第二回 思惑の先の先
魔界。目の前に広がる風景はまさに地獄と呼ぶに相応しい光景である。辺りには鬼や妖怪をはじめとした化け物や怪物が跋扈している。
魔界を本拠とする妖魔軍は神界と衆生界の連合軍によって大敗して
衆生界から撤退せざるを得ず、妖魔軍を率いている魔将軍たちも敗走した。
しかし、彼らはまだ戦いを続ける気であったが、魔界八大魔将のうち五名が討ち死にし、命からがら魔界に逃げ帰ってきた煬邪、万威、解無の三魔将は魔界の支配者である天魔王・呪堕の機嫌を損ねないようにどうにか粛清を受けずに済む方法はないものかと議論していたところ、天魔王呪堕の玉座の間に呼び出されたのであった。
「偉大なる天魔王呪堕様、我ら三魔将をお許しください」
王侯貴族のように豪華な装飾品を身につけた長身で痩せ型の老人が跪いて天魔王に命乞いをしていた。彼こそが魔界八大魔将の筆頭、煬邪である。
「お前たちは我が命令に背いたな」
天魔王呪堕は冷たい声でそう言った。煬邪たちは顔を真っ青にして震え上がった。彼らの眼前には巨大な下半身の無い人形が宙に浮かんでおり、人形の背中からは無数の血管のような管が伸びて、その管は人形の周囲に浮遊する多数の宝玉や鏡に繫がっている。その人形の三つの目は赤い炎のような輝きを放ち、その炎のような目に睨まれるとまるで地獄の業火で焼かれたかのような激しい苦痛を感じる。この人形こそが魔界の支配者、天魔王呪堕である。
「お前たちは妖魔軍の将軍でありながら敗北し、魔界へ逃げ帰ったばかりか、私に対して命乞いまでした。私は妖魔軍を統率するに相応しい有能な人材を求めてきたつもりだったが、どうやら間違った選択をしたようだ」
天魔王呪堕はそう言うと宝玉のひとつを指で軽く弾いた。
「お前たちは妖魔軍を率いる将軍に相応しくない」
天魔王呪堕がそう言うと宝玉から火球が出現した。
「お待ちください、天魔王様!どうかお許しを!」
「せめて命だけはお助けください!」
三魔将は口々に命乞いをする。
「黙れ、屑ども!」
天魔王呪堕は凄まじい怒声を上げて彼らを睨みつけた。三魔将は恐怖のあまり失神寸前になっている。彼の視線に射抜かれただけで寿命が100年縮んだような思いだった。
「お前たちは私の期待を裏切っただけでなく、命乞いまでした。もはや万死に値する」
天魔王呪堕は冷たくそう言い放つ。三魔将は死を覚悟するほかなかった。
「お待ちになって、呪堕様」
玉座の間に妖艶で美しい声が響く。天魔王呪堕が声のした方向に視線を向けると、そこには黒い羽扇を持ち、妖艶な衣装に身を包んだ美女がいた。彼女こそが、天魔王呪堕の側近である妖魔幻師・夜寡である。
「なんだ、夜寡?」
「呪堕様は三将軍を粛清されるおつもりであることは重々承知しておりますわ。しかし、彼らを粛正すれば魔界には鬼や妖怪を率いる者がいなくなってしまいます。そうなれば妖魔軍は統制が取れなくなり、いずれ衆生界に攻め込むこともできず、魔界で内紛が起きることでしょう」
夜寡はそう言って天魔王呪堕の説得を試みた。
「なるほどな……確かにそれは困る」
夜寡の訴えを聞いたことで天魔王呪堕は少し冷静さを取り戻したようだった。
「だが、私は魔界の王だ。失態を繰り返すような配下には罰を与えねばならぬ、そうしなければ天魔王呪堕の名が廃るというものだ。そうであろう?」
「ええ、仰る通りですわ」
夜寡は頷いてみせた。
「ならば、こうしようではないか」
そう言うと天魔王呪堕の3つ目が輝き、赤い閃光が上空へと発射された。爆発音と共に何かが消滅したような気配がする。
「たった今、衆生界への入り口を封印していた結界を1つ破壊した。そこを通り、衆生界へ侵入して勝ち戦だと油断している者共の裏をかけ。正面から戦えば返り討ちになるのは明白だ。衆生界の情報を集めてこい。無用な戦闘はするな、良いな?」
「仰せのままに」
三魔将は跪いて天魔王呪堕に礼をした。
こうして魔界の三将軍は再び衆生界へと潜入することとなったのである。
天魔王呪堕からの命令を受けた三将軍は衆生界へ続く門をくぐっていく。そこは無数の柱が立ち並ぶ不思議な空間であり、彼らはその柱の間を進んでいく。
「この門を通ると衆生界か。神界の連中も厄介だが、それ以上に厄介なのは人間どもだな」
煬邪はそう言って顔を顰めた。彼はもともと人間の出身であり、魔界に連れて来られてからは妖怪としての生活を送ってきたが、長い間人間として暮らしていたため、衆生界には思い入れがあるのである。しかし、そんな感傷に浸るような余裕はない。三将軍はすぐに気持ちを切り替えて進軍を開始した。
「では、一番手は私が行かせていただこうかしら」
解無が万威と煬邪より先んじて門を通って行った。
「気をつけて行けよ」
煬邪は解無に声をかける。
「もちろんよ、心配しないで」
解無が笑顔で答えると三将軍の内、一人門を通って人間界へと降り立った。解無が降り立ったのは広大な草原だった。周囲には森が広がっている。
正面には人間の剣士と思われる男が独り言を呟きながら歩いていた。
「凌開雲と殷緋宵の娘をさらってしまえば、奴らとて我々の要求を呑まずには済むまい。そうなれば、我々正道の天下も夢ではない」
男の独り言を聞いた解無は物陰に隠れると手を開いて呪文を唱えた瞬間、掌から青白い炎が放たれて炎は一匹の青い蝶へと姿を変えた。
青い蝶はひらひらと飛び回り、男の背後に近づくと口吻を伸ばして男の首筋に突き刺した。
「痛てっ!なんだいったい……」
男は何事かと振り向くが背後には誰もいない。青い蝶は男から素早く離れると、解無の掌へと戻って行った。
