【8】 ヘルガの呟き
クラウスの婚約者、ヘルガ視点です。
彼女を初めて見たのは、王城の式典の時。彼女が警備の一人として、要人の前に立っている姿をお見掛けした。
姿勢の良い凛々しい立ち姿に、黒髪が映える白の騎士服。射貫かれてしまいそうな青の瞳。
同性なのに、感じたことのない感情に支配された。
「あの方は一体……?」
その日の式典の感想は、あの方のことだけ。あの方が誰か知りたい。またお会いしてみたい。
私はヘルガ。ヴァーグナー家の次女。男爵家で、ごく一般的に育てられた普通の女。家庭教師から淑女教育を受けて、毎日刺繍をしたり、お友達とお茶会をしたり。もう十六だし、そろそろ縁談がきて、嫁ぐのだろう。
そういった日常に突然現れたあの方。
知りたい。でもその術がない。とうとう私は友人とのお茶会で、あの方を話題に出した。
「ヘルガ様。その方でしたら恐らく、マチルダ様ですわ」
「マチルダ様、とおっしゃるの」
「えぇ。有名な方です。シュナイダー家のご令嬢ですわ。女性騎士で、気品があって。私も、初めてお見掛けしたときは、なぜか胸が……」
「あなたも?わたくし、あの日からずっと、マチルダ様のことを考えてしまうのです」
彼女は私のことに理解を示し、白百合同好会について教えてくれた。実は彼女はすでに白百合同好会へ加入しているという。
「白百合の君……。納得します。マチルダ様は確かに白百合ですわ」
「ヘルガ様も白百合同好会に入ったらいかがかしら?マチルダ様の稽古などを見学できますわ。あの方を邪魔にならないよう、同好会で一日の見学人数を決めているのよ」
彼女の提案に私は一も二もなく了承したのだった。
白百合同好会へ加入してからの私は、毎日に色がついたようだった。
見学の日の私は、入念に身支度をして出かける。マチルダ様は同好会を黙認していて、訓練の時に私たちが見学することを許してくださっている。訓練に汗を流すマチルダ様のことをじっと見つめられるのが嬉しい。更に、運が良ければマチルダ様とお話までできるのだ。
同好会では、高位の令嬢や夫人もいらっしゃって、彼女の素晴らしさについて語り合ううちに、私の交友関係もぐんと広がった。
令嬢の一人が、マチルダ様のことを「尊い」とおっしゃった。王族を戴くわが国でふさわしくない表現かもしれない。しかし私たちはその表現にしっくりきた。
マチルダ様は高潔で、美しく、純粋な方。得難く、汚されない白百合なのだ。
そんなさ中、私の婚約が整った。お相手を聞いた時、私は絶句した。
「クラウス・シュナイダー様ですか?」
「そうだ。武門の騎士家系だ。あの家は夫人が亡くなって、後妻もいない。女主人は娘らしいが、その内嫁ぐだろうし、お前もやりやすいだろう」
すでにもう決まった縁なのだ。私に言えることはない。
真っ先に思ったことは、嬉しいということ。マチルダ様と近しい家族となれる。
次に思ったことは、怖いということ。白百合同好会から、抜けなければならないだろうか。
夫となるクラウス様がどういった方かということは、まるで頭になかった。
「君が、ヘルガ嬢か」
「はい。クラウス様」
クラウス様は、朗らかで、笑顔が多い方だった。騎士であるので当然だが、体格が良く、威圧感もある。マチルダ様と同じ青い瞳で、髪は茶色が入った黒だ。
「君は白百合同好会らしいな。俺の妹が好きか?」
「は、はい……。お慕いしています」
クラウス様は驚くほど率直な言葉で私に問うた。どう思われるか分からないものの、私は正直に答えた。
「はは、別に責めるつもりはない。ただ分かってほしいのは、マチルダはああ見えて普通の女だ。君はマチルダより年下とはいえ、義姉になる。偶像としてのあいつではなく、マチルダ自身を近くで見て、家族として接してやってほしい」
クラウス様は兄として、マチルダ様を思いやっていらっしゃった。私はそんなクラウス様を好ましく思った。
白百合同好会では幸いなことに、マチルダ様と親戚となれることを羨ましく思われるだけで、特に私に対する扱いは変わることがなかった。これまで通り同好会に参加し、マチルダ様を応援する。
マチルダ様とも、お話する機会が増えた。最初は彼女の前に立つと挙動不審になったものの、ようやく普通にお話ができるまでになった。
知れば知るほど、マチルダ様は素敵な方だ。婚姻後は、同じ家に住まえると思うと、嬉しく楽しみだ。そう思っていたが——
「マチルダ様が、婚姻を?」
「まだ婚約者も決まってないけどな。父上が誰から吹き込まれたのか、いかず後家がいると嫡男が婚姻できないと思っているらしい」
