき鬼や妖怪を退治する旅に出ることを決めたのだった。
「桃華、入ってもいいかな?」
凌桃華が自室で旅の準備を整えていると、冠永が扉を叩いた。
「冠永さん?どうぞ」
凌桃華がそう言うと、冠永は扉を開けて入ってきた。そして彼女は笑顔で彼に語りかける。
「どうしたの?」
「いや、少し君と話がしたくなって」
冠永は照れ臭そうに答えた。そんな彼の様子を見て、凌桃華は思わずクスっと笑ってしまう。するとそれを見た冠永は慌てて弁明をした。
「ご、ごめんよ。君を見てたらつい……」
そんな冠永を見ながら凌桃華はさらに笑った。そして彼女は再び真剣な表情に戻ると彼に向かって話し始めた。
「冠永さん、私はこれから冠永さんの旅のお供をします。そして鬼や妖怪から人々を救うために戦いたいの」
「そうか……」
凌桃華の言葉を聞いて冠永は力強く頷いた。
「もし苦しい思いをしたらいつでも私に相談してほしい。私が必ず君を助けるから」
それを聞いて凌桃華は少し顔を赤らめた。
そして小さな声で「ありがとう」と言うと、冠永と目を合わせてニッコリ微笑んだ。
冠永もまた照れくさそうに微笑む。
「それから、桃華。君はこれから魔界の鬼や妖怪と戦うことになるが、くれぐれも無理はしないでくれ。君の身に何かあったら私は辛いからね」
「はい、わかりました!」
凌桃華が笑顔で答えると冠永も笑顔になった。そして2人はしばらく笑い合った後、それぞれの部屋に戻るのであった。
(頑張ろう……アタシ)
凌桃華は心の中でそう思うと旅立ちに向けての準備を再開した。
この10年間、様々なことがあった。しかし凌桃華はそれでも自分の罪を忘れないように、そしてこれから歩む道が険しいものになるであろうという覚悟を持って旅立つ決意をするのであった。
(アタシが今やるべきこと……それは魔界の鬼や妖怪を退治して人々を救うこと。それが私に与えられた贖罪なんだ)
そう心の中で呟くと彼女は静かに目を閉じて、明日に備えて眠りにつくのであった。
翌日、晴天法王と神界の神々によって正式に凌桃華が衆生界へと旅立つことが告げられた。
「皆さん、これから私は魔界の鬼や妖怪と戦う旅に出発します」
凌桃華は堂々と宣言すると、その場にいた神界の神々に向かって深く頭を下げた。そして再び顔を上げるとこう続けた。
「私は多くの人々のために、そして罪を犯した私自身の贖罪のためにも必ず使命を達成してみせます!」
「うむ、その意気だ」
晴天法王はそう言うと満足そうに微笑んだ。すると隣に立っていた神記官の秀鈴が両手に瓢箪を2つ持って冠永と凌桃華に手渡した。
「帝一神君から御二人に贈り物です。その瓢箪には鬼や妖怪と戦うための武器が入っています、栓を抜いてみてください」
彼女に言われるまま、冠永と凌桃華は瓢箪の栓を抜いた。すると瓢箪の口が光り輝き、光が噴き出すと共にその光は剣へと姿を変えた。
「おお……」
冠永と凌桃華は驚愕した。2人の前に光り輝く剣が宙に浮いているのだ。それはまさに奇跡的な出来事であった。その光景に神界の神々や神官たち、そして凌桃華の家族も驚きを隠せなかった。彼らは皆、感嘆の声と共に拍手をし始め、歓声が湧き上がったのである。
凌桃華はその荘厳な雰囲気に圧倒されながらも目の前に浮かぶ二振りの剣に手を伸ばして掴み取った。同時に冠永も目の前に浮かぶ一振りの剣を握る。
「善地三太子殿下には仁霊剣を、凌桃華殿には破邪斬魔双剣を授けるとの仰せです。どうかご武運を」
秀鈴がそう言うと、晴天法王が一歩前に出る。そして彼は高らかに叫んだ。
「善地三太子よ、凌桃華よ!そなたたちはこれから魔界の鬼や妖怪と戦わねばならぬ運命にある!だが恐れることはない、そなたたちなら必ずや使命を果たすことができるであろう!」
「はい!!」
冠永と凌桃華は力強く答えた。2人は授かった剣を握り締めると、再び瓢箪の中へ収納して晴天法王に跪いた。それを見た晴天法王は頷くと手にした箱から巻物を取り出して冠永に手渡した。