「ふふふ、これで良いわ。なるほど……人間に味方する妖怪の夫婦の娘をさらい、服従させる……
面白い作戦だけれど、失敗してしまうでしょうね。残念、お気の毒様」
解無はそう言うとくすくすと笑った。
解無の作り出した蝶は吸思蝶といい、他者に口吻を突き刺すことで吸思蝶を通してその思考を読み取ることが解無にはできるのだ。
「あの男は凌開雲と殷緋宵の娘を誘拐すると言っていたけれど、それが失敗に終わることはもう解っているわ。凌開雲と殷緋宵があんな連中にどうにかできる程度の実力なら私達妖魔軍を魔界へ追い返すことなどできるわけがないもの。そもそも妖怪の夫婦の娘なんて、どうやってさらうんでしょう?どう足掻いても人間如きには不可能だわ。でも私なら……フフッ♪」
解無はそう呟いた。三魔将の中で唯一の女性である彼女は外見こそ美しいが、その心の中には強い野心と残忍さが潜んでいる。彼女の目的は自分が誰よりも優れた存在になり、魔界を統べることであった。そのためならば手段を選ばず、卑怯な行いであっても平気で行い、決して後悔などしないのである。そんな彼女にとって天魔王呪堕の命令は願ってもないことだった。
「この調子で衆生界の情報を集めていけば、手柄は私1人だけのもの……こうして手柄を立てていって、いずれはあの忌々しい夜寡を蹴落として私が呪堕様の側近となって魔界王妃の座を勝ち取ってみせるわ」
解無はほくそ笑むと次の行動へ移ることにした。
「そうと決まれば、早く衆生界の情報を集めないとね」
そう言って彼女はその場から立ち去った。
一方その頃、煬邪と万威もまた人間界へと降り立っていた。彼らはそれぞれ別の場所で情報収集を行っていたが、しばらくして合流し情報を交換し合っていた。
「なるほどな……衆生界の連合軍は手柄を巡って内乱状態になっているとは。その隙をついて我らが攻め込む、悪くない話だ」
万威がそう言うと煬邪は頷いた。
「うむ、我々は天魔王呪堕様より、情報収集の命令が下されている以上、手柄を立てれば粛清は免れる、というわけだな」
煬邪の言葉に万威も同意する。
「その通りだ。必ずや天魔王様のお気に召す情報を手に入れてみせよう」
万威はそう言って笑った。三魔将は実力は確かだが妖魔軍は数が少なく、軍をまとめるためにそれぞれ長が必要で、その長に天魔王呪堕が任命したのが魔界八大魔将であるがそのうちの五名が戦死してしまっている。互いに信頼し合い、協力する関係ではあるが、内心の野心は隠せずお互いに相手のことを警戒していた。
そんな二人の元に黒い羽扇を手にした夜寡が現れる。
「首尾は上々のようね」
夜寡が妖艶な笑みを浮かべてそう言うと、煬邪と万威は跪いて礼をした。
「妖魔幻師、天魔王呪堕様より賜りし任務、必ずや成功させてみせましょう!」
煬邪が自信満々に言った。
「ええ、期待しているわ」
夜寡はそう言うと二将軍に視線を移した。その視線には愛情などではなく、侮蔑のような危険な光が宿っていた。彼女は天魔王呪堕の側近として誰よりも高い地位にあるが、その傲慢な性格と実力の高さ故に他の将軍たちからは疎まれており、夜寡自身も彼らを内心で軽蔑していた。
「それでは、我らはひとまず魔界へ戻り、天魔王呪堕様へご報告に参ります」
煬邪がそう言うと夜寡は頷いた。
「頼んだわ」
夜寡の言葉に煬邪と万威は再び深く礼をすると、魔界への門を開いて帰って行った。その様子を見届けた夜寡は妖しい笑みを浮かべたまま、天魔王呪堕の元へと戻って行くのだった。
一方その頃、解無も人間界での成果を報告していた。彼女は今まで人間のふりをして暮らしてきたため能力や性格なども人間らしく振舞ってきたが、その演技には自信があったし、三魔将としての能力は人間界で使うには十分すぎるものだった。
「そうか、よくやった」
天魔王呪堕は解無の報告を聞いて満足そうに頷いた。解無が衆生界で集めた情報はどれも驚くべきものばかりであり、妖魔軍にとって有益な情報ばかりだった。
「では、今後とも情報収集を頼んだぞ」
「かしこまりましたわ。この私に全てお任せくださいまし」
解無はそう言ってにこやかに微笑むと一礼して去って行った。彼女の心の中にあったのは三魔将の中でも自分が最も早く手柄を立てることができるかもしれないという期待感だけだった。
「全く、現金なものだ」
天魔王呪堕は呆れてため息をついたが、すぐに気を取り直す。
「だが、まあいい。凌開雲と殷緋宵の娘を手に入れ、我が僕とすれば必ずや妖魔軍が衆生界を支配する日も近づこう。待っていろ、神界の神どもめ」
天魔王呪堕はそう言うと不敵な笑みを浮かべた。
三魔将が衆生界で成果を上げていたその頃、神界でも動きがあった。
「何?凌開雲と殷緋宵の娘を神界で預かり、修行をさせると?」
「はい、凌開雲から書状を預かって参りました」
妖怪の娘を神界で預かるということに眉をひそめたのは神武官金徳正君・雷伯である。神界の書記官である祖星霊官・丹星は予想通りの反応にため息を吐いた。
「凌開雲の書状によれば、三日月の晩に娘を神界の門がある神境山の神殿へ連れていくそうです。そこで迎えを欲しいと……」
「なるほどな……よかろう」
雷伯は納得したように頷いた。丹星は安堵すると共に口を開いた。
「では、迎えを出させて頂きますが、護衛の者はいかがなさいましょう?」
「そうさなぁ……」
雷伯は長い髭を撫でながら考え込んだ。
「では、我が雷伯軍の兵を護衛に回そう」
「よろしいのですか?」
丹星が驚いたような表情を浮かべると雷伯は頷いた。
