20 通じ合う
エリアスに会いたい。
彼と目を合わせて、ちゃんと話がしたい。
彼は今、何を思っているのだろう。何を感じているだろう。
今日もエリアスは夕食の時間を過ぎても帰ってこない。私は彼の部屋にいた。彼と話をするために。エリアスが帰って来るまで、何時まででも待つつもりだった。
窓の外を眺める。彼の部屋に入って既に数刻が過ぎていた。
(こんなに遅くて、体は大丈夫だろうか)
扉の方から、静かに物音がした。きっとエリアスだ。扉の方を見ていると、ゆっくりと扉が開き、エリアスが入ってきた。
「エリアス」
「マチルダ……?なぜ、私の部屋に。こんな遅くまで起きていたら駄目じゃない」
エリアスは驚いたように言った。自分はこんな時間まで外出していたのを棚上げして、私を咎める。
「あなたと話がしたかったんだ」
私がそう言うと、エリアスは表情を曇らせた。
「明日にしましょう。今日は遅いし、寝るべきよ」
「嫌だ。ようやく会えたのに」
「マチルダ。あなた自分が何をしているか分かっているの?こんな夜更けに、男の部屋にいるなんて」
「何度もこんな事はあったじゃないか。夜に二人きりで過ごしていた」
エリアスは私から目をそらし、下を向いた。
「あなたは、私の気も知らないで」
「エリアス、あなたに聞いてほしい話があるんだ」
「嫌よ!聞きたくない」
エリアスは私を拒絶した。でも、私は引き下がるつもりはなかった。
「お願いだ、エリアス。あなたに、聞いてほしい。私の話を。私の……気持ちを」
私の懇願に、彼は答えなかった。ただ、私に目を合わさず、椅子へ座った。
私は彼の横に座り、エリアスの手を取った。自分から彼に触れるのは初めてかもしれない。彼は少し驚いたように私を見た。
「私は……これまで、男に囲まれて生きてきた。女性らしく振る舞う術も知らず、それで良いと思って生きてきた。でも、婚姻しろと父上から言われた時、自分は女なのだという事実を突き付けられた気になった」
エリアスはただ俯いている。話を聞いてくれるようだ。
「婚約者候補はこれまで三人もいた。彼らは皆、悪い人間ではなかったと思う。でも彼らは見ても私は何とも思わなかった。夫となる人だというのに、彼らの内心を知りたいとは思わないし、彼らが私に触れるのは嫌だと思った。破談となったときは、毎回安堵した。こんな風にしか感じられないのだから、きっと自分はどこか欠陥があるのだと思った」
「そんなことない」
エリアスは私を見てそう言うと、はっとしたようにまた下を向いた。
「有難う。エリアス」
やはり彼は優しい人だ。私のことを思いやってくれている。
「あなたと初めて会ったときは衝撃的だった。あなたのようにはっきりと物を言う貴族は初めてだったし、こんなに綺麗な男性が存在するとは知らなかったから。そして、あなたは言った。自分は人を愛せない性質だと。妻が自分に愛されることを期待する人物なら面倒だと。そして、私を愛することはないと」
彼は瞳を閉じた。長いまつ毛が揺れている。
「私はそんなあなたなら、上手くやっていけると思った。自分と同じような男性がいたのだと嬉しくさえ思った。でも、あなたの事を知り、あなたと過ごしていく中で……私は、あなたを愛おしく思うようになった」
エリアスは顔を上げ、信じられないといった表情で私を見た。
「一人でいるときはあなたが恋しいし、あなたに会えると嬉しい。あなたをもっと知りたいし、笑顔でいてくれると嬉しい。触れられると、もっと……ずっと、そうしてほしいと思うまでになった」
正直な気持ちを彼に伝えたい。私が彼に抱く思いを、知って欲しい。
「私はそんな感情が沸き上がる度に、あなたに告げられた言葉が頭をよぎった。この気持ちをもしあなたに知られれば、どうなってしまうのだろうと恐ろしくなった。あなたから煩わしいと思われ、遠ざけられると思うと、耐えられない。だから……自分の感情に向き合うことを避けていた」
彼に口づけされて、私は嬉しいと同時に怖かった。自分の中で止めどなく溢れる恋心が、自分をみっともなく彼に愛を乞う愚かな女にしてしまいそうで。
「あなたへの愛を見ないフリをして、ただの利害が一致した友人として、隣にいたいと思っていた。でも、もうそんなことは不可能だ。私はもう、あなたを、どうしようもなく愛してしまっているのだから」
私の目尻からは、涙がこぼれる。
「あなたから愛されることは期待しない。でも、私があなたを愛することを、どうか許してほしい。私はあなたの隣であなたに降りかかるあらゆるものから、あなたを守りたい」
私はエリアスの手に、口づけをした。
「エリアス・ボーリンガー殿。どうか、私の心を受け取ってくださいますか」
エリアスは何も言わなかった。私が顔を上げると、彼は静かに涙を流していた。
「もうとっくに、私の心はあなたのものよ。マチルダ……今まで苦しめて、本当にごめんなさい」
「エリ、アス……」
「私も、あなたを愛してる。誰よりも」
彼は私に向き直り、私に向かってそう言った。どくどくと、心臓が早鐘を打つ。エリアスが、私を愛してくれている。本当に?
