2 美貌の伯爵からの提案
「マチルダ、ヨハネスとも駄目だったらしいな」
「兄上。もうご存じでしたか」
ヨハネスとの話し合いから数日。家でくつろいでいると兄上から気遣うように声をかけられた。
「父上が残念がっていた。あいつもどうしようもないやつだ。すまなかったな」
兄上はいつも朗らかな顔を少し歪めてそう言った。ヨハネスは兄上と同じ団の後輩。彼との婚約の話はその縁もあって出た話だった。
「いいえ、ただ奴とは縁がなかっただけのこと。それよりも、兄上。このままでは、兄上の婚姻に支障が出ます」
「お前が気にすることはない。父上が何と言おうがずっと家に居てもいいんだ。マチルダはシュナイダー家の娘なんだから」
私は首を振った。兄上の好意に甘えているばかりではいけない。
「ヘルガはお前に憧れているし、本当に何の問題もないのだがな。むしろお前が家にいると飛び上がって喜びそうだが」
兄上の婚約者殿であるヘルガ嬢は、私を慕う女性達で集まった同好会のようなものに加入している。いつも私に好意的で、可愛らしい令嬢だ。
「偶像として憧れを持つのと、小姑として同じ家に暮らすのは全く意味が違うでしょう。私はもう二十歳。家を出ても、一人で暮らしていけます」
「マチルダ、お前まさか一人で暮らすつもりか?絶対駄目だぞ。お前は女だ。危ないだろうが」
兄上は驚いたように反対した。一人暮らしはヨハネスとの婚約が流れたときから考えていたことだった。
「騎士団に女子寮はありません。家を出るならばそれしかないですから。それに、私は曲がりなりに騎士。自分の身は自分で守れます」
兄上は私をじっと見ると、ため息をついた。
「お前は言い出すと聞かないからな。……しばし待て。今度は俺が、お前の相手を見つけてやる」
「もう私に婚姻は無理だと思います。三度もまとまらなかったのです。同じ騎士でさえ受け入れられなかったのですから」
「大丈夫だ」
兄上こそ、言い出したら聞かない性格だ。しかも、兄上も父上も私が婚姻できると信じている。しばし私は逡巡する。
「私は、色恋はどうも苦手です。急に相手の態度が変わっても戸惑いますし、どんな反応をすれば正解かも分かりません」
私は正直な本音を吐露した。夫となる人とは婚姻という契約に則った関係を築くことができれば良いと思うが、それが一般的な感覚ではないことは分かっている。
「私は正直、彼ら三人に恋情を抱くことができませんでした。努力はしたつもりですが、良く分からなかったのです。彼らに魅力がなかったとも思いません。私のそういった態度も、婚姻に至らなかった一因です。私には、婚姻は難しいと分かりました」
「つまり、そういうものをお前に求めない男ならいいんだな?」
兄上は腕を組み、満足そうにうなずいた。
「俺に心当たりがある。父上に相談しておこう。また何かあれば報告する」
そう言うと、兄上は足早に去っていった。私は彼を止めることもできず、ただ茫然とするのだった。
それから、特に兄上と父上から事態の進展を報告されるでもなく、数週間が過ぎた。そろそろ、家を出た後の部屋を探す頃合いかもしれない。それとも、もう一度兄上と話をすべきか、と考え始めていた。
鍛錬場で剣の素振りをしていると、同僚の女騎士のエマが近付いてきた。
エマはランゲ子爵家の三女だ。彼女は既に平民出身の騎士と婚約している。社交的な性格で、私が騎士団で一番親しい女性だ。
「マチルダ。ヨハネスのこと聞いたわ」
「あぁ、そういうことだ。もう結婚などを目指すことはやめて、私はこの道で生きることにした」
ヨハネスとの破局は隠しているわけでもないので、すでに多くの人が知るところになっている。私は額の汗をぬぐいながら彼女に笑いかけると、場外から歓声が聞こえた。
