6 くちづけ
ボーリンガー邸での耽美な時間は、これまでの私の日常とはあまりにかけ離れていて、私の中の何かを変えてしまったのかもしれない。幾日が過ぎても私の心はまだあのガゼボにあった。ふと彼の笑みを思い返し、私に触れたエリアスの手を思い返すと、頭は彼でいっぱいになってしまう。
(今日も屋敷で仕事をしているのだろうな)
手紙は頻繁にやり取りしている。数日前私から返事を書いたので、そろそろまたその返事が届く頃だ。私は彼の手紙が届くのを心待ちにしていた。
勤務を終え屋敷へ戻ると、自分の部屋の机に手紙があった。差出人はエリアス・ボーリンガー。私の口元が緩む。私は早速手紙の封を切ると、爽やかな香りが広がった。彼はいつも手紙に香りを付けてくれる。今日は柑橘系の香りだ。
手紙には彼の美しい筆跡で、たわいもない日常の話と、夜会の話などが書いてあった。
私は早速エリアスへの返事を書くことにする。机に向かい、筆を走らせた。
私の日常は、彼によって大きく変化していた。
「お前、何か変わったか?」
兄上が私をまじまじと見てそう言った。容姿のことを言いたいのだろう。
「エリアスから色々と助言をもらいまして、肌と髪の手入れをするようになりました」
「なるほどなぁ。いや、変わるもんだな。男前だった妹が、別嬪になってきた」
兄上は感心したように言った。そこまで率直に言われると気恥ずかしくなる。
「エリアスが恥をかかないためにも、夜会までに仕上げられるように努力しています」
「お前ら案外気が合うんだな。上手くやってるみたいで何より。ヘルガが夜会でお前に会えるのを楽しみにしてたが、俺も楽しみになってきたよ」
兄上は朗らかに笑いながら、私の肩を雑に叩いて去っていった。兄上もヘルガ嬢とは順調らしい。
私はドレスを着て社交の場に出るのは初めてだ。エリアスを信じていない訳ではないが、不安は消えない。私は自分が女性らしくはないことを知っている。普通の令嬢と比べると骨格が華奢ではないし、筋肉もあるのだ。
(気持ちとしては試合の方がまだマシだ)
夜会では自分が着飾った珍獣のようになるのではないかと内心恐れていたのだった。
それからもエリアスと手紙をやり取りし、仕事に励む毎日を過ごす。周囲の関心も他の新鮮な話題に目移りしている。以前ほど注目されていると感じることは減っていた。そうして気が付けば夜会の前日となった。
久しぶりに彼と対面できる。どこか浮足立った気持ちで、勤務を終えた私はボーリンガー家へやってきた。
「マチルダ様、ようこそお越しくださいました。旦那様もお待ちです」
ポールは私を歓迎して中へ案内してくれた。玄関ホールへ入ると、中ではすでにエリアスが私を待っていた。彼はいつもよりシンプルな出で立ちで、満面の笑みで私を出迎えた。
私は彼に駆け寄りたい衝動に駆られたが、思いとどまった。
「マチルダ、久しぶりね。会いたかったわ」
「エリアス。私もだ」
「ふふ。ゆっくり話したいところだけど、あなたは今日、体をしっかり休める必要があるわ。夕食だけ一緒に食べましょう。後はうちのメイドに従って」
今日は彼とたくさん語らえると思っていたがそういう訳ではないらしい。私は思ったより落胆していたよ
うだ。彼は秀麗な顔を私に近づけた。
「そんな顔しないで。明日はずっと一緒よ。私があなたの化粧をするから」
「あ、あぁ。すまなかった」
突然近づいたエリアスの顔に私は心臓が止まりそうになった。彼はそんな私を見て口元を緩めると、エスコートの手を差し出した。ふんわりと香る彼の香りに、突然私は自分の体臭が気になりだした。
「エリアス、今日私は騎士団からそのままここへ来たから汗を流していないんだ。埃も付いているだろうし……」
「なに言ってるの、マチルダ。全然気にならないわ。淑女は大人しく紳士にエスコートされるものなのよ」