「構わん、神界での修行ともなればそれなりの腕を持つ護衛が必要であろう?それに……」
雷伯はニヤリと笑うと続けた。
「神界で妖怪の娘がどんな目に遭うか……見物ではないか?」
雷伯の言葉に丹星もニヤリと笑う。
「確かに見物ですな」
丹星は頷くと書簡をしたためた。その書簡には娘を迎えに行かせると書かれ、護衛の者を何名かつけることも書き添えられていた。
「では、この書簡を凌開雲夫妻へ届けさせましょう」
丹星がそう言うと雷伯は頷いた。
「うむ、頼んだぞ」
雷伯が頷くと丹星は頭を下げて去って行った。
(さて……神界で何が起きるのか楽しみだわい)
雷伯は心の中で呟くと楽しげに笑った。
神界、衆生界、魔界、それぞれが凌桃華を狙っていることに気が付いていない凌開雲夫妻と凌桃華は神境山へと向かっていた。
「ねぇ、父様。神境山ってどんなところなの?」
凌桃華が尋ねると、凌開雲は歩きながら答えた。
「そうだな……一言で言えば神界への通り道がある場所だな」
「通り道?」
凌桃華が首を傾げる。
「そうだ、神界への入り口は山の中にあってな。その入り口は普段は隠されているんだ」
凌開雲はそう言って笑みを浮かべた。凌桃華には良く解らなかったが、とりあえず頷いておいた。
やがて、三人が山の麓へと辿り着くと、そこには小さな家が建っていた。その家の中から誰かが出てくるのが見えた。それは1人の女性だった。彼女は一礼すると口を開いた。
「凌開雲様、お待ちしておりました」
女性はそう言うと微笑んだ。その微笑みからは悪意のようなものは感じ取れなかった。
「私はこの山で神官をしております、向瑛と申します。神界への案内人として参りました」
向瑛と名乗った女性はそう言うと凌桃華に視線を向ける。
「こちらがお嬢様ですね?では、参りましょうか」
そう言って向瑛が歩き出したので、凌桃華も慌ててその後をついて行った。
神境山は標高が高く険しい道が続くため並の人間では登ることは不可能なのだが、四人は難なく進んで行くことができた。やがて霧が濃くなっていき、薄暗い場所に出た。とても神殿がある場所とは思えない。
「向瑛さん、先程から同じ場所を何度も歩いているように感じられるのですが……」
不審に思った殷緋宵は向瑛に尋ねた。
「気のせいではありませんよ、これは結界です。この結界は侵入者を拒むものでもありますが、神殿を隠すためのものでもあります」
向瑛はそう言って微笑むとまた歩き出した。しばらく進むと小さな祠のような建物が見えた。
「ふあー、やっと着いた!父様、母様、ここが神界への入口なの?」
先程から休憩をせずに歩き続けていた凌桃華は思わず声を上げた。
「いや、待て桃華。この禍々(まがまが)しい気配は……!」
そう言うと凌開雲は腰の帯から長剣を抜き、身構えた。
「向瑛殿……いや、正体を現せ妖怪!」
凌開雲が叫ぶと、向瑛の姿がみるみるうちに変わっていった。その姿は厳かな神官の姿とは真逆の素肌を露出させた派手な緑色の着物を身に纏った女妖怪が立っていた。
「ふふ……魔界三魔将の解無の正体を見破るとはさすがね」
「三魔将だと?魔界八大魔将の生き残りか!」
解無はニヤリと笑う。その笑顔は美しくも悪意に満ちており、見るものを不快にさせるようなものだった。
「お前たちの娘、凌桃華は私が魔界へ連れて行くわ。天魔王呪堕様の僕となって働いてもらうんだから」
解無の肉体は不気味なほど青白く、その鍛え上げられた美しい肢体が惜しげもなく晒されていた。そして頭には二本の角が生えており、それが彼女が人間ではなく妖怪であることを証明していた。解無は凌桃華の背後へ瞬間移動すると彼女の両肩を掴んだ。
「貴様!桃華をどうするつもりだ!」
凌開雲が解無に向かって叫ぶ。
「安心なさい、魔界での暮らしにもすぐに慣れるし……それに天魔王呪堕様の僕になればどんな男もイチコロよ?」
解無はクスクスと笑いながら言う。その妖艶な笑みに凌桃華は思わずゾッとするような恐怖を感じた。
(この女の人、一体何を言ってるの?私を連れて魔界へ行く?一体何が起こっているの?)
「桃華には指一本触れさせぬぞ!」
凌開雲はそう言うと解無に斬りかかった。
だが、その長剣は彼女の身体を傷つけることはできなかった。解無が妖術で自分の身体の周りに結界を張ったのだ。
「くッ!結界など!」
解無が張った結界はただの物理攻撃では破れないほど強力なものだったが、それでも凌開雲は何度も斬りかかる。
「無駄なことはよしなさい、あなたと私では実力が違いすぎるわ」
解無はそう言うと指をパチンと鳴らすと凌開雲の足元から炎が噴き出した。それはまるで龍のように彼の身体を包み込んだ。
「ぐぁぁっ!」
炎に焼かれる痛みに悲鳴をあげながら、それでも凌開雲は長剣を手放さなかった。しかし、既に彼は全身を火傷を負っており、立っていることすら難しい状態であった。
「あなた、下がって!私が相手をするわ!!」
「緋宵、すまない……」
殷緋宵は解無に向かって突進し、長剣を振りかざした。しかし、それも彼女の身体に張られた結界によって弾かれてしまい、逆に強烈な妖術を浴びせられてしまう。
「フフッ、夫婦揃ったところで私の結界の前には手も足も出ないでしょう?おとなしく自分たちの娘が魔界へ連れていかれるのを見ていなさい♪」
「それはどうかしら?」
突然背後から殷緋宵の声が聞こえたので解無が振り向こうとした瞬間、解無の妖術に倒れたはずの殷緋宵に至近距離から刺突を繰り出され、解無は咄嗟に避けたが左胸を貫かれた。
(な、何なの?私の妖術で焼かれたはずなのに……なぜ動けるのよ!?)