「その巻物はそなたたちが向かうべき場所を書き綴り、示してくれる。そしてそなたたちが行くべき場所は……」
晴天法王がそう言うと、冠永の持つ巻物が光り輝き、白紙であった巻物に地図が描かれていく。そして地図が描き終わると晴天法王は厳かにこう言った。
「そなたたちの行くべき場所は……夜交羅刹市。その市場で潜入調査をしてもらいたい」
「夜交羅刹市?」
凌桃華が不思議そうに尋ねた。
「その場所はこの衆生界でも特に異彩を放つ市場であり、人間だけではなく鬼や妖怪も商いを行っておる。多くの人や魔物が集まる場所でもあるのだ。夜交羅刹市では代金を支払えば手に入らない物は無いと言われているが、あの市場は違法な取引や悪事を働く者どもの巣窟であり、危険極まりない場所でもある。最近そこで麻薬や人肉の売買まで行われているという情報が入ってな」
晴天法王の言葉を聞いて、凌桃華は驚きの表情を浮かべた。
「人肉って……まさか……」
「そう、そのまさかだ。故に夜交羅刹市では鬼や妖怪も堂々と商売をしておるし、違法な取引も横行しているというわけだ」
「そんな場所で私たちが調査をするのですか?」
不安げな表情を浮かべる凌桃華に向かって晴天法王は優しい笑みを浮かべて頷いた。
「その通りだ。しかし安心してほしい、そなたたちの実力なら必ずや使命を果たすことができるだろう。それに私や秀鈴もお目付け役として同行することになっているからな」
晴天法王の言葉を聞いて凌桃華は安堵した表情を浮かべたが、一方で冠永の表情は晴れなかった。
「法王様、私はどうも不安でなりません。いくら仁霊剣や破邪斬魔双剣があるとはいえ、最初の任務でいきなりそのような場所に桃華を連れて行くのは危険すぎます」
「確かにそなたの意見はもっともだ。しかし衆生界における悪しき妖怪や鬼の存在は放置できぬ問題でもある」
晴天法王はそう言うと、冠永に向かってこう続けた。
「夜交羅刹市は衆生界でも有数の危険な場所である。しかしそれでもそなたたちの活躍無くしては解決し得ないのも事実なのだ。どうかよろしく頼む」
晴天法王の真剣な表情に冠永は反論できなかった。彼は仕方なく頷くと凌桃華の方を向いた。
「桃華、君には危険な任務を課してしまうが、引き受けてくれるか?」
「もちろんです!」
凌桃華は力強く返事をした。そんな彼女を見て安心した表情を浮かべると、冠永も晴天法王に対して深く礼をしたのであった。
無事に神界裁判を乗り越えた凌桃華と冠永だったが、今度は夜交羅刹市という危険な場所への潜入調査へ赴くこととなり、彼らは覚悟を決めて旅立つことにしたのだった。
出発に際して、凌桃華は両親と祖母に冠永と共に旅に出る旨を伝えた。彼女はまた家に帰って来ると伝えると家族は不安げな表情を浮かべたが、それでも彼女を笑顔で送り出してくれた。
「気をつけるのだぞ、桃華」
玉縁螺は優しく微笑むと言った。
「しっかりやりなさい。後悔のないようにね」
殷緋宵もそう言って微笑んでくれた。
「またいつでも戻ってきなさい、俺たちはこの家でお前の帰りを待っているからな」
凌開雲は娘にそう言うと、冠永に跪いて挨拶をした。
「善地三太子様、不束者の娘で幾度も迷惑をかけてしまうかもしれませぬがどうぞよろしくお願い致します」
「こちらこそ必ずや桃華を守り、皆さんの許へ帰って参ります」
冠永は凌開雲に頭を下げながらそう言った。凌桃華はそんな2人の様子を嬉しそうに見つめると、彼らに向かって深く礼をした。そして顔を上げると明るい笑顔を見せてこう言ったのである。
「いってきます!」
こうして一行は夜交羅刹市へと旅立った。道中はとても快適なものだった。晴天法王と秀鈴が同行しているので道に迷うことも鬼や妖怪に襲われることもなく安全に進むことができた。
晴天法王は浅黒い肌の恰幅の良い大柄な中年男性の姿から背の低い温和そうな老人に姿を変え、秀鈴は旅装束に身を包んでいた。そして4人は馬を乗り継ぎながら夜交羅刹市を目指す。