「あなたは本当にかっこいい子ね。あなたが私を守ってくれるの?私も、あなたを守りたいわ。あなたを苦しめる全てのものから」
ぽろり、とまた彼の美しい瞳から涙がこぼれた。
「あんなことを言ってしまった自分を、殺してしまいたいぐらい何度も後悔した。あなたを愛していると自覚しても、あんなことを言い放っておいて、あなたに愛を告げられるはずがない。自業自得で苦しんでいた私は良いけれど、あなたまで苦しめていたと思うとほんと度し難いわ」
彼は恐る恐る私を抱き寄せた。ゆっくりと優しく私の髪を撫でる。
「愛してる。あなたといると、心が安らいで、嬉しくて……すぐにあなたに触れたくなる。私は自分が一番美しくて有能だと思ってきたけど、本当はこんなに愚かだったとあなたと出会ってから知った」
エリアスの腕の中で、彼の香りに包まれながら、私は心底安堵した。心地いい。自然と彼の背に腕を回す。
「嬉しい。どうしよう。こんなことってあるの?」
彼は私の顔を見つめると、ゆっくりと私の涙を指でふき取って、微笑んだ。
「マチルダ、私を愛してくれて有難う」
「あなたを愛さずにいられるはずがない」
私たちはそっと、お互いの唇を寄せた。何度も、何度も。
「あなたが、私の髪を触ってくれるのが好きだ」
「ふふ。なんて可愛いの。私はあなたにとにかく触れていたい」
エリアスと体を寄せ合いながら、私たちはしばらく愛を囁き合った。気持ちが通じ合うというのは、なんて幸せなことだろう。お互いの愛おしいところを伝え、愛を確かめる。こんなに満たされることがあるなんて知らなかった。
「この二日間、何を思っていた?」
彼に聞きたかったことだ。離れている間、何を思っていたのだろう。
「あなたに遂に愛想をつかされたと確信して、逃げてしまった。あなたから、別れの言葉を聞きたくなくて。本当情けない男だわ。仕事をしながら、ずっと、あなたのことを考えてた……どういう風に、私を捨てるのかと。あなたが部屋にいたときは、遂にこの時がきたかと思ったわ」
「あなたから離れるはずなどない」
エリアスはどうも、私が彼から離れることを想定しているようだ。どうすれば信じて貰えるだろう。私がずっと、彼の隣にいたいのだと。
「……早く婚姻したい」
「マチルダ」
彼は目を見開いた。
「そうすれば、私も……安心だ。殿下に、あなたを取られないで済む」
愛しい彼の頬に、そっと手を添える。
エリアスが婚姻を急ぐのは、私にとっても嬉しいことだった。彼に私だけの夫になって貰える。ヒルデガルド王女が彼の妻になっている姿を見て、平静でいられる自信などないのだから。
「それは反則よ。マチルダ。もうあなたを帰したくなくなっちゃう。隣の部屋にさえ」
彼の瞳にはいつもと違う光が宿っていた。ぞくりとする。エリアスになら、何をされても構わない。
「それも、いいかもしれない」
婚姻前に男女の関係になることは褒められたことではないが、婚約していれば、ままあることだ。
彼は逡巡するように私を見ると、また私を抱き寄せた。
「駄目。私はあなたを大切にしたいの。そういうことは、ちゃんと夫婦になってからと……マチルダはいつだって、私の理性を試すわね。もう駄目だわ。あなたは部屋に戻って」
エリアスはいつも、私のことを思いやってくれているのだ。分かってはいても彼の言葉にどこか残念な気持ちになりながら、私は立った。
「……そうだな。エリアス、明日からはずっと一緒にいよう」
「そうね。マチルダ。ずっとずっと」