「ぐふっ……」
解無は口から血を吐き出すと後ろに飛び退いた。
「おのれぇ!一体どうなってるっていうのよ!!」
解無は怒りに任せ叫びながら炎や雷などの妖術を放つが、殷緋宵はそのすべてを躱していく。そしてついに彼女の長剣が閃き解無の頭の左右に生えている角のうち、右側の角を斬り落とした。
「ぎゃああぁぁ!!」
解無は激痛にのたうち回り、絶叫した。そして残った左側の角も切断されてしまい、彼女は両膝を突いた。その姿はもはや高貴な魔将ではなく、醜い妖怪そのものであった。
「くううう……おのれぇ!この恥知らずめ!私の美しい角を斬り落とすなんて!」
「あら?あなたさっき言ってたじゃない、どんな男もイチコロだって」
そう言いながら殷緋宵がニヤリと笑う。
「うぐぐっ……貴様のような異端の妖怪如きにこの私が負けるはずがない!!」
「何故あなたの妖術を浴びせられた私が無事なのか、わからないなら教えてあげる。あなたが攻撃していたのは私ではなく、私の残像。あなたが残像を攻撃している間、体勢を整えることができた。そしてあなたが結界で身を守ろうとしても結界を作り出す前に攻撃を仕掛ければいいだけのこと。思ったよりも簡単だったわ」
「な、何ですって!?」
解無は驚愕の声を上げた。
(やった……!母様の勝ちだ!!)
母の活躍に目を輝かせる凌桃華。そんな彼女を父、凌開雲が助け出す。妖術に敗れたふりをして解無が凌桃華から離れる瞬間を狙っていたのだ。
「桃華、もう大丈夫だからな」
「父様、ありがとう!」
「あなたの負けよ……観念なさい!」
殷緋宵はそう言うと解無に刃を振り下ろそうとした。その時、黒い炎がどこからともなく飛んできた。
「凌桃華はこの私がもらい受ける!」
現れたのは不気味な老婆だった。彼女は空中に胡座をかいて座り込み巨大な鎌を担いでいる。その目は狂気に満ちており、明らかに正気ではなかった。
「我が名は邪影魔女・幻月。正道にも魔道にも属さぬ邪道の者なり」
「幻月……?まさか!?」
殷緋宵は驚いて叫んだ。彼女はかつて魔道の剣士たちから恐れられた幻月のことをよく知っていたのだ。
「これはこれは……邪道の魔女のご来訪とはね……」
そう言うと解無がニヤリと笑った。その表情には余裕すら感じられる。すると突然解無の姿が消えたかと思うと今度は別の方向から声が聞こえてきた。
「今日のところはここでお暇させてもらうわ。邪道の魔女の相手までしていられないもの」
そう言うと解無は一瞬で姿を消した。彼女の妖術によって発生していた霧が晴れるとそこには誰もいなかった。幻月は舌打ちをすると周りを見回し、ニヤリと笑いながら言った。
「妖怪め、恐れをなして逃げおったか。では凌開雲と殷緋宵よ、娘を私に引き渡す決心はついたかね?」
彼女はそう言うとまるで獲物を狙う獣のような目で凌桃華を見つめた。その視線に凌桃華は戦慄を覚える。
(何なのこのお婆さん?すごく邪悪な気を感じる……)
「ふん、断ると言ったらどうすると言うのだ?」
凌開雲がそう言うと幻月はニヤリと笑った。
「その時は力ずくで奪うまでよ!」
幻月はそう叫ぶと鎌を振りかざしながら凌桃華に向かって襲いかかってきた。だが、その攻撃が彼女に届くことはなかった。殷緋宵の斬撃によって阻まれたからだ。
幻月は狂笑を浮かべながら殷緋宵の斬撃を全て回避すると、再び凌桃華へ手を伸ばす。
「さぁ、大人しくこっちに来るんだよ!」
幻月の言葉に怯えた凌桃華は思わず目を瞑ってしまう。しかし痛みはいつまでたっても襲ってこなかった。その代わりに聞こえたのは母が普段出さないような激しい剣戟の音だった。恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。なんと殷緋宵が今までに見たことが無い程の素早い動きで幻月と戦っていたのだ。しかも先程よりも速く鋭い攻撃で幻月を攻め立てているように見える。
「ほう……なかなかやるじゃないか……しかし!」
次の瞬間、幻月の姿が消え、今度は殷緋宵の目の前に現れた。
「その程度かい?お嬢ちゃん?」
幻月がニヤリと笑って鎌を振りかざした瞬間だった。
「貴様こそ……その程度か?」
いつの間にか移動していた凌開雲が背後から斬りかかるが、それも難なく躱されてしまった。どうやら幻月は瞬間移動とも思えるほどの高速移動ができるようだ。
「速いねぇ……さすが妖魔軍を魔界へ追い返すほどの強者夫婦だ。だったら私も旦那を呼ぼうかね」
すると今度は不気味な風が吹くと同時にボロボロの衣服を身に纏った年老いた男が凌桃華の背後から現れた。
「幻月、呼んだかの?」
「ああ、よく来てくれたよお前さん。早くその小娘を連れて帰るんだよ!」
男がニヤリと笑って頷くと凌桃華に手を伸ばした。
(嫌っ!誰か助けて……)
恐怖で身体が竦んでしまい逃げることもできない凌桃華。そんな彼女を庇うように立ち塞がったのは凌開雲だった。彼は剣を振り下ろし男の腕を叩き斬ると続けて脳天目掛けて剣を突き立てた。しかし、驚くべきことに男は全くその攻撃を避けることなくその頭部に剣の一撃を受けるとその場に倒れ伏した。しかし……。
「こ、これは……!」
倒れ伏した年老いた男の身体は一枚の木の板に変わっていた。