「あの……桃華さん」
突然秀鈴が話しかけて来たので凌桃華は驚いた。
「秀鈴さん、どうしたんですか?」
凌桃華がそう言うと彼女は頰を赤らめた。
「いえ……その……桃華さんの着物って肌の露出が多いなって……思って……」
「えっ?」
凌桃華はそう言うと自分の格好を見てみた。確かに彼女の着ている着物は胸元が大胆に開いており、太腿まで見えているという露出度の高さである。冠永も視線を逸らしてジロジロと見ないようにしている。
(そうだったんだ……)
凌桃華は自分の服装が他人からどう見えるのか自覚していなかったことに気づき、赤面した。するとそれを見た秀鈴が慌てた様子で言う。
「でもとてもよく似合ってます!可愛いと思いますよ!」
「あ、ありがとうございます……」
凌桃華は頰を赤らめたまま礼を言った。そんな彼女の様子を見て秀鈴は微笑んだ。
夜交羅刹市に近づくにつれて、段々と喧騒が聞こえてきた。どうやら街が近いらしい。やがて4人は市場の入り口へ到着した。そこは多くの店が立ち並ぶ大きな広場であった。
4人が到着すると、周囲の人々は皆彼らをじろじろと見てきた。中には小声で何か話している者もいるようだ。周囲にいる男たちの1人が晴天法王に話しかけて来た。
「爺さん、ここらじゃ見かけねえ面だがどこから来た?」
男の言葉に老人に変装している晴天法王は恭しく頭を下げて言った。
「私は南西の村に住む趙晴天と申す商人でございます。本日は夜交羅刹市で商売させていただこうと息子と娘2人を連れて参ったところにございます」
男はやや訝しむような表情を浮かべていたが、やがて納得したようだった。
「なるほどなあ……そういうことかい。まあ人それぞれ事情もあるだろうさ」
そう言うと男は凌桃華と秀鈴の方に目を向けた。
「しかしアンタの娘さんたち、すげえ美人じゃないか!どうだい、ウチの店で働いてみないか?」
「え……?い、いや、あの……」
返答に詰まる凌桃華と秀鈴だったが、晴天法王と冠永は小さく頷くと2人に目配せした。
(打ち合わせ通りに……わかりました……!)
「あらお兄さん、美人だなんてお上手ねえ。そりゃ私とお姉さまは村一番の美人って有名だったから当然だけど!ねえ、お姉さま?」
「え?ええ、もちろんよ!私達なら客引きだろうと、接待だろうと完璧にこなせるわよ!ねえ、桃華?」
凌桃華と秀鈴はそう言って笑みを浮かべた。それを見て男は納得したような表情を見せると、上機嫌な様子で一行を夜交羅刹市の中へと案内してくれた。
「いいかい?俺はいつもここにいるから何かあったらいつでも声をかけてくれよな!じゃあまた後で!」
男はそう言うと去っていった。晴天法王は彼らを先導しながら小声で2人に話しかける。
(よくやったぞ、桃華に秀鈴よ)
(ありがとうございます、法王様……)
凌桃華と秀鈴が小声で答える。こうして夜交羅刹市の内部へと潜入した一行は、まずは情報収集から始めることにした。
「それにしても賑やかなところですね。法……すみません、父上」
「うむ、そうだな」
冠永の言葉に晴天法王は小さく頷くと、周囲を見渡した。夜交羅刹市は市場であり、様々な商品が売り買いされていた。新鮮な魚や農産物だけでなく、怪しげな薬や武器なども売られているようである。
「しかしここは鬼や妖怪たちが堂々と商売をしている市場であるからな。気をつけるんじゃぞ」
晴天法王はそう言うと周囲に警戒の目を向ける。そして4人はある店の前に立つと、中の様子を確認し始めた。店の中には人間の買い物客だけでなく、鬼や妖怪が店員として商品の紹介をしていた。
「この反物はどうだ?上等な絹に鬼の妖術を込めて織り上げた代物だ。今なら半額で売るぞ」
「こっちは宝石付きの指輪だ!金運、開運上昇間違いなしだぜ!」
店の中では様々な商品が客たちを相手に売られていた。それらは全て人間向けの市場や商店ではなく、妖怪向けのものであった。さらに店員たちは皆恐ろしい形相をしており、普通の人間では近づくことすらできないだろうと思われるほど迫力満点であった。しかし彼らは人間に対する敵意はまるで無く、ごく普通に商人として商いをしていた。