珍しくクラウス様が暗い顔で報告してくださったのは、マチルダ様が婚姻を目指されるという話だった。マチルダ様は、しばらくは婚姻するつもりがないと言っていた。私たちの婚姻のために、婚姻を決めたということだ。
私のせいでマチルダ様へ負担がかかるなど、許されざる事態だ。私は真っ青になる。
「まぁ、確かにあいつも男爵令嬢である以上、ずっと婚姻せずに騎士を続けるのは難しいだろう。しかし、俺たちのために焦って話を整えるのもなぁ」
「それでは、私たちの婚姻を早めては?」
私たちが婚姻してしまえばマチルダ様が早く婚姻しなければならない理由はなくなる。元々一年後に婚姻を結ぶ予定だったのだ。早めても問題ない。それから、ゆっくりマチルダ様に相応しい男性を選べばいいのだ。
「いや、父上は頑なになっていてな。確かに、妙齢の女兄弟がいる家に、嫁が来ると良くないという風潮はわが国にはある。しかし、マチルダに関しては、ヘルガとも関係が悪くないし、あいつも仕事をしているから、君とぶつかることなどないと言っているが」
「そうです。まさか私がマチルダ様と衝突など!」
「うん。しかし、父上が決めたことに俺が口出しするのも限度がある。せめて良い縁を持ってきてくださればいいが」
クラウス様の懸念は、悪い方に的中した。
シュナイダー男爵が持ってきた縁談はことごとくマチルダ様と破滅的に合わないものばかりだったのだ。
女性を見下す男。女性と不健全な関係ばかり結ぶ男。そして、マチルダ様に合わせた愛の表現ができない幼稚な男。
マチルダ様を知っていれば、彼女がどれだけ素晴らしい女性か分かるが、何も知らない人間であれば、三度も婚約直前で話が流れた女騎士というだけで、二の足を踏んでしまうだろう。マチルダ様に良い縁談が来る可能性は大きく減ってしまった。
私は未来の義父とはいえ、シュナイダー男爵が憎らしくなった。
そんな中、クラウス様は随分と晴れやかな表情で私に告げた。
「ヘルガ。ようやくお前と婚姻できる。マチルダの婚約者が決まりそうだ」
「本当に?どなたですか?」
「はは。お前はいつだってマチルダが一番だな。驚くぞ。エリアス・ボーリンガーだよ」
クラウス様が告げた名前は、思わぬ人物だった。
「ボーリンガー伯爵ですか?そ、その……とても冷酷なお方だと聞きましたが、マチルダ様は大丈夫でしょうか」
「そんなことはない。エリアスは俺の寄宿生時代の友人だが、いい奴だよ。まぁ変わってるのは確かだがな。マチルダのことも気に入ったみたいだったから、大丈夫だろ」
クラウス様は私の言葉を冷静に否定した。私は、クラウス様とボーリンガー伯爵が友人とは、意外な組み合わせだと思った。
ボーリンガー伯爵は、有名な人物だ。
まず、その類まれな美貌。彼を一目見れば誰もが必ず目を奪われる。絵画でも表現できないと言われるその姿は、多くの人を惹きつけてきた。
そして、伯爵は大変聡明で優秀な方だという。陛下からその能力を買われ、側近として王城へ出仕するように乞われたという話は有名だ。しかし彼は、伯爵家を継承し、領地運営に専念したいと返答したとか。実際彼が伯爵となってから、ボーリンガー領はさらに発展しているという。
しかし、かの伯爵が有名な所以は、その美貌も能力も霞む、辛辣な性格である。
彼は貴族らしく迂遠な言い方を好まない。思ったことを率直に口に出す。しかし不思議とそれが許されていた。伯爵は高貴な方々との交流も多く、それもあってのことかもしれない。
彼の妻の座を狙う令嬢に対しては特に容赦がない。
「それで?結局私にどうして欲しいんだい?」
「そ、その……ですから、また、どこかでご一緒できれば……」
「なんで私が君と?」
夜会ではこういった場面が良く目撃された。彼は伯爵でありながら独身で婚約者もいない。未婚の令嬢から見れば、この上ない優良物件だ。
「君、自分と私が並んで見劣りしないと思ってるんだ。家に鏡ある?」
ナイフのように尖った言葉は、遠慮もなく相手を斬る。彼女はぽろぽろと涙を流して去って行った。伯爵は気にした様子もなく飲み物を飲んでいた。
(彼女もよくあの方に近づくわ。なぜ自分は大丈夫と思うのかしら)
伯爵のこうした無神経な女性のあしらい方は、有名なものだった。相手を煩わしいと思っていることを隠しもしない振る舞いに、毒とも言える言葉。おそらく彼は女性が嫌いなのだろうと、噂は絶えなかった。
(あのような男性と婚約など……マチルダ様!)