「邪鬼潜身の術じゃ。甘いのう、お若いの。思惑の先の先を読まねば勝利は得られぬぞ?」
男はそう言うと再び姿を消した。今度は幻月の背後に出現したようだ。
「あなた!危ない!!」
殷緋宵が叫ぶと幻月はすでにその動きを読んでいたかのように鎌で凌開雲を斬りつける。しかし凌開雲もその攻撃を予想していたのか刃が届く前に瞬間移動を繰り返していた。
「いやーーーーーーッ!」
凌桃華の悲鳴を聞いた凌開雲と殷緋宵の動きが止まる。年老いた男によって凌桃華は捕らえられてしまったのだ。
「桃華!」
凌開雲は急いで彼女を助けようとするが幻月が行く手を阻む。
「そう、急くでない。まずは……」
そう言って男が凌桃華の首筋に人指し指を押し当てると彼女は気を失ってしまった。そして気を失った彼女の身体を抱えて飛び去ろうとする男に向かって殷緋宵が長剣を振りかざす。だがその一撃も幻月に阻まれてしまい凌桃華を連れた男を逃がすことになってしまった。
「私たちの娘をどうする気!?」
「決まってるじゃないか。凌桃華を私ら夫婦の弟子に迎え、立派な邪道の剣士に育て上げるのさ」
「そんなことさせるものか!桃華は俺たちの娘だ!」
凌開雲が叫ぶ。しかし幻月は余裕の笑みを浮かべて言った。
「なら、取り返してみるがいいさ」
そして幻月と気を失ったままの凌桃華を連れた男の姿は一瞬で消えてしまった。その場に取り残された凌開雲と殷緋宵は悔しさに唇を噛み締めるのだった。
「桃華……!」
凌開雲は娘の名前を呟きながら地面に拳を打ち付けた。殷緋宵も涙を流しながら両手を強く握りしめる。その手には娘を奪われた悲しさと悔しさから爪が皮膚に食い込み、血が滲んでいた。
一方その頃、自宅で留守番をしていた凌桃華の祖母、玉縁螺は暇そうに天井を見上げていた。凌桃華の祖母と言っても、玉縁螺は妖怪であるためにその外見は30代半ばの絶世の美女のようで、実年齢は不明である。
「ああ、退屈だ。留守番というのはどうも性に合わん、こういう時はいつも桃華がババ様~という具合に抱きついてきてくれるのだが、その桃華もいないとなると暇で暇で仕方ない」
などと独り言を言っていると、彼女は凌桃華が修行の旅に出る際に飴玉をもらったのを思い出した。
「おお、そうだ。桃華からもらった飴玉をいただくとしよう。年を取ると甘いものがつい食べたくなってしまうからな……」
そう言って玉縁螺は懐から包み紙に入っている飴玉を取り出し、紙を開いた。すると突然飴玉が真っ二つに割れた。
「何ッ!?こ、これは……。もしや、桃華たちの身に何か……?」
玉縁螺はそう呟くと桃華にもらった飴玉を大切そうに口に含みながら家族の無事を祈った。
(桃華……無事でいてくれ……)
幻月たちに連れ去られた凌桃華はとある薄暗い部屋に寝かされていた。凌桃華が意識を取り戻すと、そこには先程の年老いた男がいた。
「目が覚めたか小娘?」
「あ、あなたは……?」
まだ意識が朦朧としている凌桃華は身体を起こすと周りを見回した。しかし先程のような怪しい妖術も見えず、とてもここがあの恐ろしい老夫婦の住処とは思えない場所だった。ただ部屋の壁や床はボロボロで廃墟同然であった。窓もないため今が昼なのか夜なのかもわからない。
「ワシは邪道の術を極めし幻月の夫、邪流尊師の幻陽じゃ」
「じ、邪流……尊師?」
聞き慣れない言葉に凌桃華は首を傾げた。
「ふむ……知らぬのか?ならば教えてやろう……」
幻陽はそう言って咳払いをすると語り始めた。その内容は驚くべきものであった。邪道とは正道、魔道のどちらの勢力にも属さず、並の人間ではその力を御することはできないという。そして、その邪道の術を極めたのが目の前にいるこの幻陽という老人らしい。さらに驚くべきことに衆生界にある邪教集団を取り仕切っているというのだ。しかも彼はただの指導者ではなく、あの殷緋宵と凌開雲を打ち負かすほどの強者だったというのだから驚かずにはいられない。
「そ、そんな……父様や母様でも敵わなかったなんて……」
凌桃華は愕然とした表情で呟いた。そんな彼女の様子を見た幻陽はニヤリと笑って言った。
「ふふっ……どうやら自分の親がこれまで強いと思っていたようじゃのう?しかし、それは思い違いというものよ。あの2人がどれだけ強かろうと所詮は青二才……ワシの敵ではない」
幻陽の言葉に凌桃華は悔しさに唇を噛み締めた。そんな彼女の表情を見て幻陽はさらに追い打ちをかけるように問いかける。
「どうだ小娘、お前はこの邪道の技を学びたくはないか?」
「えっ……?」
突然そんなことを言われたので戸惑う凌桃華。そんな彼女に幻陽は続けて言った。
「ワシの邪道の術や技を極めれば、お前の両親をも凌駕する力を身に付けることができるのじゃぞ?」
凌桃華の心は揺らいでいた。確かにこのままでは自分の身だけでなく家族まで危険な目に遭ってしまうかもしれないのだ。そうなる前に幻陽の言う通り強くなりたいという気持ちもあった。しかし……。
「わ、私は……」
「迷うことなどなかろう?お前は両親を助けたいとは思わないのか?」
その言葉に凌桃華はハッとした。確かに幻陽の言うようにこのまま何もしなければ家族全員が危険に晒されてしまうのだ。
「私……」
凌桃華は葛藤していた。しかしそんな彼女に追い討ちをかけるかのように幻陽は言った。