エリアスが茶目っ気まじりにそう言うので、私は彼に従う他なかった。
二人で会話を楽しみながら夕食をとると、あっという間に彼が決めた就寝時間に近くなる。彼が寝るようにと言うので、私はメイドに案内され、湯あみをすることになった。
ボーリンガー家のメイドが皆そうなのかは分からないが、彼女たちは美に精通している者ばかりのようだ。いつもシュナイダー家でしているように自分で肌の手入れをしようとすると、彼女たちはそれを止め、代わりに良く分からないものをたくさん塗りたくられた。なぜかそのままマッサージをされ、産毛まで剃られたので驚いた。
「マチルダ様、明日ドレスをお召しになるのですから、見える部分はこのように手入れをするのです。ご自分ではできませんから、私たちにお任せください」
「そ、そういうものなのか」
「はい」
私は抵抗することは諦め、彼女たちに身を任せることにした。目に温かいタオルを置かれ、ただリラックスする。そうしている内に、いつの間にか眠っていたのだった。
「可愛い子」
エリアスの声だ。これは夢だろうか。
「こんな気持ち、今まで知らなかった」
頭や顔を優しく撫でられている。その手は、とても心地良い。
「お願いだから、私から離れていかないで」
唇に何か柔らかいものが触れた気がする。彼の唇だろうか。
口づけなど他の誰でも嫌だが、エリアスが相手なら全く嫌じゃない。でも、彼が私にそんなことをするはずがない。これはきっと夢だろう。
(あなたから離れるはずなどない。ずっと共にいよう)
その言葉を口に出したかどうかは定かでなく、私の意識はまた深く沈んでいった。
目が覚めると見知らぬ天井だったので、一瞬戸惑ったものの、すぐにここがどこかを思い出し、同時に夢の内容も思い出してしまった。
「私は何という夢を」
男性に口づけされる夢など、未婚の令嬢が見るものではない。私は煩悩を振り落とすように頭を振ると、ベッドから降りた。
部屋に置いてあった簡易のドレスを身に付け、扉を開ける。しばらく廊下を歩いていくと、窓からガゼボが見えた。
「マチルダ様、もうお目覚めでしたか」
「ポール。早すぎただろうか。騎士団は朝が早いので、癖のようなものだ。庭を散策してもいいか?」
「屋敷の中はお好きに過ごされてください。朝食の準備まではまだ時間がありますから」
許しを得たので庭に出ると、爽やかな風が頬を撫でた。土を踏む感覚が、私の頭を目覚めさせる。上半身を伸ばし、深呼吸すると、体がすっきりとした。
私は一体どうしたというのだろう。エリアスと出会ってから、どこかおかしくなってしまった。触れられると心拍数が上がり、何でもないときに彼のことを考えてしまう。挙句の果てに夢にまで見るとは。これでは、まるで……。
「マチルダ、おはよう」
「エリアス」
私が振り向くと、エリアスが立っていた。彼の金髪が朝日にきらめいていて、神秘的だ。
「ぼろが出るといけないから、今日は朝から男の言葉でいくよ」
「そうか。私はエリアスの言葉に慣れてしまったから、あなたが男性らしいとむしろ変な気分になるかもしれない」
正直な感想を言うと、エリアスは、はははと笑い、手を出した。私は自分の手を重ねる。彼は不意に私を引き寄せた。
「女性の言葉でも、女性の服を着ていても、私は間違いなく男だよ。可愛いマチルダ」
いやに艶やかに彼が言うので、私はまた赤面してしまう。
「あ、あなたはなぜ、そのような……!そんなこと、分かっているさ」
そんな私の様子を見て、彼は満足そうに笑った。
女性の支度がここまで大変だとは、知らなかった。
夕方からの夜会なのに、日が高い内から準備が始まったので驚いた。昨日に引き続き、私はされるがままだ。