「あぁ、マチルダのファンね。白百合同好会だっけ?相変わらずモテるわね」
歓声の主は、私を慕う同好会の令嬢たちだ。彼女たちは毎日のように鍛錬を見学に来て、熱心に私の一挙手一投足を見守っている。飲み物やタオルを差し入れしてくれることもある。さすがに警備業務の日は遠慮してもらっているが。
「可愛らしい令嬢たちに憧れられるのは嬉しいよ。彼女たちは私という安全な相手だからこそ疑似恋愛しているのだ。絶対に不埒なことは起こらないからな」
私はそう言いながら、笑顔を作って彼女たちに向けて手を上げた。更に歓声が起きる。
「そういうものかしら。私にはファンなんていないけど。あ、そうそう。クラウスさんが時間が空けば第二へ来るようにと言ってたわよ」
「兄上が?」
第二は兄が所属している団で、王都の治安維持が主任務である。私は第三で、主に要人が外出する際の警護が任務となる。ちなみに第一は王城警備だ。
私は素振りをやめると、鍛錬場を後にした。
兄上のいる第二騎士団は、王城の隅に詰所がある。私は速足で歩きながら、第二の詰所へ向かう。兄上は今日、詰所当番だったはずだ。
(要件があるなら家で話せば良いと思うが)
釈然としないと思いながら、詰所に付くと、扉を開けた。
「第三のマチルダ・シュナイダーです。入室いたします」
詰所に入ると、中では兄上と貴族らしき男性が談笑していた。兄上は私を認めると、手招きして座るように促した。私はとりあえず椅子の前で立ち止まる。
「マチルダ、すまないな。こいつが今日たまたま王城に来ていたから、お前も会っておいた方がいいと思ってな」
「今日は非番で鍛錬だけですので構いませんが……失礼ながら、そちらは?」
兄の向かいに座っている人物を見ると、そこには見たことがないほど美麗な男性が座っていた。きらめく金髪に、深い紫の瞳。肌は滑らかで、男性ながら手入れをされた容姿であることが分かる。騎士団には存在しない人種だ。
このような人物であればさすがに記憶に残るはずだが、全く記憶にないということは完全な初対面だろう。
「こいつはエリアスだ。エリアス・ボーリンガー。お前、エリアスを知らないとは。本当に貴族令嬢か?」
兄上は呆れたような顔でこちらを見る。どうやら彼は有名人らしい。ボーリンガー。その家名には聞き覚えがある。伯爵家だ。
「マチルダ嬢。エリアス・ボーリンガーといいます」
「ボーリンガー様。私はそこにいるクラウス・シュナイダーの妹で、第三騎士団に所属しております、マチルダ・シュナイダーと申します」
私は騎士の礼を取って挨拶した。エリアスは面白そうに紫の目を細めた。
「淑女の礼じゃないんだ。君、男爵令嬢でしょ」
「恐れながら、私は今、騎士服をまとっておりますので」
へぇ、と返して彼は眉を上げ、兄上を見た。
「マチルダ。こいつはボーリンガー伯爵で、俺とは寄宿生時代に知り合った友人だ。エリアスはこの見た目で、伯爵。しかも独身。令嬢からどこに行っても追いかけられている、今をときめく人物だ」
「そうでございますか……」
彼は明らかに自分とは別世界の人間である。思わず生返事となった。
「喜べ。エリアスとお前は婚約することになった」
私は兄上の言葉を消化するまでに丸々三秒かかった。
「は?」
「本当は父上から話すつもりだったんだが、今日エリアスが王城に来るっていうだろ。こいつもお前に会いたいって言うもんだから、こんな形になった」
「そりゃ、私だって自分の婚約者の顔ぐらい見たいよ」
和気あいあいと二人が話している横で、私は事態が飲み込めずにいた。婚約?私が、この煌めいた方と?