「よく考えるのじゃ。お前が本当にしたいこと、手に入れたい力とは何じゃ?」
その言葉が彼女に決断させるきっかけとなった。凌桃華はゆっくりと立ち上がると真っ直ぐに幻陽の目を見つめ、口を開いた。
「私は……あなたから邪道の術を学びたいです!!」
すると幻陽はニヤリと笑って言った。
「よくぞ言った。それでこそ我が弟子に相応しい……」
こうして凌桃華は幻陽の弟子となったのだった。
「では、まずは基礎から学ぼうかのう」
そう言い終わると幻陽は凌桃華に向かって紫色の液体が入った小瓶を差し出した。
(あ、あれってまさか……)
「さあ、これを飲め」
幻陽は自分の分を一気に飲み干すと、凌桃華にも飲むように促す。
「そ、それは?」
恐る恐る尋ねると幻陽が答えた。
「これは魔道の者が邪道の術を修得するために飲む秘薬じゃ」
それを聞き、思わず唾を飲み込んだ凌桃華は覚悟を決めると一気に小瓶の中身を飲み干した。途端に身体中が熱くなり、力が湧き上がってくるような感覚に襲われる。心なしか身体も軽くなったような気がした。
「こ、これは……」
(すごい……これが邪道の術……)
「驚いたか?それが邪道の者が邪道の技を修得するということじゃ」
幻陽がニヤリと笑って言った。そして部屋の外にいる妻の幻月に向かって言う。
「儀式は終わったぞ。明日から忙しくなるのう」
「そうさね、やっとできた弟子だ。すぐに死なれては困る」
幻月もニヤリと笑って言った。その2人のやり取りに凌桃華はゾッとしたが、同時にこれからどんなことを学べるのかという期待に胸を膨らませていた。
(私は強くなりたい……あの父様や母様を越えるくらいに!そして誰よりも強くなってみせるんだ!!ふふ……うふふふふふ……)
桃華の瞳からはかつての無邪気な輝きは消え失せ、力への渇望に満ち満ちていた。それからというもの、凌桃華は毎日休むことなく幻陽と幻月から邪道を学び続けた。その修行は想像以上に辛く苦しいものであったが、彼女は歯を食い縛りながら耐え抜いた。そしてついに8年が経過したある日のこと……。
「よくここまで頑張ったな小娘……いや桃華よ、もうお前は立派な邪道の剣士だ」
そう言って幻陽が弟子の凌桃華を褒めてやると彼女はとても嬉しそうな表情を浮かべた。さらに幻陽は続ける。
「では、いよいよ邪道の極意を教えてやろう。だが、その前にお前の覚悟を聞かせてもらおうか?この修行を終えるということはもう二度と今までの日常には戻れないということじゃ。それでもお前はまだ強くなりたいか?」
「はい師父!!私はもっともっと強くならなきゃいけないんです!だからお願いです!私に力をください!!」
凌桃華は力強く答えた。それを聞いた幻陽は満足そうに頷くと言った。
「よかろう……ならば教えてやろう我が邪道の真髄『邪刃鬼骸吾(じゃじんきがいあ』を」
「じゃ……じんきがいあ?」
初めて聞く言葉に凌桃華が首を傾げると幻陽が説明を始めた。
「邪刃鬼骸吾とは己の魂を剣に宿し、敵を斬ると同時にその魂の一部を相手の身体に刻み込むことで肉体や精神を破壊することができるのじゃ。つまり、対象の魔力や霊力を吸い取りながら内側から破壊することができるわけじゃな」
「そ、そんな恐ろしい力が……」
それを聞いた凌桃華は思わず身震いした。しかし同時にその力を手に入れれば自分はさらに強くなれるという確信もあった。
「うむ、では早速始めるとしよう……」
幻陽はそう言って凌桃華の額に手を当てると術を発動するための言葉を唱えた。
「邪道秘法『邪刃鬼骸吾』!!」
次の瞬間、光と共に凌桃華の身体の中に何かが入り込んで来たような感覚がした。それと同時に凄まじい力が漲ってくるような感覚に襲われる。
(これが……邪刃鬼骸吾の力?)
そう思った時、凌桃華は自分の身体に起きた変化に気付いた。
(な、何これ……私の身体が透けてる?)
なんと彼女の身体は半透明になっていたのだ。まるで幽霊にでもなったかのような自分の姿に動揺する凌桃華であったが、そんな彼女に幻陽は言った。
「驚くのはまだ早いぞ小娘よ」
幻陽が手に力を込めると、自身の力が徐々に吸い取られ、自分の存在が消滅してしまうかのような不安に襲われた。しかし、それでも凌桃華は不思議と恐怖を感じなかった。むしろ快感すら感じていたのだ。
(凄い……これが私の力になるんだ……)
次第に身体の感覚が無くなってきた頃、幻陽が術を解いた。それと同時に凌桃華の姿は元に戻ったのだった。
「これで『邪刃鬼骸吾』の修行は終了じゃ」
幻陽の言葉を聞いて凌桃華は小さく息を吐いた。緊張から解放されてホッとしたのである。そんな彼女に幻陽は言った。
「よくやったな桃華。これでお前は今日から邪道の正式な剣士じゃ」
凌桃華は幻陽の言葉に喜びと興奮を覚えた。そして早く自分が手に入れた力を使ってみたいという衝動に駆られるのだった。
(この力で父様と母様を……)
しかし、この時まだ桃華は気付いていなかった。邪道の修行を終えたことで生まれた自身の力がいかに危険なものであるかということに……。
凌桃華が幻陽、幻月の弟子となってから10年が経過しようとしていたある日、凌桃華は20歳になっており、幻陽、幻月から夕食の食材を取りに行くよう命じられた。