「素晴らしいスタイルですわ、マチルダ様。コルセットは不要なぐらいですが、一応つけておきます。あまり絞める必要もありませんが」
「そ、そう、か」
絞める必要がないと言いながらぐいぐいと圧迫される。本当に手加減しているのかどうか怪しいものだ。
ドレスを着用すると、次は髪と化粧らしい。私は今自分が身に付けたドレスを見下ろした。私の体形に合わせた一点ものなので当然だが、とても自分に合っている。生地も高級感があり、さすがに一流店のものだ。
髪はまとめて流すようにセットするようだ。エリアスがそう指示したという。数人のメイドが魔法のように私の髪を整えていく。購入した髪飾りを付けると別人のようになった。髪型というのは大きく印象を左右するものだと実感する。
「私たちはここまでです」
「そうなのか。色々とありがとう。助かったよ」
メイドたちはここで退室するようだ。昨日から彼女たちにはかなり世話になった。彼女たちは私の礼に恐縮するようにして、部屋を出て行った。
(化粧はエリアスがしてくれると昨日言っていたな。私は大丈夫だろうか)
彼に顔を近づけられ、触られて平静でいられるか不安だ。
そんなことを思っていると、当のエリアスが部屋に入ってきた。彼はすでにパーティー向けの装いとなっている。いつものたおやかな印象はなく、男性的な印象である。彼は私を見ると、目を細めた。
「うん、想像以上だね、マチルダ。綺麗だよ」
「エリアス、あなたもだ」
「それは知っているよ。さぁ君を、私がもっと美しくしてあげる」
エリアスは私の前に座ると、道具を横に広げた。すごい量だ。彼はこの種類の化粧品を使いこなしているらしい。
彼は器用に私の顔に化粧品を塗りだした。彼がじっと私の顔を見て、端正な顔が近付く。平静心を保つためにも、私は両目を閉じた。
「見違えた。毎日ちゃんとケアをしてたんだね。よく分かる」
「エリアスの横に並ぶのだから、真剣になるさ」
「私って、本当に美しいから。君には苦労をかけるな」
エリアスの軽口に私の口元が緩む。彼が言うと嫌味には聞こえない。
ひたすら彼に見つめられながら、何とも面映ゆい時間が過ぎていく。自分の顔は今どうなっているのだろう。気になるが、目の前にエリアスの顔があると思うと、目を開けるのが気恥ずかしい。
「マチルダ、目を開けて」
「あぁ」
彼に言われてゆっくりと目を開けると、目の前でエリアスが優しく微笑んでいた。彼は手元の鏡を私の方へ向ける。そこには、見たことのない令嬢が映っていた。
「自分じゃないみたいだ」
「まだ完成していないよ。最後は口紅。どの色が良いかな?赤やピンクといっても、色んな色味があるからね」
彼はそう言って、たくさんの紅が入った容器を私に示した。私は普段化粧をしない。色を見ても、正直良く分からない。
「すまないが、私には選べそうもない。エリアスに見立てて貰えれば助かる」
「そう言うと思ったよ。そうだね、これなんかどう?」
エリアスは紅を一つ取ると、私に見せてくれた。それは血のような赤だった。この色を今の顔にのせれば、どのような仕上がりになるか、ピンとこない。
「あなたが選ぶなら、きっとそれが良いんだろうな」
「透き通る赤だよ」
そう言って彼は自身の唇にその紅を塗った。私は彼の行動に目を丸くする。
「エリアス?何を」
彼は唇を赤く染めると、口元に弧を描いた。艶やかになった彼に、私は思わず目を奪われる。
「ふふ、ごめん。つい」
エリアスはそう言うと、そのまま私に口付けた。私は、思わず瞳を閉じた。
どれぐらい、唇が重なっていたのだろう。一瞬のようにも、数分のようにも感じた。彼はゆっくり唇を離す。目を開けると、彼の深い紫はまだじっと私を捉えていた。
「——あぁ、やっぱり、その色が似合うわね」
彼の紅が移った私の口元に指を添わせ、陶然と、彼はそう呟いたのだった。