私はあの怖い男性とマチルダ様が上手くいく様子がとても想像もできず、ただ案じるしかできなかった。
しかし、夜会の日。私は目を疑った。
「あれは……マチルダ様と、ボーリンガー伯爵……?」
「そうだな。エリアスはいつも通りだが、マチルダは別人じゃねぇか」
クラウス様はそう言ったが、私から言わせると、二人とも別人だった。
マチルダ様は、まさに女神だった。いつもの凛とした騎士服ではなく、見惚れるほど美麗なドレスを着ていた。青から紫へのグラデーションが美しいドレスは、金糸の刺繍で彩られ、マチルダ様の神秘的な魅力を最大限に引き出していた。
マチルダ様が実はスタイルが良いという話は他の女性騎士から聞いていたが、想像以上に出るべきところが出ていて、眼福だ。艶がある黒髪もいつもの一つ縛りではなく、波打つように整えておられ、それがより女神のような印象を際立たせた。
私にとって更に驚くべきは、ボーリンガー伯爵だった。マチルダ様をとろけるような表情で見つめ、柔らかく笑っておられる。マチルダ様への恋情を隠しもせず、周囲に牽制していた。あのようなお顔をされる方だとは知らなかった。
マチルダ様のドレスはボーリンガー伯爵の執着が良く読み取れるものだった。お二人の瞳の色に、伯爵の髪色の刺繍。マチルダ様を飾る装飾品は彼の瞳の紫で統一され、いかにもこの女性は自分のものだと声高に主張しているも同然だ。
(マチルダ様……!まさか伯爵がこのような束縛男だとは!本当にこの方を受け入れていらっしゃるの?)
クラウス様が躊躇なく二人に挨拶に行くと言うので、私は驚いた。マチルダ様とボーリンガー伯爵は二人の世界にいて、誰も近寄れない雰囲気となっていたからだ。
「俺たちが行かないと、多分あいつらずっとあのままだからな」
クラウス様はそう言って彼らに声をかけたのだった。
お二人は、明らかに思い合っていらした。
ボーリンガー伯爵がマチルダ様を溺愛していらっしゃるのは誰が見ても分かるほどだったが、マチルダ様もまた、ボーリンガー伯爵を愛していらっしゃるようだ。マチルダ様が伯爵を見る目は、友でも家族でもなく、愛しい恋人を見る目だった。マチルダ様をずっと見つめていた私には、その違いが良く分かった。
「クラウス様。私は安心いたしました。お二人が幸せそうで」
「そうだな。もうちょっと素直になれば、それこそ見てらんねぇような二人になるだろうな」
「素直に……?」
「あれ、無自覚だぞ。エリアスは分からんが、少なくともマチルダは自分の気持ちに気付いてない……というか、認識してない。まぁ、人の恋愛に口を出して馬に蹴られたくもないし、どうせあいつらも結婚するんだから、なるようになるだろ」
私はなるほどそうかもしれないと納得した。マチルダ様は確かに、そういったことに不慣れでいらっしゃる。ご自分の恋情に気付くことは難しいかもしれない。
「ヘルガ。そろそろ俺のことも考えてくれないと、寂しいぞ?」
逞しい腕に抱き留められ、私の思考は中断した。突然抱擁したクラウス様に、驚いてしまう。意外と寂しがりやな婚約者を、私もまた抱きしめたのだった。