(はぁ~退屈だなあ……)
刺激が無くなってしまった凌桃華は退屈そうにしていた。
「あぁ~かったる……。なんでこのアタシがあのジジイとババアの小間使いをしなきゃいけない……のよッッ!」
そう愚痴りながら森の中を歩いている彼女の姿は邪道の剣士とは似つかわしくないほど美しく、可愛らしいものであった。服装は露出度の高い着物をあけ広げ、胸元は大きく開き谷間が見えており、脚も太ももの付け根辺りまで露わになっている。さらに頭と腰には狐のような耳と尻尾が生えており、まるで本物の妖怪のようであった。彼女の空の様に青い瞳や桃色の髪の毛は幼い頃と変わりないがその肉体は大人の女性として大きく成長していた。凌桃華は幻陽の妻である幻月から目が合った男性を意のままに操る「邪眼操心術」を伝授され、その術を利用して都の金持ちの男性たちを操り、自分に貢がせていたのだ。彼女の魂は悪しき力に魅入られ、その心も邪道に染まりつつあった。
「おっ?いたいた……しかもアイツは中々の上玉ね」
凌桃華の視線の先にいたのは若い男性であった。年齢は20代前後であろうか、長い黒髪に白い旅装束を身につけ、頭には笠を被り、右手には僧侶が持つような長い錫杖を手にしている。一見するとただの旅の僧侶のように見えるが、何やら神秘的な雰囲気を持つ青年である。
「よし決めた!今日はまず、アイツから絞りとってやるわ!」
凌桃華はその青年の背後から近付いていった。
「ねえ、素敵なお兄さん?」
凌桃華に声をかけられた青年は驚いた様子で振り返った。その青年の整った顔立ち、どこかの国の
王子と名乗っても違和感の無い気品に思わず彼女は見惚れてしまった。
青年に邪眼操心術で魅了の術をかけようとしたはずが逆に凌桃華自身が青年に魅了されてしまったのである。
「もしよかったらアタシと一緒に遊びましょ?アナタみたいな素敵な男の人と出会えるのって中々ないもの」
凌桃華はそう言いながら青年に抱き着くと胸の谷間を見せつけ、その豊満な胸を彼の腕に押し付けながら上目遣いで青年を見つめる。その姿はまさに男を誘惑する妖狐そのものだった。しかし、青年はそんな凌桃華に対して優しく微笑みながら言った。
「ええ、構いませんよ」
そう言って彼は凌桃華を優しく抱きしめる。青年は腕に力を込めず、まるで慈しむかのように彼女の身体を包み込むようにして抱き締めた。
「あぁんっ……♡お兄さんったら、優しいのね……」
(やだぁ~なにこれぇ~!凄く心地良いんですけどぉ~♪)
まるで母親に甘える少女のように凌桃華は青年に身を委ねた。そして、彼女が自ら青年と唇を重ねようとしたその時だった。
「桃華、どうして君はそのような女性に成長してしまったんだい?」
青年は悲しげな表情を浮かべながら彼女を見つめる。その声は優しく諭すように彼女の耳に届いた。
しかし、凌桃華は目の前の青年が何を言っているのか理解ができなかった。
「え……?お兄さん?何言って……るの?」
「私のことを忘れてしまったのか?今から13年前、あの夜の森で悲しそうに泣いていた君と出会った……冠永のことを」
「冠永……さん?う、嘘でしょ……どうして!?」
凌桃華は混乱しつつ、驚愕した表情を浮かべながら尋ねた。青年の正体はかつて彼女が幼い頃に出会った、善地三太子・冠永であった。
善地三太子は高い地位の神であるにもかかわらず神界に居住せず、衆生界を自らの足で行脚しながら救いを求める人々を護り、救うために旅を続けているという。
そんな善地三太子は神々の間でも評判が高く、彼に憧れて多くの修行僧が彼に弟子入りしたいと願っている程であった。そんな彼が何故凌桃華の前に現れたのか?その答えは一つしかないだろう。
「桃華、君の魂に邪気が混じっている。一体、いつからそんな悪い子に育ってしまったのだ?」
冠永は悲しげな目で彼女を見つめながら問いかけた。
(そ……そんな!?アタシが悪い子だなんて!?)
凌桃華は激しく動揺した。
(違うもん!アタシは何もしてない!ただ、ちょっと男の人たちと遊ぼうと思っただけだもん!)
必死に否定しようとするが言葉が出てこない。そんな彼女に冠永は続けて言った。
「君からは微かに邪気が感じられる……その邪気は君自身のものではなく、他者から与えられたものだろう?」
「……ッ!!」
図星を突かれた凌桃華はビクッと身体を震わせるとそのまま黙り込んでしまった。それを見た冠永は悲しげな表情を浮かべながら言った。
「桃華、君には大切な家族がいるはずだ……その人たちを悲しませるようなことをしてはいけないよ」
冠永はそう言って凌桃華から離れると、錫杖を地面に突き立てた。すると、そこから光の輪が現れ、彼女の身体を包み込んでいく。
「冠永さん、アタシ……は……」
光の輪に包まれた凌桃華の瞳から自然と涙が溢れ出る。それを見た冠永は優しく微笑みかけながら言う。
「大丈夫だよ桃華。すぐに君に憑りついた邪気を祓ってあげるからね」
そして冠永は桃華を再び優しく抱きしめ、自分の唇を彼女の唇に重ねた。その瞬間、凌桃華は暖かい何かが流れ込んでくるような感覚を覚えた。
それと同時に彼女の身体に異変が起こり始める。
(あ……あれ?なんだか身体が熱い……それに力が漲ってくるような……?)
