3 初めてのおでかけ
家に帰ると、嬉しそうな父上からボーリンガー家から縁談の申し込みがあったと報告された。すでに本人と王城でお会いしたと言ったら、更に喜んだ。
「どこで伯爵に見初められたのだ。クラウスを通して連絡があったときは驚いたし、是非令嬢と婚姻を結びたいと言われるものだから、まさか人違いをされているのでは、と真剣に悩んだぞ。本当に良かったな」
父上はどうやら、熱烈に私が望まれていると思っているようだ。実情は違うが、嘘でもない。エリアスはどうやら、周囲にはそういう体で通すつもりらしい。
(たしかに普通の令嬢だったら、彼とは婚姻できまい)
見目麗しいが、自己愛者。愛せないから自分に期待するなと言い放つのだ。通常の夫婦関係を築きたいと願っている女性ならば、耐えきれないだろう。
(私にとっては幸運だった)
私と彼は似たもの同士。きっとうまくやっていけるだろう。
今日は私のドレスを仕立てる日だ。
エリアスが迎えに来たので出ていくと、彼は私を見て愕然とした。
「ちょっと。一応デートでしょ。その恰好はないんじゃない?」
「そうですか?一日歩き回るなら、動きやすい服装がいいのかと」
私は一応よそ行きのズボンとシャツを着用している。みっともない恰好でもないはずだ。エリアスは繊細な刺繍が施されたコートに、仕立ての良さそうな紺のズボンとベストを着ている。今日も一分の隙もなく彼は美しい。
「白百合の君とデートする令嬢なら喜ぶだろうけどさ。まぁいいや。まずドレスだ。馬車に乗って」
エリアスが自然に手を出したので、不思議に思っていると、一拍置いてエスコートの手だと気が付いた。彼の手に自分の手を重ねると、彼の手が非常に綺麗なことに驚いた。
(私の手の何と無骨なことか)
それに彼からは良い匂いがする。自分のような女がこの人の婚約者など、何かの冗談のような話だ。
「マチルダ。君、ちゃんと手にクリームとか塗ってる?剣ダコとかは仕方ないけど、ケアしてたらもうちょっとマシなはずだよ」
馬車が走り出してから、エリアスは私に問いかけた。先ほど手を合わせたときに気になったらしい。
「クリームですか?いえ……持っていませんから」
「持ってない!?信じられない。髪とかもクラウスと同じので洗ってるとか言わないでよ」
「あ、あの……ご推察の通りです」
彼は目を見開いて絶句した。何が悪いのか良く分からない。
「そんな適当なケアで、この仕上がりを保っているのが奇跡だね。いいか?とりあえず夜会まででいいから、今日私が買うもので毎日自分の体を労わるんだ。そして、夜会前日から我が家に来て。ドレスの着付けも化粧もウチでするから」
「はい。承知しました。よろしくお願いいたします」
彼は流れるような口調で私に指示を出した。私の状態は彼の美的感覚からすると我慢ならないようだ。
我が家に侍女と呼べる人材はいない。甘えられるならその方が良いだろう。私が素直に受け入れると、彼は不思議そうな顔をした。
「マチルダって、私がこんなに言いたい放題でも怒らないんだね。クラウスもそうだけど」
「エリアス殿のご指摘はもっともなことでしょう。私は淑女としての常識に欠けていますから、教えていただけるなら有難いです」
令嬢たちは常に自分を磨き、自身を綺麗に着飾っている。私は母がいないことを言い訳にそれらを学ぶことを避けていたが、いつまでもそうはいかないことは分かっていた。同僚のエマなど、女騎士であっても美に気を使っている者もいるのだ。
私がそう言うと、彼はふうん、と呟き、それきり何も言わなかった。
最初に到着したのはドレスショップだった。私でも聞いたことがある店なので、有名店だろう。エリアスと店内へ入ると、オーナーらしき女性が現れて個室へ案内された。予約してくれていたらしい。
「今日はこの子のドレスだよ」
「伯爵はどうなさいますか?」
「私は今日はいい。この子、私の婚約者なんだ。似合うのを見立てたい」