「どうやらこの街では人間や鬼と妖怪が共存しているようですね」
「うむ、そのようだな。しかし油断は禁物だぞ」
晴天法王の言葉に冠永と凌桃華は頷いた。そして一行は市場の中を進み始めたのだった。
4人が店の前に立っていると、1人の鬼がやって来た。彼は手に大きな風呂敷包みを持っている。
「おお、お客さんか?ウチで買い物かい?」
鬼はそう言って満面の笑みを浮かべた。その笑顔はとても友好的で普段4人が思い浮かべている邪悪で凶悪な想像図とは似ても似つかわしくない表情であった。
「ああ、よろしく頼むよ。この宝石付きの指輪を貰おうかのう」
晴天法王が答えると、鬼は嬉しそうに頷いた。そして彼は大きな風呂敷包みの中から小さな桐箱を取り出すと、晴天法王にそれを手渡す。
「毎度あり!ほらよ!」
晴天法王は受け取った箱の中身を確認すると小さく頷いて金貨を支払った。そして一行は店を離れることにした。
4人は人気の無いところで桐箱を開けて中身を確認した。中には宝石付きの指輪が丁寧に収められており、さらにその指輪には小さな紙切れが括り付けられている。
「これは……」
秀鈴は紙を広げて目を通した。そこにはこう書かれていた。
『この宝石付き指輪を買って下さった方、貴方様は大変高貴なお生まれの方と存じます。つきましてはこの市場の最奥部にて私めが店主を務めさせていただいております店を訪れて頂ければ幸いにございます』
秀鈴は紙に書いてある文章を読んでみた。どうやらこの文章を書いた店主は自分たちのことを高貴な生まれだと思っているようだ。
「これは一体どういうことかしら……?私たちのことを勘違いしているのでしょうか?」
秀鈴の言葉に晴天法王は頷いた。
「その可能性は高いな。しかし我々の目的は違法な商品の売買を調査することにある。ならばここはひとまずその店を訪れてみるべきだろう」
晴天法王の言葉に皆は同意して歩き出した。そしてしばらく進むと小さな看板が立っている店が見えてきた。看板には『黒雲羅刹大王』と書かれている。
(黒雲羅刹大王……なるほど、そういうことか)
晴天法王は内心で納得したように呟いた。そして一行はその店の中へと入っていくことにしたのだった。
店に入ると中は薄暗く、商品と思われる様々な仮面が飾られていた。それらは全て人間や妖怪を模した物らしいのだが、どれも不気味で恐ろしい仮面ばかりである。すると奥から声が聞こえてきた。
「ようこそいらっしゃいました……」
声の主はゆっくりと姿を現した。それは派手な着物を身に纏った美しい鬼の女たちだった。鬼の女たちは妖艶な笑みを浮かべてこちらを見つめている。
「お客様方は我々の支店の商品に入っていた文を読まれた方々とお見受け致しました。さあ、奥へどうぞ……」
鬼の女たちはそう言って微笑んだ。彼女たちに案内されるままに一行は店の奥へと進んでいった。
店の中の廊下を歩いていると、左側を歩いている女の鬼が晴天法王と冠永の方を向いて言った。
「殿方のお客様はこちらにお入りください」
そう言って女の鬼は右側にある部屋を示した。それは他の部屋よりも広く、大衆酒場のような場所であった。
「女性のお客様はそちらへどうぞ」
女の鬼はそう言って微笑んだ。そして凌桃華と秀鈴は彼女の言う通りにその部屋に入ることにした。部屋の中は煌びやかな装飾品が飾られており、家具も高級なものばかりである。
「ここでお待ちくださいませ」
女の鬼はそう言って部屋の扉を閉めた。秀鈴は部屋の中をぐるりと見渡した。そして小さな声で呟いた。
「凄い部屋ですね……まるでどこかの国の貴族の部屋みたい……」
彼女がそう言った瞬間、部屋の奥から男の鬼が現れた。それは先ほどまでいた鬼の女たちとは違い、黒い肌と長い角を持った美男子であった。
(えっ……?)