身体の奥から湧き出る熱に戸惑いながらも彼女はその心地よさに身を委ねていた。そしてそれは次第に強くなっていき、ついには全身に広がっていった。
(あぁ~すごいぃ~なんか気持ちいいかもぉ~♪)
今まで感じたことのない未知の快感に包まれながら凌桃華は気絶しそうになった。
それは優しい口づけだった。今までに桃華の邪眼操心術によって魅了された男たちの貪るような欲情に満ちたものではなく、彼女に対する愛情が込められた口づけであった。
その愛情に満ちた口づけを受け、桃華の身体から溢れ出る邪気はみるみるうちに浄化されていくのだった。
凌桃華の身体から邪気が抜けきったのを確認すると冠永は彼女の唇から自身の唇を離した。すると、凌桃華はゆっくりと目を開けて言った。
「あれ……?アタシ……どうして?」
まだ頭がボーっとしているのか、彼女は焦点の定まらない目で辺りを見渡していた。しかし、徐々に意識がはっきりしてくると凌桃華は目の前にいるのがかつての恩人である冠永であることに気付き、慌ててその場に跪いた。
「か、冠永さん!?ご無沙汰しております!」
急に正気に戻った凌桃華を見て冠永はクスッと笑うと彼女に言った。
「あぁ久しぶりだね桃華……元気そうでなによりだよ」
にこやかに微笑む冠永の笑顔を見ながら凌桃華は恥ずかしさと申し訳なさが入り混じり、頭が沸騰しそうになっていた。
(あぁ~やっちゃった……これ絶対に怒られるよね……)
凌桃華は心の中でそう思っていた。しかし、そんな彼女の予想とは裏腹に冠永は特に怒った様子も無く穏やかに微笑みながら言った。
「桃華、君と再びこうして出会えたことを嬉しく思うよ」
そう言って冠永は微笑む。凌桃華は思わず涙ぐんだ。
「ありがとうございます、冠永さん……。アタシももう一度お会いできて嬉しいです」
凌桃華は涙を拭いながら笑顔で答えると冠永に言った。
「あの……ところで冠永さんはどうしてここにいるんですか?やはり衆生界の人々を救うために今も旅を?」
すると、冠永は微笑みながら答えた。
「いいや違うよ。今日私がここへ来たのは……」
冠永がそう言いかけた時だった。
「お前を討滅するためですよ、邪眼の妖狐」
突然冠永の背後から冷たい男の声がした途端、2人は振り返る。そこには、青と白を基調とした神々しい装束に身を包んだ黒髪の青年が立っていた。
「え……?あなたは一体……?」
凌桃華は突然現れた謎の人物に驚きを隠せなかった。そんな彼女に青年は冷たく言い放った。
「私は神界の書記官、祖星霊官の丹星。邪眼の妖狐よ、覚悟なさい」
そう言って青年は腰に携えた刀を抜き放つと切っ先を凌桃華に向けた。それに対し、冠永も錫杖を構えて臨戦態勢を取る。
「何の真似ですか三太子殿下。何故私の邪魔をなさるのです?」
「彼女は討滅すべき悪しき妖怪ではない。ここは私に免じて退いてくれないか?丹星……」
「いいえ、こればかりは引けません。あなたのような甘い考え方では神界の品位に関わります……ここでこの妖狐を討ち、神の威光を衆生界の人間たちに示さねばなりません」
丹星はそう言って刀を構えると凌桃華に向かって斬りかかった。しかし、その攻撃を冠永が錫杖で受け止める。そしてそのまま鍔迫り合いになるも、流石は神であると言うべきか、丹星の力にやや押され気味だった。
「なかなかやりますね、三太子殿下」
「君も流石だね、丹星」
丹星と冠永は互いに相手を称えると一度距離を取った。そして今度は同時に攻撃を仕掛ける。
「聖なる光よ!悪しき者を祓い給え!」
丹星が叫ぶと彼の持つ刀が光り輝き、その先端から光の帯のようなものが現れた。そしてそれが凌桃華に向かって一直線に伸びていく。
(これが神の光!?)
凌桃華は驚きつつも間一髪でそれを避ける。しかし、避けた光の帯が背後の木々に当たると大爆発を起こし、辺り一面に煙が立ち込める。どうやらその一撃はかなり強力であるようだ。
「ふん、逃げ足の速い害獣だ」
丹星は攻撃を躱されたにも関わらず不敵な笑みを浮かべると再び刀を構え直す。一方で冠永も油断なく構えており隙は全く無い。
「やめろ!丹星、彼女に戦う力はもう無い!討滅する必要は無いんだ!!」
冠永が慌てて叫ぶ。しかし、丹星はそれを無視するかのように再び凌桃華に斬りかかる。
「やめろと言っているだろう!」
冠永は錫杖で丹星の攻撃を防ぐとそのまま押し返した。その力に思わずよろめく丹星。その隙を突いて冠永は凌桃華の前に出て彼女を庇う。
すると突然、冠永は咳き込み始めた。その尋常ではない様子に驚いた凌桃華は冠永に駆け寄る。
「冠永さん、大丈夫!?」
「私……なら、大丈夫だ。桃華……早く逃げ……!」
苦しそうに返事をした冠永だったが、突如として激しい咳と共に吐血した。その様子に凌桃華は思わず悲鳴を上げる。
「三太子殿下、何という愚かなことを……我々神にとって妖怪の邪気は猛毒であろうことは充分ご承知のはず。にも拘らず、この害獣から邪気を吸引するなど、自殺行為にも等しい愚行です」
(え……?ちょっと待ってよ……どういうこと?)
丹星の言葉に困惑する凌桃華。そんな彼女をよそに、冠永は苦しそうな表情を浮かべながらも笑顔で言う。
「私は……友達のために、為すべきことをしたまでさ……」
そう告げた瞬間、冠永は再び激しく咳き込み始めた。それと同時に彼の口から赤い血が飛び散る。その様子を見た凌桃華は慌てて彼の背中をさする。
「やだっ!しっかりしてよ!冠永さん!」
しかし、冠永は咳き込みながらも凌桃華を心配させまいと優しく微笑んで言った。
「私のことはいい、君は早く安全なところへ……」
「でも……!」
言いかけたその瞬間、丹星が再び刀を構えた。そしてそのまま複数の斬撃を放つ。それを見た冠永が錫杖を振り回しながら叫ぶ。
「くっ……桃華!早く行くんだ!」
冠永は歯を食い縛りながら必死に耐えていた。その様子を見ていた凌桃華は涙を滲ませながら言った。
「ごめんなさい冠永さん!アタシのせいでこんな目に遭わせてしまって……」
そう言って彼女はその場を走り去った。そんな2人のやり取りを見ていた丹星は深いため息を吐いた。
「妖怪を助けるためにその身を犠牲にしようとは、三太子殿下……私は神記官としてどのように貴方の兄君であらせられる帝一神君へご報告すれば良いのです?」
冠永は丹星の言葉には何も答えず、ただ黙ってその場に立ち尽くしていた。そんな冠永の様子を見た丹星は呆れ顔で言った。
「もう結構です、三太子殿下……これ以上あなたと問答しても無駄でしょうから」
そう言って彼は刀を振りかぶり、一気に間合いを詰めていく。しかし、冠永は落ち着き払って着物の袖の中から七色に光り輝く玉を取り出した。
「そ、それは神宝珠如意!?」
丹星が言葉を終える前に周囲一帯を七色の輝きが覆い尽くしたのであった。