エリアスはこの店の常連のようだ。彼は衣装にこだわりがあるようだし、普段からこういった高級店で仕立てているのだろう。適当に商人に仕立てさせる父上と兄上とは大違いだ。
まだ私たちは正式に婚約した訳ではないはずだが、そこは訂正する必要もないかと思い直す。
「そうでございますか!まぁ素敵なお嬢様ですこと。まず採寸ですわね」
マダムに促され、エリアスが一旦退室すると、私はお針子たちに体中を採寸された。丸裸にされているようで気恥ずかしい。採寸中、なぜか『奇跡……』『このウエストでこの胸囲……?』などと呟かれるものだから、余計だ。
「素晴らしいプロポーションですわ!人違いでしたら申し訳ございませんが、お嬢様はシュナイダー嬢でいらっしゃる?」
「はい。マチルダ・シュナイダーと申します」
なぜマダムが私のことを知っているのか疑問に思っていると、マダムは手を叩いて喜色満面になった。
「やはり!誰とは申せませんが、顧客のお嬢様方からよくお名前を聞いておりました。曰く、美しい黒髪でキリリと凛々しいご令嬢がいると。同性なのにドキドキするのだと仰ってましたわ。是非お会いしたいとかねてより思ってましたの。なんと、ボーリンガー伯爵の婚約者様で、当店でドレスを仕立てられるとは。腕が鳴りますわ!」
おそらく白百合同好会の令嬢だろう。あずかり知らぬところで自分の話をされていることを知ってしまうと、何とも言えない気分になる。
マダムは張り切った様子でサンプルと思われる布をめくりだした。
試着用の簡素な服を着たところで、エリアスが再度入室した。彼は手にドレスの見本帳を持っていた。
「マチルダは背が高いから、ふんわりしたラインよりもすっきりしたラインが似合うと思うんだよね」
「伯爵、私もそう思いますわ。お嬢様はスタイルが大変良い方ですので、コルセットも必要ないぐらいです。パニエを中に入れないドレスにしても着こなせると思います」
「色は……黒髪だから、赤?うーん、瞳の青も似合うな。あ、でも私の色を入れた方がいいもんね。紫も入れて」
「それでしたら、グラデーションにしたらいかがでしょう?青から紫のグラデーションにして、金糸で刺繍を入れては?伯爵の髪色ですし」
「いかにも私がマチルダを溺愛してるみたいに見えていいね」
彼らはサンプルを私の体に当てながら、ドレスの構成を考えている。私が何か口を挟む間もなく、勝手に決まっていく。
彼らのイメージに近いデザインのドレスを試着するように言われたので、お針子たちに着付けしてもらい着用する。彼の前に出ると、エリアスは驚いたように私を見た。
「ん?マチルダ。君、普段サラシでも巻いてるの?」
「はい。訓練や警備の時は、邪魔ですし」
「じゃあさっきも巻いてた?」
「そうですね。巻かないと目立ちますので」
恐らく胸部のことを聞かれたので答えると、エリアスは手を頭に当てて黙ってしまった。このドレスのデザインは私の胸のサイズが良く分かってしまうので、彼もサラシに気づいてしまったのだろう。
「マチルダ。これからは、騎士服以外の時はサラシを巻いたら駄目だ。体に悪い」
彼がなぜか赤面しながら言うので、私まで恥ずかしくなる。
「は、はい。承知しました」
「マダム、このデザインは駄目だ。もう少し、その……」
「はい、ではこちらはどうでしょう?お嬢様のスタイルを生かしつつ、お胸の部分はフリルで目立ちません」
マダムの薦めるデザインのドレスを試着したところ、エリアスも納得したので、細部を微調整しつつこのデザインで仕上げていくことになった。
「マダム。既製服の取り扱いもあるよね?彼女がこれから着るものも購入したい」
「ではお持ちしますわ」
「な、エリアス殿?」
「サラシを巻かねばならないような服は着ない方がいい」
マダムが街歩きに向いた簡素なドレスを持ってきてくれた。その中から数点購入し、一つはこの場で着て帰ることになった。どれもシンプルで私が一人でも着られそうなドレスだ。サイズも問題ない。