「あの、ボーリンガー様。私はこのような成りですし、とてもあなた様の隣に立てるような女では……」
「うん、そうかもね。でも君、素材はいいんじゃない?まぁ貴族の婚姻なんてお互いの利益を考えて結ぶものでしょ?」
私は目を丸くする。この方は随分はっきりと物を言う方のようだ。一応フォローらしき言葉はあったものの、私の言葉を一切否定しなかった。
「我が家とボーリンガー家が釣り合うほどの利益があるとはとても」
「はは!そりゃそうだ。シュナイダー家が出せるのは筋肉を効率的に作る知識ぐらいだしな」
兄上が豪快に笑いだす。
「シュナイダー家から利益など見込んでいないよ」
「では……」
彼の言う互いの利益とは何なのだろう。私の疑問は顔に出ていたのか、エリアスは私に向き直った。
「マチルダ嬢。これは他言無用で願いたいんだけど、私は人を愛せない性質のようでね。自分が一番好きなんだ」
「ご自分が、一番ですか」
確かに彼ほどの美貌なら、自分が一番になっても仕方がないだろう。やや面食らいながらも私は相槌を打つ。
「しかし、貴族として婚姻したという事実は必要だろう。養子を取るにしても、やはり世間体を考えれば婚姻している方が望ましい。しかし、妻になる人が私に愛されることを期待する女性なら、面倒だ。多少悩んでいたところ、クラウスから君のことを打診された」
綺麗な唇から紡がれる自己中心的な言葉に、私は納得した。
彼は貴族当主としての責任と世間体のために婚姻したいが、妻となる女性は彼が自分が一番であることを理解してくれる人でないと難しい。
つまり、私が色恋のあれこれと全く無縁だからこそ、婚約したいと言うことだろう。
「私とは形として婚姻できればよろしいと?」
「そうそう。君はどうやら生粋の騎士なようだし、婚姻した後も騎士を続けたらいい。社交もする必要ないよ。期待してないからね。そして私は既婚者という立場を手に入れられて、煩わしい令嬢から絡まれることもなくなる。なんせ、君は“白百合の君”だ。誰からも文句はないだろう」
白百合の君とは、私を慕う令嬢たちが言い出した言葉だ。私が白い騎士服を着て佇む姿が百合のようだということが由来らしい。自分には過分な二つ名だと思っている。
「クラウスから聞いたよ。君はもう好いた惚れたはもう嫌なんだろ?私は君を愛することはない。だから、安心して婚姻するといい」
彼は絵画のような微笑みをたたえている。何とも不思議な口説き文句であるが、私には魅力的な言葉だ。
(この方なら、ご自分を一番愛しておられるから私に余計な劣等感を抱くこともない。他の令嬢とおかしな真似をすることもないし、私を好きだと言って何かを求められることもない。騎士も続けられて、家族が納得した形で家も出られる……)
私にとってはかなり有益な話に思われる。こんなに都合の良い話は今後ないだろう。そこでふと、この場に兄上がいることに考えが及ぶ。
「あ、兄上。ボーリンガー様のおっしゃることは、承知されていましたか?」
「エリアスがこういう奴だって知ってるのは、俺ぐらいだぞ。父上はもちろん知らん。でもお前が一人暮らしを強行してしまうよりは、ボーリンガー家で住まう方が良い。エリアスはこんな奴だが、意外と面倒見が良くていい奴だ。まぁお前が嫌になったら離婚すればいい。出戻りなら、実家にいようがうるさく言う奴は減るだろ」
婚約を結ぶ前から離婚の話など、兄上も中々非常識ではあるが、エリアスが何も言わないのなら問題ないのかもしれない。
「マチルダ嬢。納得した?」
「はい、ボーリンガー様。私などでいいのでしたら、よろしくお願いいたします」
「うん。私のことはエリアスと呼んで。私たちは婚約者となるんだ。仲がいいと思われた方がいい。今度の夜会に一緒に出よう」
「夜会ですか?あの、エ、エリアス殿。私はドレスを着用した方が?」
一月後に行われる夜会のことを言っているのだろう。たしか私も招待されていたはずだ。
ドレスは一応持っているが、夜会に出られるようなドレスは持っていない。これまでの婚約者候補と夜会に出席したことはなかったし、ドレスを贈られることもなかった。出席する時は騎士の正装で出席していたのだ。
「当然でしょ。私が騎士と連れ立ってたらおかしいじゃないか。あぁ、ドレスなら、今度一緒に見に行こう。君に任せていたらとんでもないドレスになりそうだし」
「良かったなマチルダ!エリアスが金を出してくれそうだぞ」
兄上はどこまでもエリアスに失礼だ。私はどう返答するか迷う。エリアスの見立てたドレスなど、とんでもなく高価に違いないのだ。
「私の美意識の問題だから、君は気にするな。変なドレスを着た女を婚約者だと喧伝するのが嫌なだけだ」
彼は事も無げに言う。彼の言葉に嘘はなさそうだ。これは遠慮する場面ではないのだろう。
「それでしたら、お言葉に甘えさせていただきます」
「うん。じゃあ君の予定を教えて。シュナイダー家に迎えに行こう」
私はエリアスに今後の日程を伝え、彼の予定とすり合わせる。次の休みにドレスを見に行くことになった。
「じゃあ、その日は一日空けておいて。色々見に行こう」
そう言って彼は帰っていった。