【15】 恋に舞い上がる
エリアス視点はこれで終了です。次回からマチルダに戻ります。
自分の恋心を認めてしまうと、彼女に放った自分の言葉が重い足かせとなる。
——私は君を愛することはない。だから安心して婚姻するといい。
あの時は、彼女を安心させるために必要な言葉だと判断した。実際、彼女はあの言葉が決め手となって婚約を了承したのだ。
(あんなことを言っておいて、愛しているなんて言えない。まずマチルダに私を愛して貰うように努力しないと)
これまで、そのような努力をした経験がない。
守りたいものを守れる自分であるようには努力してきた。
守りたいものとは、自分自身であり、家族であり、家門であり、領地だった。
自分らしくあれる場所だった。
このような情熱が自分にあるなんて、夢にも思わなかった。
いきなり私が愛を囁くと、彼女は戸惑うだろう。怯えてしまうかもしれない。私から離れていってしまうかもしれない。
それだけは、絶対に避けたい未来だった。
夜、思い余って彼女が眠る客室へ入ってしまう。マチルダはすやすやと眠っていた。
規則正しく息をする彼女を見つめていると、愛おしさでいっぱいになる。私は気持ちを抑えきれず彼女の頬を撫でた。
一旦触れてしまうと、美しい黒髪も愛でたくなる。彼女を撫でていると、マチルダは心底気持ちよさそうに口端を上げた。
「可愛い子」
あなたのすべてが好き。私のマチルダ。
「こんな気持ち、知らなかった。……お願いだから、私から離れていかないで」
衝動に突き動かされ、彼女の唇を奪った。欲望を抑えきれず、なんて狡い男だろう。私は初めて、自分を嫌悪した。
「あなたから離れるはずなどない。ずっと共にいよう」
「……っ!」
起きていたのかと驚いたものの、彼女は眠ったままだ。
(眠っていても、あなたは私を受け入れてくれるのね)
マチルダへの恋情はより深く、大きくなっていく。
マチルダへ化粧を施す時間は、至福の時だった。
私が顔を近づけじっと見詰めると、彼女は恥ずかしがるように瞳を閉じた。ほんの些細なことも、胸の奥がうずく。
(こんなに人を愛おしいと思えるものなのね)
私のこの手で、マチルダを美しくしている。彼女の眉を整え、おしろいをはたき、頬紅を付ける。なんて甘美な時間だろう。口紅を塗ろうとしたところで昨夜のことを思い返す。
(意識があっても、受け入れてくれる?あなたを愛している私を)
その思い付きは、私にとって抗いがたい誘惑だった。
私の紅を、口づけで移す。彼女は拒否することもなく、私を受け入れた。同じ色の唇になった彼女を見ると、私の心は喜びで満たされた。
しかし、マチルダは私の恋心に気付くことはない。単純に驚き戸惑っている様子だった。
喜びに満ちていた私の心は、すぐに後悔へと変わった。
(マチルダに合わせなければと分かっているのに)
夜会ではマチルダの美しさを見せびらかしたいのと同時に、男どもが彼女を見ることは腹立たしかった。奴らは今日、彼女がこのように美しくしかも女性らしい体形であることを知ってしまったのだ。
不愉快な連中が寄ってくるかもしれない。あのヨハネスとかいう騎士のように。
(早く、早く婚姻したい)
王女のことなど、もはやどうでも良い。名実ともにマチルダを自分の妻にしたい。
マチルダからフランク殿下から指名の護衛依頼があったと報告の手紙を貰ったときは怒りと焦りが出た。
フランク殿下と私にまつわる噂については、把握していた。王族に対してまで不遜な態度を取るほど常識がない訳ではないので、彼に対しては敬意をもって対応していただけで出た噂だ。しかし訂正するのも面倒で放置していた。独身を貫く場合に、ある意味都合の良い噂だとも思ったからだ。
しかし、マチルダはどう思うだろう。殿下は間違いなくマチルダを疎ましく思っている。マチルダのせいで王女と私の婚姻は頓挫するだろうからだ。殿下は恐らくマチルダへ辛く当たるだろう。
彼女はきっと気が付くはずだ。私のせいで、王族から不興を買っていると。
そして、彼女が殿下の態度に、噂との一致を感じたら?私と殿下がただならぬ関係だと信じてしまったら?
マチルダには、誤解されたくない。
そもそも、マチルダはこんな面倒な男と婚姻する必要はないのだ。もっと常識的な人間性を持って彼女を愛する男は山のようにいるだろう。彼女がそれを知らないだけだ。
私だけが、彼女でないと駄目なのだ。
私のことを煩わしいと思うかもしれない。それでも、マチルダは優しいから、婚約をやめるとは言わないだろうか。
フランク殿下の元へ行くと、彼の近衛が扉の外に立っていたので驚いた。つまり殿下はマチルダを彼の隣に配置しているということだ。中に入ると、執務室は殿下とマチルダの二人きりだった。
(何を考えているの、この男は!マチルダは私の婚約者よ)
フランク殿下がマチルダを大女と呼んだ時、私は怒りで目の前が真っ白になるような感覚になった。王族に対する礼儀など忘れ去り、彼にまくし立ててしまう。
しかしマチルダは冷静だった。彼女は自分に対する悪意も好意も意に介さない。だからこそ、同性から恋情に似た思慕の念を向けられても平然としているし、殿下から辛辣な態度を取られても取り乱さない。
他人から自分がどう思われているかということは、彼女にとってきっと重要なことではないのだ。
馬車の中で、なぜそんなに婚姻したいのかとマチルダに聞かれたとき、ついに彼女は私を見放したかもしれないと絶望したくなった。しかし彼女は単純に疑問に思っていただけのようだ。
マチルダが疑問に思うのは当然のことだ。彼女は私が婚姻を焦る理由の九割も把握していないのだから。
(あなたを、愛しているから。早く私の妻になってほしい)
とても言えない。愛することはないと断言しておきながら、そんな恥知らずな真似はできない。
彼女から失望されるのが恐ろしい。
(私はこんなに憶病な人間だったの)
ヒルデガルド王女の件を伝えると、一応彼女は納得したようだ。
しかし、これにより更に私の気持ちが伝わることは困難になってしまった。王女降嫁を防ぐために私が彼女を大切にしていると思ったに違いないからだ。
できれば殿下の護衛など即刻やめてほしい。あのように彼女を愚弄されるのも我慢ならないし、殿下のような女性受けの良い男の隣にマチルダが四六時中立っているなど、気が気でないのだ。しかも彼女は殿下について尊敬できる人だと言う。
しかし、騎士としての自分に誇りを持ち、その責任を果たしたい彼女は、最後まで仕事をまっとうしたいと考えているだろう。私が止めるように言ったところで彼女は困るだけだ。
マチルダが望んでいるのに、私が足枷になるべきではない。
それならばせめて、何かあったとき、私に頼ってほしい。私が、あなたを守りたい。
あなたは私の、誰よりも大切な人だから。