私の着替えが終わりエリアスの元へ行くと、既に会計が済まされていた。そのまま流れるようにマダムたちに見送られ馬車に乗り込む。
「マチルダ。家で過ごすときは今日買ったような服を着ればいい。胸を潰すほどぎゅうぎゅうにサラシを巻くなんて、体調も悪くなるし本当は勤務中もやめたほうがいいんだけど」
「はい……」
兄上の言う通り、エリアスは面倒見が良い人物のようだ。しかし婚約者というより、母や姉のような感じがする。
しばらく馬車に乗ると、装飾品の店へ着いた。格式高い店構えであるし、ここも高級店だろう。ドレスに合わせた飾りを購入するようだ。
「ボーリンガー伯爵、お持ちしておりました」
「今日は彼女のものを選びにきた」
先ほどと似たようなやり取りをした後、店の奥へ案内される。こんな店は来たことがない。彼はどこまでも私と世界が違う人間のようだ。本当に婚姻しても大丈夫か不安になってきた。
案内された椅子に座ると、値段が分からない飾りがたくさん運ばれてきた。
エリアスはじっくりと商品を吟味して、店員にいくつかの商品を見たいと伝えている。店員は手袋をはめて、商品をケースから取り出した。
「これなんかいいんじゃない。君の雰囲気に合うよ。さっきのドレスにも」
彼が選んだのはイヤリングだった。自分で鏡を見ても似合っているか良く分からないが、小さな紫の石が入っていて可愛らしい。
「揺れると光って素敵ですね」
エリアスは私にイヤリングを付けて、私の顔をまじまじと見つめている。
「うん。綺麗だね」
「ありがとうございます」
美しいエリアスが満足そうに褒めてくれたので、嬉しくなって私ははにかんだ。
「あら、笑うと可愛いわ」
小声で聞こえたのは確かにエリアスの声だった。私は耳が良いのだ。
彼は自分の呟きが聞こえていないと思っているのか、今は違う飾りを選んでいる。
(今聞こえたのはエリアス殿の声だったが、女性の口調だった)
男性でありながら美に精通し、女性の口調を操り、人を愛することはないと断言する。
(そうか。そういう訳だったのだな)
私は彼の事情を概ね察したのだった。
装飾店で数点飾りを購入すると、次に着いたのは化粧品店だった。ここも例にもれず高級店である。
「君は日頃のケアをしていなさすぎる。まず、顔用の化粧水、乳液。ハンドクリーム。体用のクリームは絶対だね。あと、日焼け止めも。そして髪だ」
慣れた様子で次々と商品を選び、説明をしてくれる。世の令嬢は普段からこのように部位ごとに商品を使い分けているらしい。彼自身も毎晩丁寧に自身の手入れをしているという。私はいかに自分が何もしていないかを突き付けられた気がした。
「私の美は、日々の手入れの賜物だよ。元々の素材の良さは言うまでもないけどね」
「はぁ……」
彼はぶつぶつと私に説教する。彼の隣に立つのだから、私にも相応の美意識を持ってほしいだろう。彼は何だかんだと言いながら、洗髪剤を選びだした。洗髪剤はいくつか種類があるという。
「これは君が好きな香りで選びなよ。結構重要だから」
エリアスはそう言うと、香りのサンプルを差し出した。いくつか香りを試すと、その中に一つエリアスの匂いに似ているものがあった。
「これ、いい匂いです。似た香りがエリアス殿からふんわり香ってきて、素敵だと思ってました」
私はそう言って、その商品を選んだ。
「マチルダ、君って、凄いね……」
エリアスは顔を背けた。心なしか頬が赤くなっている。
「どうしました?顔が」
「何でもない。じゃあそれで良いんだね」
彼はそう言うと、選んだ商品を持ち、会計を済ませてしまった。
化粧品店を後にして、馬車に乗り込むと、すぐに走りだした。
「エリアス殿。せめて化粧品は私が使うものですから、支払いは持ちます」
今日はドレスに始まり、普段着や装飾品、化粧品もすべてエリアスが支払ってしまった。値段は分からないが、高価であることだけは間違いない。