凌桃華は慌てて秀鈴を守るように彼女の前に立った。しかし男の鬼は彼女たちに近づくことなく、その場で頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました。私が黒雲羅刹大王の店主、亘夜愁と申します」
「えっ?あ、はい……ご丁寧にどうも……」
突然のことに戸惑いながらも凌桃華と秀鈴は挨拶を返した。亘夜愁と名乗った鬼の男は続けた。
「本日は我が店にお越しいただきありがとうございます。今後ともどうぞ御贔屓に……という前置きは置いておいて、早速ですが本題に入らせていただきます。お客様方は神界から派遣されて来られた方々でございましょう?」
「ど、どうしてそれを!?」
凌桃華と秀鈴は思わず声に出してしまい、ハッとした表情で互いを見やった。亘夜愁はその様子を興味深そうに見つめると、静かに言った。
「やはりそうなのですね……いやしかし、神界の神々を我が店に御招待できるとは何という幸運でしょうか。お二方、どうぞこちらへ……」
亘夜愁はそう言うと部屋の奥の扉へと歩いて行った。どうやら奥の部屋が応接間になっているらしい。秀鈴は小声で凌桃華に言った。
「桃華さん……ここはひとまず彼の言うことに従ってみましょう」
「は、はい……わかりました」
2人は互いに頷き合うと亘夜愁に促されるままに彼と共に奥の部屋へと向かったのだった。部屋の中に入るとそこには多くの妖怪たちが集まっていた。鬼はもちろんのこと、獣の姿をした妖怪たちも礼儀正しく席に座っている。
「皆様方、お連れしましたよ!」
亘夜愁がそう言うと室内の妖怪たちは一斉にこちらを向いた。そして彼らの視線は2人に向けられた。凌桃華はその視線に気圧されながらもおずおずと口を開いた。
「あ……あの……あなたは一体……?」
凌桃華が問いかけると亘夜愁は静かに話し始めた。
「私、亘夜愁はこの夜交羅刹市を取り仕切る者。この市場を作りましたのは人や鬼や妖怪が自由に商いをし、互いの利益になることを願ってのことでございます」
亘夜愁はそう言ってニッコリと笑みを浮かべた。彼は穏やかな口調で話を続ける。
「そして今宵、皆様方を御招待したのには訳がございます。実は先日、夜交羅刹市は魔界の妖魔軍の襲撃を受けました。幸いにも我々や夜交羅刹市の守備兵たちの力で撃退することが出来ましたが、中には命を落とす者もおりました」
亘夜愁はそう言って目を伏せた。しかし彼はすぐに顔を上げて続きを話し出す。
「しかし我々の平穏な生活を脅かす輩がまだこの市場を狙っていることは明白でございます。そこで私は独自に調査を行い、皆様方をお招きした次第です……」
「なるほど……それで、私たちをここへ招いた理由は何でしょうか?」
秀鈴は亘夜愁の目を見据えて問い質す。亘夜愁は頷いた。
「はい、皆様方をここへお招きしたのは他でもありません。誠に勝手な頼みを承知で申し上げます。どうか我々の用心棒になって頂けないでしょうか?」
「用心棒、ですか……?」
亘夜愁の言葉に秀鈴は怪訝な表情を浮かべた。亘夜愁は小さく頷いて言葉を続ける。
「はい。皆様方は神界から来られた御方でございます。その力と知恵で我ら夜交羅刹市の住民や守備兵たちを守って欲しいのです」
亘夜愁はそう言って頭を下げた。すると周りにいる鬼や妖怪たちも一斉に跪いて頭を下げた。
その様子を見て凌桃華と秀鈴はお互いに顔を見合って考えを巡らせるのであった。