「いいよ。マチルダとは婚姻するんだし。今日買ったのはすべて君に必要なものばかりだ。それにボーリンガー家からすると大した出費でもない。私も日常的に使う額だから」
私と伯爵であるエリアスでは金銭感覚が違うのだろう。どうすべきか逡巡していると、エリアスは突然、私の手を取った。
「すごく努力しているんだね、マチルダ」
エリアスは私の手を優しく撫でてそう言った。
彼は先ほど購入したクリームの蓋を開けて、それを私の手に塗りだした。突然男性から触れられ、私は動揺する。
「エ、エリアス殿!自分でやります」
「君って案外、自分の扱いを適当にしてそうだよね。ほら、分かる?こうやって丁寧に労わるんだよ。まぁ手を洗うたびにここまでしろとは言わないけど。寝る前はせめて、全身を丁寧に労わってやりなよ」
私の、傷跡が残りひび割れて固くなった手を彼は優しく扱った。彼の優美な手が、私の手を手入れする様は、恐れ多い気さえする。
「こことか押すと、気持ちいいでしょ」
エリアスはそのまま、なぜか手のマッサージを始めた。ぐい、ぐいと手の甲や手の平を押している。とても心地よく、気持ちが良い。なぜ彼はこのようなことをしてくれるのだろう。
「エリアス殿は、優しいですね……」
「そんなことないよ。なぜだろう。何となく君には、お節介を焼きたくなってしまうみたい」
「その率直な物言いも、私には有難いです。私は言葉の裏を読みとることが苦手なので」
彼は口端を上げると、おしまい、と言って手を離した。何となく体がすっきりした気がする。
「有難うございます。エリアス殿」
私がそう言うと、彼は少し不満そうな顔になった。
「私は勝手に君を呼び捨てにしているんだから、君ももっと砕けた口調でいいんだよ。エリアス、と呼べばいい」
私には難しい注文だ。騎士は上下関係が叩き込まれているのだ。彼は婚約者候補とはいえ、伯爵閣下である。そして私はただの男爵令嬢だ。
私はふと、彼に伝えることがあることに思い至った。
「あの、エリアス殿も私にはお気遣いされる必要はありません」
「どういう意味?君に気遣ったことなんてほとんどないと思うけど」
「先ほど、聞こえてしまったのです。エリアス殿が、女性のような口調で呟いてらっしゃるのを。普段はあのような口調でしたら、私の前ではそのように話してくださって構いません。一応婚約者になる予定ですし」
私がそう言うと、彼は表情をなくしてしばらく黙り込んだ。しばし馬車の中に沈黙が落ちる。彼は髪を耳にかけ、フッと笑った。
「あぁ、もうばれちゃったの。あなた耳が良いのね。どうやって言おうか悩んでたのが馬鹿みたいじゃない」
「エリアス殿……」
「だから、マチルダ。私のことはエリアスって呼んでよ。私、家族になる人にかしこまられたくないのよ。あなたとは知り合ったばかりだけど、結構気に入ってるわ」
エリアスの女性口調は、不思議と違和感がない。見た目は貴公子なのに。
彼がここまで言ってくれているのだ。私も対応を改めることにした。この彼ならできそうな気がする。
「私も、エリアスのことは好ましいと思っている。すまないが、この口調が素なんだ」
「ふふ、何それ。本当、私たち変な二人だと思わない?そうそう、この馬車、今はボーリンガー家に向かってるの。私は屋敷でこの口調のことを告白しようと思ってた」
彼はきちんと私に筋を通すつもりだったのだ。変に彼を追い詰めてしまったらしい。
「それは、すまなかった。私は気になることがあるとすぐに解決したくなってしまうんだ」
「いいわ。実は柄になく緊張してたのよ。あなたに軽蔑されて、婚約がなくなっちゃったら落ち込むしね。あなたから切り出してくれたから良かったのかも」
「軽蔑など。私こそ、女性としてあり得ないとあなたに思われたことだろう」
「なんでよ。マチルダは騎士として頑張ってるんだから、淑女のことは知らなくても仕方ないわ。私が教えてあげる」
そう言って笑ったエリアスの笑顔は妖艶と言えるもので、なぜか私の鼓動は早くなった。